天武天皇妃 大田皇女 越智崗上墓 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成27年7月18日(土)参拝】

一昨日の台風以降今朝までずっと豪雨。ようやく上がったと思ったら関西圏のJRは大混乱…。
最寄駅を9時40分に乗って着いたのが12時過ぎてましたよ!
そんなこんなで三たび掖上へ…。

今日は斉明帝ではなく天武妃で持統天皇の姉である大田皇女の墓を参拝です。

またこの長い石段を登らなければならない…。





天皇陵以外の制札のほとんどが古くなってかすれてたりする中、この制札は綺麗で丁寧!







 せっかくなので上まで登って斉明陵に参拝してきました!

斉明陵から大田皇女の墓が見下ろせます。


大田皇女(おおたのひめみこ、生年不詳 - 天智天皇6年(667年)2月頃)は、飛鳥時代の皇族。天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘。同母妹に鸕野讚良皇女持統天皇)。同母弟に建皇子がいる。
同母妹・鸕野讚良皇女とともに大海人皇子天武天皇)の妃となり、大伯皇女・大津皇子を生むが、夫の即位前に死ぬ。死亡当時大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたという。祖母・斉明天皇、叔母・間人皇女(天智の妹。孝徳天皇皇后)とともに葬られた。
同母妹・鸕野讚良皇女がのちに皇后となったことからみても、長生きしていれば天武の皇后となったかもしれない妃であった。大津皇子にとってこの母を早くに亡くしたことは、皇后所生の草壁皇子との後の対立を含め、人生に大きな影響を与えたと思われる。
2010年、奈良県明日香村の牽牛子塚古墳のそばから新たに石室が出土し、越塚御門古墳と命名された。『日本書紀』に記述されている斉明天皇の墓との位置関係から、一部では大田皇女の墓であることが決定的であると報じられた。(参考文献:ウィキ抜粋)

で、当然ながら、こっちも3回目。越智崗上墓から炎天下の中、1時間かけて歩いてきました。

越塚御門古墳
2010年10月中旬、牽牛子塚古墳周辺の発掘現場を埋め戻す最中、明日香村教育委員会の技師である西光慎治は、古墳の南東約20メートルに埋まっていた1メートルほどの石に人為的に割れた痕跡があったため、気になってその周辺を発掘したことが発見に繋がった。(参考文献:ウィキ抜粋)

今は埋め戻されていますが、この牽牛子塚古墳の南下側に越塚御門古墳があります。
以前来たときは白い紐で囲いをしてたのですが、今日行ったらシートが被せてありました。


6月6日に来たときはこんな感じでした。




大田皇女のあとは、やはり二上山に登らねばなるまいか…。

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