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1944年10月12日太平洋戦争も末期近く、
アメリカ軍は台湾各地に航空決戦を挑んできた。
その火蓋が切られたのがこの日だった。
日本軍は勇戦に努めたが数を頼むアメリカ軍に衆寡敵せず一機、
そんな中、その空中戦の目撃者によると、一機の零戦が敵を制したが、
いつの間にか無念にも敵弾を受け尾翼より発火し、
爆発が寸時に迫る危機に至った。その零戦は急降下。
その真下には「海尾寮」という
大部落。このときこの零戦の兵士は思った。
今飛び降りたら自分は助かるかもしれない。
けれども何百戸という家屋は焼かれるであろう。
竹や木や土で造られた家屋は、一旦火がつくとすぐに火の海となる。
こう判断した兵士はすぐに機首を上げ上昇の姿勢に移った。
そして部落の外、東側に向かって飛び去り空中で爆発。
兵士は落下傘で飛び降りたが不幸ながらグラマンの機銃掃射を浴び、
落下傘は破れ兵士は空高くから地面に叩き込まれ畑の中で戦死した。
軍靴には「杉浦」と書かれており、
後に元日本第201海軍航空隊分隊長だった森山敏夫大佐の協力により、
その兵士の名は「杉浦茂峰」と判明した。
翌年戦争は終わり何年か経って部落のあちこちで、
「不思議な夢」を見たという噂が広がった。
「白い帽子と服を着た日本の若い海軍士官が枕元に立った」
と言う夢でそのような同じ夢を数名の者達が見たと名乗り出た。
そして部落の有志者が集まり。その海軍士官が部落を戦火から救うために、自分の命を犠牲にしたことに「部落の恩人」として感謝の念を捧げる為に、
台湾人が謝恩の最高の表現である祠を建て、
永久に「海軍飛行少佐 杉浦茂峰」の恩徳を顕彰する事を決議した。
はじめは小さいながらも部落の人々の尊崇を集め毎日遠近から、
そして日本からの参拝者が絶えない。
1993年には4坪の敷地から50坪の祠に再建され大変豪華なものになった。
毎日、朝夕日本の国家「君が代」と「海ゆかば」を歌うそうだ。
鎮安堂 飛虎将軍廟パンフレットより抜粋

