あの日から13年経ったとは思えないほどまだまだ当時の記憶は鮮明に残っている。

まだ知り合っていなかったインディーさんは現役で働いていた。

我が家にはバーニーズマウンテンドッグのトーニが揺れる家で母と震えていた。

私は揺れが止まらないビルの事務所に居て停止しているエレベーターの不気味なぶつかる音、軋む音を横目に一人では怖くて行けなかったトイレへ同僚と行った。

知らぬ間に停電していた事務所では自家発電電力によってテレビが映っていたのをかじりついて見つめていた。

この辺りは震度5強だったはず。

帰りの電車はもちろん全て止まっていたので会社の人が同僚の家を経由して家まで送ってくれた。

17時に職場を出たけれど、治水橋を歩いて家路に向かっている人、恐らく県の職員さんだと思うが橋を確認しながら歩いている人がいたのを覚えている。

段々、日が落ちて暗くなっていったがある地点から真っ暗闇。

そうか、停電しているのか、とその時気付いた。

自宅側のスーパー交差点で降ろして貰ったが、信号が停電しているから怖くて渡れなかった時、スーパーバイト帰りの男子学生と一緒に渡った。

月夜ではなかったせいか、普段は周りが明るいせいで見えない星がとても綺麗だった。

帰宅したらお風呂が沸いていて無水鍋で炊いたご飯とカレーが出来ていて、なんて恵まれているのだろうと涙が出てきた。

我が家周辺は停電していた。

市の防災放送とロウソクの灯り、立て続けに揺れている家でありがたくちょっと柔らかく炊けていたカレーライスに感謝しながら頂いた。

深夜12時頃に突然電気が点いた。

その直後、横浜の叔父から電話が入りお互いの無事を確認した。

当時叔父は天王山アイルの職場、叔父嫁は西新宿に居て繋がらない携帯電話でどうにか連絡を取り合流し叔父の会社で一晩を過ごしたそうだ。


お正月に能登半島地震が起こり改めてあの日の恐怖が蘇った。いや、私の経験なんぞ大した事ない。災害が起こるたびに身が引き締まる。

当時と違うのは母が13歳年取ったこと。あ、私もだけど。

老人で薬を飲んでいる事を思うと環境変化には対応できない。

コロナ禍以降、薬も滞りつつある。

災害はいつ起こるかわからない、自分が対応出来るかもわからない。

平穏で過ごせますように。。。都切に祈るのみ。