「あのね、こんどユニセフのぼきんがあったら、Bellちゃんお金もっていこうと思うんだ」
と娘が言いました。
私は嬉しくて、でも嬉しいことを表現してはいけないと思い、
敢えて
「そっかぁ。いいと思うよ」
とだけ返しました。
褒められる行為だと誤認されたくないのです。
嬉しい気持ちを一生懸命抑え、淡々と会話しました。
「ママ、ぼきんするからお金ちょうだい! 」
そう言ったのは1年生の冬のこと。
学校でユニセフの募金活動が始まり、その募金活動に参加したいからお金を頂戴ってことでした。
私はうんと言えませんでした。
「Bellは募金って何だと思う? 」
「メグマレナイヒトニオカネヲアゲルコト」
どこかで仕入れてきたのか「募金=イイコト」という図式が彼女の脳内に出来上がっていました。
ねぇ、Bellちゃん。
私は話します。
募金って、むやみやたらになんでもかんでもやるということではないと思うの。
まして人のお金を使ってやることじゃない。
誰かの為に何かしたいと思うなら、人の力でやるものではないんです。
「でもママ、ぼきんだよ? 」
ママはやらないの?
と反撃してきました。
「ママはやりたかったから学校じゃなくて自分でやる。Bellには頼まない。だからBellもやりたければ自分のお小遣いでやりなさい」
そう言うと、
「ふーん。じゃぁやらない! 」
と。
こんな話をしておいてなんですが、その返答を聞いた時は文句を言いたくなりました。
ムッとしました。
この感情は、きっと模範通りの「イイコ」ではない返答に対する嫌悪感なんだと思います。
だから、かろうじてそれを堪えて言いました。
「それでいいよ。お小遣いを使っても、自分でやりたくなったらやればいいよ」
娘はとても不服そうでした。
親としては悔しい気持ちがありましたが、
人の善意とは「誰かに倣ってやる」ものでも、「教科書に教えられる」ものでもないと思うのです。
世の中に募金しない人は沢山います。
そして、それは糾弾すべきことでは私はないと思うのです。
募金する人を賞賛するのと、
募金しない人を糾弾するのは裏表ではない。
だから募金をしないと言った娘は、怒られることではない。
そう言い聞かせました。
その年が終わり、2年生の冬は、我が家にはユニセフの「ユ」の字も出る事はありませんでした。
なんだか、スキマ風が吹くような気分でした。
それが先日、マックで並んでいると、
「ねぇ、ママ。1円入れてきていい? 」
と言い出しました。
マックのレジの横には、マクドナルド財団なる募金箱が設置されています。
病気で付き添うご家族の方の為の施設を運営するもので、
細かく言うとユニセフの趣旨とはちょっと違います。
「どうして? でもあれはユニセフじゃないよ? 」
「ん、しってる。でも入れたいの」
「自分のお金だよ? 入れても何も貰えないよ? 」
「いいの」
娘は自分のお小遣いから、1円玉を一つ、その中に放り込みました。
生まれて初めてした、彼女の募金でした。
その出来事から早幾日。
冒頭のような台詞が彼女から飛び出したのでした。
本当に実行するかどうかはまた別の話ですが、
彼女が望んで自分のお小遣いを差し出したいというのなら、
私には止める理由はありません。
そして、彼女が差し出したお小遣いと同じ金額を私も出してBellに持っていって貰おうと思います。
「Bellに頼まない」と言ったことを、謝罪しようと思います。
イイコトってそれだけで免罪符になりがちで、
例えば学校に行く途中に困った人が居て、助けていたから遅刻しました。
これはその困った人に対して言えばイイコトかもしれないけれど、
結局遅刻したのだからその遅刻に対しては悪いことなんだと思うんです。
でも、「助けたから遅刻したのも仕方ない」と一括りになってしまいがちではないですか。
私は違うと思うのです。
この人を助けたくて遅刻しました、ごめんなさい。
そう言える子に育って欲しいと思っています。
一つ一つ自分で考えて自分の行動の答えを出せること。
教科書は一つの定義であって、アナタの尺度ではないこと。
大変だけど、教えていけたらいいなぁと思うのでした。
私は2年ちょっと前に、この種を撒きました。
それは本当に難しい種で、もしかしたら芽を出さないかもしれないという、そんな種でした。
水をあげても、日を当てても、目を出すことが難しい種。
それは、人の心を育む種でした。
と娘が言いました。
私は嬉しくて、でも嬉しいことを表現してはいけないと思い、
敢えて
「そっかぁ。いいと思うよ」
とだけ返しました。
褒められる行為だと誤認されたくないのです。
嬉しい気持ちを一生懸命抑え、淡々と会話しました。
「ママ、ぼきんするからお金ちょうだい! 」
そう言ったのは1年生の冬のこと。
学校でユニセフの募金活動が始まり、その募金活動に参加したいからお金を頂戴ってことでした。
私はうんと言えませんでした。
「Bellは募金って何だと思う? 」
「メグマレナイヒトニオカネヲアゲルコト」
どこかで仕入れてきたのか「募金=イイコト」という図式が彼女の脳内に出来上がっていました。
ねぇ、Bellちゃん。
私は話します。
募金って、むやみやたらになんでもかんでもやるということではないと思うの。
まして人のお金を使ってやることじゃない。
誰かの為に何かしたいと思うなら、人の力でやるものではないんです。
「でもママ、ぼきんだよ? 」
ママはやらないの?
