飯豊天皇(市辺押磐皇子王女 飯豊青皇女) 埴口丘陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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ペナントレース中は甲子園球場に出没しています!
奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成27年1月11日(日)参拝】

2015年一発目は飯豊陵からスタート!
今年も天皇陵巡りにお付き合い下さいませ!

飯豊陵へは王寺からJR和歌山線で行きましたので「大和新庄」駅が最寄駅。

                                     一番の最寄駅は近鉄御所線「新庄」駅。

飯豊(いいとよ)天皇陵  御陵名:葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ、『延喜式』諸陵寮には埴口墓)に葬られた。考古学名:北花内大塚古墳(前方後円墳・全長90m)
所在地:奈良県葛城市北花内
ただし『日本書紀』は「陵」と表記し、天皇扱いし、「墓」ではないことは注目される。




正式には天皇ではないのですが宮内庁の制札にはハッキリと飯豊天皇と謳っています。


一般拝所と特別拝所がかなり近い。







飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ、允恭天皇29年(440年) - 清寧天皇5年(484年))は、記紀に伝えられる5世紀末の皇族(王族)。履中天皇の皇女、または市辺押磐皇子の王女
第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。
『日本書紀』によれば、執政期間は短くわずか10箇月余りで、清寧天皇5年(484年)11月に薨去(実際は「崩」と表記し、天皇扱いにしている)。ただし、前後の清寧・顕宗天皇などの実在を否定する立場からは、執政期間がさらに数年に及ぶとの推定もある。なお、年齢については、『水鏡』に「御年四十五(45歳)」とあり、これに基づいて逆算すれば、允恭天皇29年(440年)の誕生となるが、どれだけ史実を反映しているかは不明である。

~女帝であったかなかったか~
記紀では天皇として認められていないが、後世の史書である『扶桑略記』に「飯豊天皇廿四代女帝」、『本朝皇胤紹運録』に「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記される上、偽書の『先代旧事本紀大成経』には「清貞天皇(せいていてんのう)」の諡号まであり、天皇の扱いとなっている。
明治時代から昭和20年までには「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていた。現在も宮内庁では「履中天皇々孫女 飯豊天皇」と称している。これは不即位天皇としての扱いである。   (参考文献:ウィキ抜粋)


【角刺神社】  所在地:葛城市忍海322
『日本書紀』によれば、清寧天皇の治世中にすでに億計尊(仁賢天皇)と弘計尊(顕宗天皇)は発見されており、後継問題は解決されていたが、清寧天皇崩御後に億計尊と弘計尊が皇位を相譲したため、飯豊青皇女が忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや、奈良県葛城市忍海の角刺神社が伝承地)で執政し、「忍海飯豊青尊」と称したという

飯豊陵参拝の後、執政の地「角刺神社」に寄ってきました。