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サリーのBe happy☆

旅行のことからコミュニケーションのこと、日々のつれづれなど、記録もかねて綴っています。

 

今、話題の本。

 

実家の父親のことがあり、

家族の「死」というのもが身近に感じらたこともあって、

図書館でお借りして一気に読みました。

 

著者の萬田緑平さんは、外科医として17年間病院に勤務し、

そこで、多くの患者さんの終末医療・「死」向き合ってきました。

 

そこには、「病気」や「死」に対する明らかな誤解(?)があると実感し、

自らを「在宅緩和ケア医」として診療所を開所し、

患者さんが

「自宅で、死ぬまで自分の好きなことをしながら、

 家族に見守られながら、

 痛くもつらくもなく、

 『いい人生だった』と言える穏やかな最期」

を迎えられるサポートをされています。

 

著者によると、

「病気」=「老化」

「病院」=「治療するところ」

「医療」=「延命治療」

 ※すべての医療は「延命治療」です。

  少しでも長生きするためのものです。 

  医療では1分1秒でも「心臓が長く動いている」ことが正解です。

 

 

―抜粋

 

終末期の患者さんの多くは、

抗がん剤などの治療で体がボロボロになった末、

点滴や慰労などのたくさんのチューブをつながれて、

病室のベッドの上で寝たきりとなっています。

 

むくみで手はパンパンになり、

自力でトイレに行けなくなってからも、

家族からは「頑張れ」「あきらめないで」と言われ続け、

朦朧とする意識の中、過酷な延命治療の果てに亡くなっていくのです。

 

 苦痛に顔を歪ませて亡くなっていった患者さんを前に、

家族は涙を流し、

「これでよかったのだろうか・・・」と後悔の念にも苦しめられ、

医師や看護師は言葉もなく、

病室にはただただ重苦しい空気が立ち込めるばかりでした。

 

 そんなつらく悲しい市の現場に何度も接するにつれ、

医療は終末期の患者さんに何ができるのかと考え、

自問自答を重ねました。

 

「緩和ケア」という言葉のない頃から、つ

らくない終末期を考えながら外科医をしていたのです。

 

 そして、外科医を17年で終わりにして、

病院の終末ケアではなく、

「在宅緩和ケア」という、

誰もやっていない新しい分野を開拓することを決断しました。

 

 私は14年前から「在宅緩和ケア」を自らの専門とし、

これまでに2000人ほどの患者さんを自宅で看取ってきました。

 

その経験から、自宅できちんと看取ってあげれば、

死は決してつらいものではないことを確信したのです。

 

すでに死が近い終末期にもかかわらず、

点滴などのチューブをつけている人や、

酸素マスクを使っている人はごくわずかです。

 

それどころか、食べたいものを食べたいときに食べ、

家族との思い出話に花を咲かせ、

テレビ番組に笑い声をあげたかと思えば、

愛煙家は煙草を嗜み、

大好きな日本酒を寝酒に飲んでいる人もいます。

 

 亡くなるギリギリまで自分の足でトイレに行くことなんてふつうで、

外食をしたり、ゴルフを楽しんでいる人さえいます。

 

 終末期の患者さんは、病院の手厚い医療から離れても、

すぐに亡くなることはなく、こうして生きたいように生きられる。

 

そして、患者さんと家族が感謝の気持ちを伝えあって、

最期は眠るように穏やかになくなっていけるのです。

 

 自宅で看取りを終えた家族は、悲しみや絶望ではなく、

人生を最後まで自分らしく生きぬいた患者さんに、

「おめでとう」と声をかけたいような、

そんな満足感さえ表情に現れていることも少なくありません。

 

 

なぜ、病院で死ぬのは苦しいのか?

死そのものは本来、苦しいものではありません。

しかし、病院で治療を続けると、

体力の限界まで「生きさせられる」から苦しいのです。

 

 

ところで、日本人はなぜそんなにも長生きしたいのでしょうか?

 

なぜ長生きしたいのか、それを考えている人は驚くほど少ないものです。

 

やりたいことをするためでしょうか?

ならば、やりたいことって何でしょうか?

やりたいことがあるとしたら、なぜ今までしてこなかったのでしょうか?

