明後日は揖斐郡学校保健研修総会で揖斐郡の先生方や医療関係の先生方に講演することになっている。
このところの熱さのせいか体調があまりよくないけど、今年前半の講演の締めなので気合を入れて頑張ってこよう。
さて、認知的不協和理論や防衛機制の合理化の話をしてきたが、流石にちょっと飽きてきたことだし、今回でこの話も締めとしよう。
認知的不協和理論も合理化も、これらは速い話『無意識における葛藤の回避』と言っても良い。
もちろん、それらが働いて恋人が出来、結果的にHAPPYになったとしたらそれはそれで良い。
ただ問題は、「断ることが出来ず、頼みを聞いてあげて、その上心の帳尻合わせでその相手を好きになったような気になって、好きでも何でもない人とつきあう」ことになり、もし後悔でもすることになったら、それはどうなんだ?ということなのだ。
合理化も理屈は同じで、葛藤とか「向き合う」ことの回避(モヤモヤの回避)として無意識に行われていたとしたら、その人はいつまでたっても前には進めない。
要は「酸っぱい葡萄」なんて『自分に対しての言い訳』なのだが、それを意識してやっているならまだ良いのだが、無意識、つまり自分でも気が付いていないと問題だ。
人に対しての言い訳はいいけど(←自分でもしょっちゅうやっているので、こう言わないと矛盾が起きる)、自分に対しての言い訳はせめて自分ではわかっていないと、人生がワケが分からなくなるのではないかと僕は思う(実際、僕は若い頃そうだったので、40代半ばまでワケのわからない人生を送っていた )。
ちょっと厳しい話になってしまったが、これだけ熱いとイライラしてきて、どうも優しい言い方が出来んからしょうがない(という言い訳)。
…という落ちでどうだろう?
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