冷泉天皇女御 花山天皇生母 贈皇太后 藤原懐子 宇治陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成28年7月5日(火)参拝】

昌子内親王岩倉陵の後は叡山電車で出町柳~京阪で5度目の宇治陵参拝です…。
今回は懐子皇太后超子皇太后の二人同時というラッキーな参拝でした。(中にはこういうこともあっていいよね?)








制札には冷泉天皇皇后(女御)ではなく花山天皇御母として載っています。

藤原 懐子
(ふじわら の かいし/ちかこ、天慶8年(945年) - 天延3年4月3日(975年5月16日))は平安時代中期、北家の摂政藤原伊尹の長女。母は代明親王(醍醐天皇皇子)の娘恵子女王。冷泉天皇女御花山天皇生母

応和3年(963年)頃、皇太子憲平親王(冷泉天皇)に入内。康保4年(967年)冷泉天皇即位更衣、さらに同年女御宣下を受け従四位下。安和元年(968年)第一皇子師貞親王(花山天皇)を出産、同2年(969年)冷泉天皇退位により師貞親王が立太子。天禄3年(972年)父伊尹が亡くなる。天延2年(974年)従二位に進み、同3年(975年)31歳で薨去。永観2年(985年)、花山天皇即位皇太后を追贈された。

冷泉天皇の後宮には皇太子時代から正妃昌子内親王がいたが、狂気の夫帝を恐れて近づかなかった昌子内親王は子をもうけることもなく、女御ながら懐子冷泉天皇が在位中に一男二女をもうけた唯一の妃であった。ことに第一皇子師貞親王は伊尹という有力な外祖父を持つ皇子として立太子されたが、しかしその後伊尹は摂政太政大臣となりながらも外孫の即位を見ることなく49歳で死去、さらに懐子やその兄弟たちも相次いで他界する。その結果若い叔父義懐の他さしたる後見を持たなくなった花山天皇は、在位2年の短さで帝位を追われ、また円融天皇女御となった次女尊子内親王も自ら出家の後早世するなど、遺された子女はいずれも不遇に終わった。(参考文献:ウィキ抜粋)

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