第77代 後白河天皇 法住寺陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成28年11月2日(水)参拝】

 

時代はいよいよ源平合戦~平家滅亡と戦乱の平安末期に入って来ました。

 

絶好の小春日和、京都タワーも朝日に照らされて輝いています。

今日は、平安末期に於いて、長きに渡り院政を行った後白河院の御陵へ行ってきました。

最寄り公共機関は京阪「七条」駅なのですが、自分は「京都」駅から歩きました。

               

京都駅からは東に徒歩15分程で三十三間堂に到達、御陵はその東向かいの法住寺境内にあります。

 

               

法住寺                                    御陵参道入口は法住寺北側から

 

               

 

               

基本土日は閉まっていますのでご注意!

 

後白河(ごしらかわ)天皇陵 御陵名:法住寺陵 陵形:方形堂
所在地:京都府京都市東山区三十三間堂廻り町

 

               

 

               

 

               

ここも鳥居は無く寺院風御陵。

 

               

「道」が朝日の光でくっきりと浮き出ています。

 

               

板塀がいかにも京都らしくて良い!

 

               

                                       塀の向こうに見えるのが法華堂(方形堂)

元々は現法華堂の北側に平滋子妃の法華堂があったとされていますが、現在は痕跡すらありません・・・発掘すればなにか出てくるのでしょうか?                                                                  

 

 入口の向こうに見えるのは三十三間堂。

 

 

法住寺

 

               

竜宮門(旧御陵正門)

 

               

               

                                      左が御本尊御朱印、右が後白河院御朱印

 

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇平清盛木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。

大治2年(1127年)9月11日、鳥羽上皇中宮藤原璋子の第四皇子として生まれる。中御門宗忠は「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」と評した。 11月14日、親王宣下を受けて「雅仁」と命名される(『中右記』)。2年後に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始された。保延5年(1139年)12月27日、12歳で元服して二品に叙せられる。院政開始後の鳥羽上皇藤原得子を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳帝中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

雅仁の最初の妃は源有仁の養女・懿子だったが、康治2年(1143年)、守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する。次に妃となったのは藤原季成の女・成子で、2男4女を産むが、終生重んじられることはなかった。

久寿2年(1155年)、近衛天皇崩御すると、自身の第一皇子であり、美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で即位した。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。 本来、新帝践祚 → 即位 → 立太子の順で行われるものが、新帝の即位式以前の同年9月に鳥羽法皇主導によって守仁の立太子が行われたことも後白河天皇即位の性格を示している。10月に藤原公能の娘である藤原忻子が入内し、その翌年には皇子を生むことなく中宮に立てられているが、崇徳上皇後白河天皇にとって公能は母方の従兄弟にあたり、崇徳上皇に好意的とみられてきた公能ら亡き待賢門院(璋子)の一族(徳大寺家)を新帝の後ろ盾にする意味があった。保元元年(1156年)、鳥羽法皇崩御すると保元の乱が発生した。この戦いでは後見の信西が主導権を握り、後白河帝は形式的な存在だった。乱後、信西は政権の強化に尽力し、保元新制を発して荘園整理・大寺社の統制・内裏再建などを行う。

後白河院の寵愛は、専ら上西門院の女房・小弁局(平滋子)にあり、皇后・忻子や女御・琮子は全く無視されていた。三条公教(琮子の父)・徳大寺公能(忻子の父)も相次いで死去しており、後白河院と閑院流の関係は疎遠になっていたと考えられる。

保元3年(1158年)、後白河帝は守仁に譲位二条天皇)。これは当初の予定通りであり「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)、すなわち美福門院と信西の協議によるものだった。父の所領の大部分は、美福門院と暲子内親王に譲られたため、後白河上皇は藤原頼長から没収した所領を後院領にして経済基盤とした。また、配流となった崇徳上皇を除いた待賢門院所生の兄弟関係を強めるためにわずか1つしか違わない同母姉の統子内親王を自分の准母(母代わり)として、後に上西門院の女院号を与えている。

二条天皇即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなど、朝廷内は三つ巴の対立の様相を見せるようになった。

この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し平治の乱が勃発する。12月9日夜、院御所・三条殿が藤原信頼・源義朝の軍勢によって襲撃され、内裏の一本御書所に幽閉される。結果、信西は殺害され信頼が政権を掌握するが、二条親政派と手を結んだ平清盛が武力で信頼らを撃破、後白河院政派は壊滅する。後白河院は乱の最中、幽閉先を自力で脱出して仁和寺に避難していた。この時、争奪の対象になったのは二条天皇であり、後白河院は信西が殺害され政治力を失っていたことから、ほとんど省みられていなかった。

乱後、後白河院は二条親政派の中心だった大炊御門経宗・葉室惟方の逮捕を清盛に命じる。 経宗・惟方は、藤原信頼とともに信西殺害の首謀者であり、その責任を追及されたものと推測される。これ以降、後白河院政派と二条親政派の対立は膠着状態となる。

 

永暦(1161年)9月3日、滋子後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産するが、その誕生には「世上嗷々の説(不満・批判)」があった(『百錬抄』)。15日、憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが二条帝により解官される。これ以降、後白河院は政治決定の場から排除され、国政は二条帝と藤原忠通の合議により運営されることになる。

後事を託した後白河院は、建久3年(1192年)3月13日寅の刻(午前4時頃)、六条殿において66歳で崩御した。

【系譜】

親王妃(贈皇太后):源懿子(1116-1143) - 藤原経実女、源有仁養女

 ・第一皇子:守仁親王(二条天皇)(1143-1165)

皇太后:平滋子(建春門院)(1142-1176) - 平時信女

 ・第七皇子:憲仁親王(高倉天皇)(1161-1181)

 

(2016年9月8日Wikipedia引用)

 

大河では松田翔太が後白河院をカッコよく演じてたのが記憶に新しい。