僕の名前はタビー 野村 慶太郎様の生命の不思議シリーズ 2回目  | 黒猫とメインクーン

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とっても小さかった黒猫チビさんとと臆病でフニャフニャしていたメインクーンフニャさんが2018年5月に10歳で亡くなって6月に迎えたメインクーンタビーさんと造園デザイン、施工をしている自営業の飼い主との毎日。

参議院選挙で少し投稿がなかった 野村 慶太郎様が5回連載の2回目を投稿してたからママの記録として残しておくね
 
 
連載第2回:死してなお語る身体──脳死の再定義は迫っている
「脳が止まったら、それは人の死である」
その一文に、私たちはどれほどの重さを感じているだろうか。
1997年、日本では臓器移植法が施行され、「脳死」が初めて法的に「人の死」とみなされるようになった。
呼吸は人工呼吸器に委ねられ、心臓は動き続けていても、脳が不可逆的に機能を失ったとされると、その人は“死者”として臓器提供の対象になる。
しかし今、私たちはその定義に静かに、だが根源的な疑問を突きつけられている。
それは単なる医学的な議論ではない。人間とは何か、生きるとは何か、死とは何かという命題そのものへの問い直しである。
● 「脳死」は本当に“死”なのか?
医学的には、脳死とは大脳・小脳・脳幹のすべての機能が不可逆的に停止した状態を指す。
自発呼吸がなく、痛み刺激にも反応せず、脳波が平坦──。
この判定は、一定の医学的手順に基づいて厳密に行われる。
だが、ここには見過ごされてきた重大な事実がある。
それは、脳死と診断された患者の体は、まだ“生きている”ということだ。
体温は保たれ、消化管は食物を吸収し、ホルモンは分泌され、傷は修復され、妊娠中であれば胎児は成長する。
心臓も拍動し、腎臓も尿を作り、免疫は感染と戦っている。
これが「死者」と言えるだろうか?
「人格の死」であるにしても、「生物学的な死」にはほど遠い。
● 制度によって決められた“死”
しかも、脳死が死と見なされるのは臓器提供の意思がある場合に限る。
同じ状態であっても、提供の意思がなければ「死者」とは見なされない。
つまり、法制度の都合で“死”が発生したりしなかったりするのだ。
これは、死の定義が客観的・普遍的なものではなく、
制度とタイミングに依存する「社会的合意」だということを意味している。
「死とは何か」は、科学ではなく法律と倫理と医療経済の交差点で定められているのだ。
● 脳が沈黙しても、身体は対話しつづける
第1回で紹介したように、臓器たちは脳が沈黙した後も、互いに情報を交換しながら生命を維持する。
心臓と腎臓はホルモンと血流でバランスを取り、腸内細菌は免疫と代謝を調整し続ける。
このネットワークは、「脳がすべてを制御している」という旧来の階層構造を揺るがすものだ。
臓器は自律的で、かつ協調的に振る舞う。
もはや、脳の停止だけをもって「命の終わり」と断定するのは、生命の多層的構造を無視した過度な単純化である。
● 「死」を再定義する時が来ている
世界では、脳死に対する見直しの動きが広がりつつある。
ハーバード大学やWHOの生命倫理部会では、「死の定義は社会契約であり、科学的絶対ではない」という主張も出てきている。
また、最新の神経科学では、微細な残存意識の可能性や、脳活動の不可視な側面が示唆されており、従来の脳死判定基準がすべてを語り尽くしていないことが明らかになってきた。
● 終わりではなく、次の入口
脳死を「死」とすることに違和感を覚えるのは、単なる感情論ではない。
それは、私たちが本能的に感じている“生命の重層性”を、制度が追いつけていないという直感なのだ。
意識の有無だけではなく、
記憶のありか、情報の流れ、生命の継続性──
そうした問いを正面から扱うべき時が来ている。
そしてその鍵を握るのが、「あなたの体内にいる、あなたではない無数の生命体」──常在菌たちかもしれない。
3回目へ続く
 
 
 
野村様が以下のようなコメントも残してました
臓器移植のために現在の基準ができたワケですが、こういう事を書くと、脳死後の臓器提供意思が揺らぐ方も居られるので、非常に難しいテーマだと思います。
自分自身は今は臓器を他人から移植してまで生き残りたいとは思っていませんが、その時が来たら気が変わるかもしれません。
自分が生き残るために見ず知らずの他人の死を待ち望むような心待ちにはなりたくないですが、自分の娘が私自身が提供できない臓器の移植を必要とする病に侵されたら、自ら他人様の死を探しに行くかもしれません。