 

長生きを目標にしている人のほとんどは、

長生きする「目的」まで考えていないことがほとんどです。

 

そして、運よく目標を達成できた先は、認知症です。

自分が誰かも分からなくなってしまいます。

それが、“最高の長生き”の行き着く果てです。

「長生き」に逃げても、不幸なら意味がない。

 

※「認知症」=脳が体より先に老化するのが認知症。

      認知症は、「延命至上主義」により作られた状態。

 

長生きを目標にするのは、その人の自由です。

問題は、どんな状態になっても長生きすればいいのか?

長生きして何をしたいのか?

 

それを曖昧にしたままで生きていると、

いくら長生きしても「こんなはずじゃなかった」と言う最期になってしまうでしょう。

 

<確信>

「終末期の患者さんは、病院での延命治療をやめて、

 自宅に戻って過ごした方が人間らしく生きられる」

 

......................................................

 

しかし、あくまでも

患者さんが選ぶこと。

 

萬田診療所のモットーは、

 

「本人が好きなように」

「本人の望むように」

 

検査もしなければ、亡くなる前の心電図モニターもなし、

本人んが望まなければ点滴もしない。

本人が望めば胃ろうやCVポートも外し、

「口から食べたい」と言えば、食べれるようにサポートする。

本人が望めば、腹水穿刺もする。

 

ほぼすべてにおいて、本人の希望・意思が尊重されます。

 

そして、それが穏やかな最期につながることを確信しています。

 

そもそも「延命治療」を続けたい人は、

萬田診療所から離れていくそうです。

 

「在宅緩和ケア」は、終末期の選択肢の一つです。

「在宅緩和ケア医」が増え、

「在宅緩和ケア」を希望する人が、

自由に普通に選択できるようになることを望みます。

 

 

<自分ごととして響いた言葉>

 

「生き方」で「死に方」が決まる

それまで、いつ死んでもいいようにきちんと生きてきた人は延命を望みません。

だから、人生の最後を穏やかに終わらせることができるのです。

 

いつ死ぬかわからないから、いつ死んでもいいように生きる。

今日が人生の最後の日だと思って生きる。

「言うは易く行うは難し」ですが、

「よりよく生きてきた人」は、「より良く死んでいける」ことは間違いなのです。

 

 

「やり残したこと」は死ぬまでやらない

死が迫ってくると「やり残したから悔しい。時間がほしい」と言います。

若い頃は、今からでもやろうと思えばいくらでもできるのだから、

やればいいじゃないか、と思っていました。

でも、やりません。

そして、今は悟りました。

どんなに時間があっても、お金があっても、やらない人はやらないのだと。

 

だから、「やり残したことがある」と嘆く人は、

じつはそんなものはなく、長生きしたいために言い訳だと気づきました。

「やり残したことがある」と言い訳をして、死から逃げているだけなのです。

 

.......................................................

 

体験に基づいた言葉は、とても迫力がありました。

 

そして、自分の「先送り癖」に気づかせていただきました。

 

「いつかそのうち・・・」

今までにどれほど思ったことか。

 

このままでは、「いい死に方」ができない。

 

やりたいことで、今できることから始めることにしよう。

 

ちなみに・・・

ふと、

「明日死ぬとして、やり残したことはある?」

って、自分に聞いたら、

「『2020年GO TO TRAVEL』をブログにまとめたい」

と答えました。

それをしないで死にたくないようです(笑)

 

「そんなこと?」って意外でした。

「ハワイに行きたい」とか

「世界一周したい」とか、

もっと大それたことかと思っていましたが、

実は、今すぐにも取りかかれることでした。

 

やろうと思えばすぐに取りかかれるから、

だからこそ、

いつでもできると思ってしまうのかもしれません。

そして、ついつい先送り、先延ばしにしてしまって、

結局やらずじまい・・・。

 

今しかないと思えば、

すぐにやるしかないですから。

 

ということで、

『2020・GO TO TRAVEL』ブログ始めました。

 

気が遠くなりますが、

「いい死に方」をするためにも、

がんばれ、私!

 

父親のためにと思って読み始めたが、

結局は、自分のために読むべき本でした。

 

 

「家で死のう!」お勧めします。

 

 

ありがとうございます。