愛人の子として育った幼少期
初めての内容にして相応しいものではないのかもしれませんが・・
今は『不倫』という字を使われていますが、私が生まれた昭和40年代の終わりでも
まだ、「愛人」や「めかけ」という言い方で、奥様に堂々と『愛人がいる』と言い、
奥様はもちろん、その相手の方の生活面も面倒をみる男性がいました。
いまだにいらっしゃるのは事実ですが、その頃は芸能界でも政治家でも
「力のある男性の証拠」と言われていたそうです
その『愛人の子供』として生まれた私は、今振り返ると単なる
「生活費をもらうための保険」だったよねとしか思えない生活・・
私を産んでくれたことはとても感謝しています。
ですが、母はいわゆる『アダルトチルドレン』そして『毒親』でした
母は4歳で伯母と養女の関係になり、その後母は暴力、ネグレストの末その母親に
16歳で失踪され、自分だけを信じ銀座でホステスとなって父と知り合ったそうです。
わずかな高校生活の中、故小渕首相と2人で学級委員もし、音楽の時間に歌っていたところを劇団ひまわり(まだあるのか分かりませんが・・)の事務所の方にスカウトされ劇団で無料でレッスンにも通っていました。
ですが女優として有名になることも興味がわかず、銀座の有名クラブのホステスをしていても「しゃべらない」「笑わない」「お酒も飲まない」という
そういう母に興味を持った変わり者が私に血を分けてくれた父でした。
母は「お金しか信じない」人で、まぁ無理もないのですが
そんな人間になってしまった母を不器用でも愛してくれていたようです。
その父親は私にとってはとても遠い存在で、記憶にあるのは一緒に食事に行ってもマナー良くきちんと食事ができるか、その場にあった振る舞いができるか、たまたま本妻さんや母の違う兄達に会ってもきちんと挨拶ができるかとても緊張していたことを覚えています
母は「母親」ではなくて「女性」
男性と一緒になって母を置いて出て行った祖母を結局は引き取り、
横浜にその頃では珍しい2世帯住宅の豪邸を建ててもらい、2階に母、1階に祖母と私、そして13歳年の離れた父の違う兄との生活。
母はほとんど育児はしなかった、出来なかったとは聞いていますが、
綺麗なドレスや沢山のぬいぐるみに囲まれている写真、
旅行へ出掛けている写真を見る限りでは、最低限のことはしてくれていたのだとは
思います。
ですがその頃の母の手料理はポトフと父が来る時に作る、しゃぶしゃぶかすき焼きのみの、高級だけれど野菜を切るだけの思い出しかありません
祖母も料理は嫌い、潔癖症、そして幼い私を育てることは大変だったようで、
1階には昼間は家政婦さんが家事や私の世話をしてくれていましたが、祖母は俗にいう
『意地悪ばあさん』だったため、コロコロと人が変わり、
結局は祖母がたまに私達の食事を渋々作っていてくれた記憶、
そして母に会えず恋しい私に彼女の悪口を毎晩聞かせてくれて・・
当時はその言葉を聞くと無性に母を可哀想に感じ、
「私がいつか守るんだ」「私が泣かないで我慢すればいいんだ」と
頑なに思っていた私がいました。
そう、この『トラウマ』『脳内に刻まれた自分が良い子ちゃんじゃなきゃ!』
『私がどうにかすればいい!』まだ4歳の私には残酷な植え付けで、
後々様々な心のブロックとして残されていったのです
まだ続きます・・・

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