第31代 用明天皇 河内磯長原陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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【平成27年3月14日(土)参拝】

今日は朝から本降りの雨…。しかしお昼になってようやく上がってきましたので決行です。
前回、敏達陵の時は上ノ太子駅からはかなり離れていたので今日は車で行って来ました。
車を叡福寺南の太子和みの広場に置いて、まずは用明天皇陵へ!

用明(ようめい)天皇陵  御陵名:河内磯長原陵  陵形:方丘  考古学名:春日向山古墳
所在地:大阪府南河内郡太子町大字春日

最初に磐余池上陵(いわれのいけがみのみささぎ)に葬られたが、後に河内磯長陵に改葬されたという。(磐余池上陵の所在は不明

駐車場からは5~6分歩くとこの石碑が現れます。

しばらくすると御陵の杜が見えてきました。 そして階段を上がるとそのまま参道になっています。


どん詰まりが拝所への入り口です。


参道がそのまま拝所前につながっています。












用明天皇は第31代天皇(在位:585年10月3日 - 587年5月21日)。欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。また、高向王(寶女王(のちの皇極天皇)の最初の夫)の祖父とされる。和風諡号は、『日本書紀』では橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)、『古事記』では橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)という。 また、即位前の名称として大兄皇子(おおえのみこ)とも称する。
【系譜】
皇后:穴穂部間人皇女(泥部穴穂部皇女ともいう。欽明天皇の皇女、のち田目皇子の妃、佐富女王の母)
第二皇子:厩戸皇子(諡号は聖徳太子。上宮太子・豊聡耳皇子・法主王ともいう) - 推古天皇の皇太子・摂政
【皇居】
都は磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)。日本書紀によると磐余池辺雙槻宮は5世紀前半に履中天皇が造った磐余池のほとりに建設されたとされている。
2011年に天香久山から北東に数百メートルの位置にある発掘現場(橿原市東池尻町221)で古代の堤跡とその堤上の大型建物跡が発見された。周囲の地形は弧状になっており、人工的に造られた堤跡とみられる。池は平安時代頃まで存在したが、その後埋め立てられ耕作地として利用されている。堤跡上には東西4メートル、南北17.5メートル以上の大型建築物とその他の建物6つ、塀跡が見つかっており、磐余池辺雙槻宮である可能性が高いと報道されている。
【大連・大臣】
大連と大臣は、物部守屋と蘇我馬子がそのまま引き継いだ。

用明天皇から蘇我氏の血が入り、このあと蘇我氏と天皇家が最接近して行くことになるのです。

このあと、皇后穴穂部間人皇女と皇子でもある聖徳太子が眠る御廟へ行きます。