自分なりに事実をまとめて解釈してみた。
生き方について考えることなんてほとんどないので、いい機会になった。
先日、小野田寛郎さんが亡くなった。
太平洋戦争後29年もの間終戦を知らず、フィリピンのルバング島の密林にひそんで命令に従い戦い続けた。
発見された当時、その眼光の鋭さ、立ち居振る舞いはまさに現役将校そのものであったという。
ただひたすら命令を全うし、ひとりで戦争を続けていたのである。
フィリピン派遣前、母親から「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げ、小野田家の名誉を辱めないで下さい。」と言われ短刀を手渡された。
1944年(昭和19年)12月31日ルバング島に降り立った。(当時22歳)
上官である横山陸軍中将より「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は戦い続けろ。」と命を受けた。
小野田さんは主力部隊が退却した後も敵地に留まり、スパイやゲリラ活動を行う残置諜者として訓練を受けてフィリピンに送られた。
1945年(昭和20年)8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、生き残った日本兵と共にルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に潜んで、ゲリラ活動を続けた。
同年9月家族には戦死と告げられた。
小野田さんの母親は新聞の見出しに目を疑った。
現地警察や日本政府、家族も現地に駆けつけビラ巻きや呼びかけを続けたが見つからず捜索は打ち切られた。
捕虜となったら自害しろという母の教えや残置諜者として生きて最後まで戦えという教えがアダとなった。
のちに小野田さんはこう語る。
「日本がアメリカに制圧され、家族を使って私を排除しようとしているんだ。その証拠に武装したフィリピン人が必ずそばにいるではないか。」と思ったという
任務遂行を胸に戦い続けた彼に29年の時を経て、当時の上官が解任の命を下したことで呪縛から解き放たれた。
1974年3月12日祖国の土を踏む。(当時52歳)
帰国後、日本を見た小野田寛郎さんの言葉
「私は戦場での三十年、生きる意味を真剣に考えた。
戦前、人々は命を惜しむなと教えられ、死を覚悟して生きた。
戦後、日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった。
覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である。
だが、死を意識しないことで、日本人は生きることをおろそかにしてしまっていないだろうか。」
今の時代に死を意識して生きるとか命を無駄にするしないとかではなく
本気で何かに取り組むことを忘れてはならない。という真意を感じた。
そこには世界から尊敬される日本人としての誇りが見えた気がした。
小野田さんは帰国してから政府からの見舞金を死んでいった仲間たちにと靖国神社へ寄付すると
「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」と批判され日本に居場所はなく、ブラジルへ移住。
牧場を営み、その後、日本に帰国し祖国の為に健全な若者を育成したいと小野田自然塾を開校。
自分のやりたかった人生をもう一度やり直し多くの子供や大人達に影響を与え、生涯を全うした。
みなさんは今さらという言葉を使ってはいないだろうか?
今さらと言って自分に言い訳をしてしまっていることがあった気がする。
極端な話にはなるが、密林の中で命を脅かされて30年過ごすことを考えれば、なにもかもまだ遅くない。
ちょっと頑張ろうという気にならないだろうか?
僕も小野田さんの残してくれた事実に影響を受けた一人。
小野田さんが必死で任務に費やした時間に感謝したいと思います。
人生の終わりに自分の人生が納得いくものであったと思える方が一人でも増えれば幸いです。
BENBE
田平
小野田さんのドキュメンタリー(動画)
http://www.youtube.com/watch?v=ZcFbQbs-Cg0
僕服屋なので、お店だけ載せときます!
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