まちがいだけれど本当の「長音階」と「短音階」のはなし。

 

作曲家で音楽の歴史や理論にも詳しい故柴田南雄氏は、私の世代のかつての音楽学学徒にとっては憧れの存在。この大先生には畏れ多いことではあるが、聞き捨てならない一文がある。

 

「ついでに短調の移動ド唱法の問題について一言して置くが、今日の慣用である短調の主音をラとするいわば移度ラ唱法には非常な矛循がある。短調の主音をラと読ませること自体は固定ド唱法の観念であるし、和声の考え方からは同主の長短両調同士の関係が重要であるから、これは短調でも主音をドと読むべきである。」(柴田南雄『子供のためのハーモニー聴音』p.8)

 

短調の音階はディアトニック音階の「ラ旋法」だから、主音(音階の出発音)を「ラ」と読むのは当たり前なのだが、「短調の主音をラと読ませること自体は固定ド唱法の観念である」とおっしゃる。それって正しいですか? 氏があとで「短調でも主音をドと読むべきである」と言っているのは、もちろん階名(移動ド)で歌った場合のことである。「ラ旋法」をもっと大事にあつかって欲しいと思うのだけれど、そもそも柴田氏は階名唱など、はなから相手にしていない。この辺の事情はまたあらためてコメントすることにして、ここでは「同主の長短両調同士の関係が重要」であるから「短調でも主音をドと読むべき」という点に注目したい。

 

短調の音階は、音階音を少しも変質させずに(#も♭も付けずに)「自然短音階」として用いてはじめて「ラ旋法」らしさが発揮できるのであるが、第7音「ソ」を「導音」にするために半音上げるようなことを始めると、とたんに長音階に似た音階になってしまう。「旋律短音階」など長音階との違いは第3音が半音低いことだけだ。それなら長調に合わせて主音を「ド」と読んでしまったらどうなんだ、と柴田氏は言っているわけである。これにも一理ある。

 

そもそも8つあった教会旋法から長調と短調ができたというのは、主音に対して半音進行して終止感を高めたい、という旋律的、和声的要請があってのこと。短音階は「ラ旋法」だからといって「自然短音階」のままが本来だと主張するのにも無理がある。とはいっても短調を単に長調の1変種と見なして親分・子分の関係としてしまうのは寂しいかぎりである。短調を長調に画一的に組み込んでしまうような考えは、「ラ」を「ド」と読み替えることによって決定的に強められることになってしまう。

 

短調を長調とは少なからず独立した性格をもつ旋法と考えたいがために、私は短調の主音は「ラ」と呼びたい。