と反撃してきました。
「ママはやりたかったから学校じゃなくて自分でやる。Bellには頼まない。だからBellもやりたければ自分のお小遣いでやりなさい」
そう言うと、
「ふーん。じゃぁやらない! 」
と。
こんな話をしておいてなんですが、その返答を聞いた時は文句を言いたくなりました。
ムッとしました。
この感情は、きっと模範通りの「イイコ」ではない返答に対する嫌悪感なんだと思います。
だから、かろうじてそれを堪えて言いました。
「それでいいよ。お小遣いを使っても、自分でやりたくなったらやればいいよ」
娘はとても不服そうでした。
親としては悔しい気持ちがありましたが、
人の善意とは「誰かに倣ってやる」ものでも、「教科書に教えられる」ものでもないと思うのです。
世の中に募金しない人は沢山います。
そして、それは糾弾すべきことでは私はないと思うのです。
募金する人を賞賛するのと、
募金しない人を糾弾するのは裏表ではない。
だから募金をしないと言った娘は、怒られることではない。
そう言い聞かせました。
その年が終わり、2年生の冬は、我が家にはユニセフの「ユ」の字も出る事はありませんでした。
なんだか、スキマ風が吹くような気分でした。
それが先日、マックで並んでいると、
「ねぇ、ママ。1円入れてきていい? 」
と言い出しました。
マックのレジの横には、マクドナルド財団なる募金箱が設置されています。
病気で付き添うご家族の方の為の施設を運営するもので、
細かく言うとユニセフの趣旨とはちょっと違います。
「どうして? でもあれはユニセフじゃないよ? 」
「ん、しってる。でも入れたいの」
「自分のお金だよ? 入れても何も貰えないよ? 」
「いいの」
娘は自分のお小遣いから、1円玉を一つ、その中に放り込みました。
生まれて初めてした、彼女の募金でした。
その出来事から早幾日。
冒頭のような台詞が彼女から飛び出したのでした。
本当に実行するかどうかはまた別の話ですが、
彼女が望んで自分のお小遣いを差し出したいというのなら、
私には止める理由はありません。
そして、彼女が差し出したお小遣いと同じ金額を私も出してBellに持っていって貰おうと思います。
「Bellに頼まない」と言ったことを、謝罪しようと思います。
イイコトってそれだけで免罪符になりがちで、
例えば学校に行く途中に困った人が居て、助けていたから遅刻しました。
これはその困った人に対して言えばイイコトかもしれないけれど、
結局遅刻したのだからその遅刻に対しては悪いことなんだと思うんです。
でも、「助けたから遅刻したのも仕方ない」と一括りになってしまいがちではないですか。
私は違うと思うのです。
この人を助けたくて遅刻しました、ごめんなさい。
そう言える子に育って欲しいと思っています。
一つ一つ自分で考えて自分の行動の答えを出せること。
教科書は一つの定義であって、アナタの尺度ではないこと。
大変だけど、教えていけたらいいなぁと思うのでした。
私は2年ちょっと前に、この種を撒きました。
それは本当に難しい種で、もしかしたら芽を出さないかもしれないという、そんな種でした。
水をあげても、日を当てても、目を出すことが難しい種。
それは、人の心を育む種でした。