第83代 土御門天皇 金原陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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【平成28年12月15日(木)参拝】

 

最寄りは阪急「長岡天神」から阪急バスで「金ヶ原口」。

               

バス停から南西方面に道なりに200m程行くと右上に「0.3km土御門天皇陵」の標識があり、その角には「御陵道改修奉仕記念碑」がありました。

               

 

               

 

土御門(つちみかど)天皇陵 御陵名:金原陵 陵形:八角丘
所在地:京都府長岡京市金ヶ原金原寺

 

               

 

               

 

               

 

               

 

               

 

               

 

               

 

 御陵前には説明板が設置されています。

 

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年12月2日(1196年12月23日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。

後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(実は法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子

 

建久9年1月11日(1198年2月18日)、父・後鳥羽天皇譲位により3歳で践祚。立太子はしていなかった。同年3月3日(4月10日)、即位。事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、退位を迫り、承元4年11月25日(1210年12月12日)、異母弟の順徳天皇譲位し、同年12月5日(12月22日)、上皇。

京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では正治元年1月13日(1199年2月9日)に源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。

承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移された。鎌倉幕府も後鳥羽順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。その地は、現在の阿波市御所で、土御門上皇行宮址と刻んだ石碑がある。

寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。

一説には日蓮宗の開祖日蓮は、この土御門天皇皇胤であると言われている。

【系譜】

中宮:藤原(大炊御門)麗子(陰明門院)(1185-1243) - 大炊御門頼実

典侍:源(土御門)通子(?-1221) - 源通宗

 ・邦仁王(後嵯峨天皇)(1220-1272)

 

(2016年11月11日Wikipedia引用)

 

平成29年4月27日追記

二尊院 三帝陵