高倉天皇皇子 後堀河天皇御父 太上天皇 守貞親王(後高倉院)鵺塚陵墓参考地 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年4月3日(月)参拝】

 

仲恭天皇の次代は後堀河天皇なのですが、その前に、後堀河帝の御父守貞親王を辿らないと皇統が続きません。

 

月輪南陵参拝時にも簡単に触れていますが、被葬候補者まで述べていませんでしたのであらためて。

 

月輪南陵の西隣に鵺塚陵墓参考地(出土遺物埋納所)、秘塚陵墓参考地(出土遺物埋納所)があります。両陵墓参考地はもともと岡崎公園内にあったものを、昭和30年のグランド拡張によりここに移葬された。それにより「陵墓参考地」の指定を解除され、その出土遺物が宮内庁管轄地である仲恭天皇九条陵の敷地内に移葬されたとの事です。

 

鵺塚陵墓参考地 被葬候補者:守貞親王後高倉院) 所在地:京都市東山区本町15

 

               

 

               

 

               

 

守貞親王(もりさだ しんのう)は、鎌倉時代前期の皇族。高倉天皇の第二皇子であり、母は坊門信隆の女・殖子(七条院)安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め持明院宮(じみょういんの みや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)を名乗ったが、子の後堀河天皇即位すると、治天の君として異例の太上天皇号を奉られ法皇として院政を敷いた。薨去の後に後高倉院(ごたかくら いん)の院号が贈られた。

 

乳母は平知盛正室の治部卿局。平家の許で育てられた縁から、寿永2年(1183年)7月の平家の都落ちにの際には安徳天皇の皇太子に擬され、天皇と共に西国へ伴われる。平家滅亡時に救出されて帰京するが、都では既に後鳥羽天皇即位していた。

文治5年(1189年)親王宣下を受け、建久2年(1191年)に元服・加冠。後に持明院基家の女・陳子を妃とし、持明院家ゆかりの持明院を御所として持明院宮を号したが、皇位の望みもない不遇な運命を嘆いて建暦2年(1212年)3月に出家。法名・行助を名乗った。

ところが8年後の承久3年(1221年)に起きた承久の乱によって行助の運は一変する。乱後鎌倉幕府は仲恭天皇廃位するとともに後鳥羽土御門順徳3上皇を配流とし、後鳥羽上皇の後裔のことごとくを配流・出家・臣籍降下させて、その系統による皇位の継承を認めない方針をとった。これによって世俗に在る男子皇族が行助の三男・茂仁王のみとなったのである。そこで幕府は直ちに茂仁王を即位(後堀河天皇)させるとともに、不在となった治天の君にはその父である行助に太上天皇号を奉り、これを法皇として院政を敷かせることにした。皇位に即かず、しかもすでに出家している入道親王に太上天皇号を奉って治天に副えるというのは全く先例のない措置だったが、後鳥羽系の皇族が一掃された以上、他に選択肢はなかったのである。

治天となった行助入道親王は、乱後の朝廷内の混乱を収拾や公武関係の融和に実績を残したものの、わずか2年で腫物を患って薨去。北白河に奉葬され、「後高倉院」の院号を贈られた。(参考文献:ウィキ抜粋)

【系譜】

妃:持明院陳子(北白河院)(1173-1238) - 持明院基家

 ・第一皇女:利子内親王(式乾門院)(1197-1251) - 伊勢斎宮四条天皇准母

 ・第三皇子:茂仁王(後堀河天皇)(1212-1234)

 

 

【秘塚陵墓参考地】 被葬候補者:守貞親王(後高倉院)皇女 尊称皇后利子内親王

 

               

 

利子内親王(としこないしんのう、建久8年(1197年) - 建長3年1月2日(1251年1月25日))は、鎌倉時代の皇族。伊勢斎宮。のち四条天皇准母・皇后宮、女院。院号は式乾門院。法名は真性智。父は後高倉院守貞親王、母は持明院陳子(北白河院、持明院基家の女)。同母弟に後堀河天皇、同母妹に安嘉門院邦子内親王(後堀河天皇准母・皇后宮、女院)がいる。

嘉禄2年11月26日(1226年12月16日)、30歳で内親王宣下を受け、同母弟後堀河天皇の斎宮に卜定。安貞元年4月29日(1227年6月14日)、左近衛府へ初斎院入り。同年9月24日(11月4日)、野宮へ移る。同2年9月19日(1228年10月18日)、伊勢へ群行。寛喜元年(1229年)4月、准三后。貞永元年10月4日(1232年11月17日)、後堀河天皇退位により退下。天福元年2月5日(1233年3月17日)、帰京。同年6月20日(7月28日)、甥四条天皇の准母として皇后宮に冊立される。延応元年11月13日(1239年12月9日)、病により出家し、同日女院となる。建長3年1月2日(1251年1月25日)、55歳で崩御。(参考文献:ウィキ抜粋)