今朝の日経新聞に気になる記事があった。
定年後の記者がよく1人で訪れる昭和30年創業の居酒屋の話から始まる。
以下引用文
「午後6時、暖簾(のれん)をくぐる。同年代とおぼしき面々のひとり飯が「沈黙の賑(にぎ)わい」をみせていた。老眼鏡をかけ文庫本を読む人、テレビのニュースを眺める人。言葉を交わさなくても、時間と空間を分かち合える心地よさ。自分と対話しながらあれこれ想像を巡らせると、なぜか「独り」でないと思えてくる。
近年、ひとり飯がちょっとしたブームになっている。「アラ還」のおじさんだけでなく世代を超えて広がっている。やむを得ず1人で食べる「孤食」とは少し違う。自ら選び、他の人に邪魔をされない時間を楽しむ。
---中略
10年ほど前までは若者の間では「ぼっち飯」と揶揄(やゆ)されることも多かった。そんなひとり飯がなぜ市民権を得たのか。「ひとり空間の都市論」を著した南後由和・法政大教授は理由の一つとして「スマートフォンやSNSの普及によるところが大きい」とみる。
1人で食事をする若者にとって、スマホは必須のアイテムだ。手に取ったりテーブルの上に立てかけたり。目の前の家族や友達と話す代わりに、画面の向こうの誰かと「対話する」。リアルにおける周囲は気にならない。その姿は「孤食」という言葉が帯びる寂しさからは遠い。
---中略
共に食べることで人と人との距離は縮まる。子どもや高齢者だと食も進む。だからといって共食が正しく、孤食は間違いと一律に断じることは出来ない。常葉大学の七星純子助教(社会学)は「食の環境が変化するなか、現代のひとり飯は共食でも孤食でもない食の形式といえる」と語る。」
日経の記事は、社会学者ジンメルの理論も入れながら、「20代、30代の客がカウンター席に着いてまずはスマホを置く。その所作は、ナイフやフォークを並べるように、デジタル時代の新たな食卓作法になりつつあるのかもしれない。」と結ぶのだが、これを読んで少し気になるところもあったので、早朝で話す相手もいないということもあり、ChatGTPにこれをどう思うか聞いてみた。
すると「「ひとり飯=孤独」という従来の二分法を崩しているところ」が面白いという答えが返って来た。
さらに(以下ChatGTP)
「ただ、読んでいて一つ引っかかるのは、記事の冒頭に出てくる筆者の居酒屋での「ひとり飯」と、後半に出てくる若者の「スマホを置いてのひとり飯」は、見た目は同じでも、心理的にはかなり違う可能性があることです。
冒頭の、
「沈黙の賑わい」
「言葉を交わさなくても、時間と空間を分かち合える心地よさ」
という表現はとても重要だと思います。
これは一人だけれど、他者がいるんですよね。本を読んでいる人、テレビを見ている人、店員、串トンを待っている人。その人たちとは会話しない。しかし、「同じ場所に居合わせている」。
以前から話していた「縁」の考え方でいうなら、これは縁を切った状態ではなく、縁を薄く張った状態と考えると非常に分かりやすいと思います。
一方、スマホを見ながらのひとり飯は、少し違います。記事では、
「画面の向こうの誰かと『対話する』」
と肯定的に捉えていますが、ここはもう少し分解した方がいい。
スマホの向こうに親しい友人がいてメッセージを交わしている場合もあれば、YouTubeを見ている場合も、TikTokを流している場合も、AIと話している場合もある。「スマホを見ている」という外形だけでは、つながっているのか、刺激を受け続けているだけなのか分からないからです。
そして私は、この記事でもっと掘り下げられそうなのが、まさにここだと思います。
「一人でいる力」と「一人になれない状態」は、外から見ると同じひとり飯になる。
例えば、
A:本を読みながら食べる
→ 自分と本と周囲の人との間を行き来する。
B:何もせず食べる
→ 味、店内の音、人の動き、自分の考えなどが入ってくる。
C:友人とLINEしながら食べる
→ 物理的には一人だが、社会的には誰かといる。
D:ショート動画を延々と見ながら食べる
→ 一人でいる時間を、絶え間ない外部刺激によって埋めている。
全部「ひとり飯」ですが、心理的にはかなり違います。
だからこの記事の「共食でも孤食でもない」という整理から、もう一歩進めて、「ひとり飯ができるようになった」のか、それとも「スマホがあるから一人でもいられるようになった」のかという問いが出てきます。
これは、これまで話してきた「退屈をやっつける力」や「面白さ創造力」とも直結します。
スマホを置いて一人で食事している若者に、
「スマホなしでも、この30分を面白くできますか?」
と尋ねると、かなり面白い調査になるでしょう。
しかも、冒頭の居酒屋にはそれを可能にする仕掛けがあります。炭火の串トンを30分待つ。手書き伝票。現金。テレビ。知らない人。店員。匂い。音。
つまり**「何もない30分」ではなく、自分で拾えるものがたくさんある30分**なんですね。
ここがデジタルとの決定的な違いかもしれません。デジタルは「面白いもの」を向こうから供給してくる。一方、この居酒屋では面白さをこちらから拾わなければならない。
以前整理した、
向こうからやってくる「面白いこと」は依存につながりやすいが、こっちから向かっていく「面白いこと」は、気づかないうちに自分の力になっていく。
という話の、かなり良い具体例になっています。
さらに面白いのは、筆者が「自分と対話しながらあれこれ想像を巡らせると、なぜか『独り』でないと思えてくる」と書いていることです。
普通は、
他人とつながる → 孤独ではなくなる
と考えます。
ところがここでは、
一人になる → 想像する → 周囲を感じる → 独りではないと感じる
となっている。
一見すると逆です。
だからこの記事をデジタル依存の文脈まで広げるなら、私は「孤食か共食か」よりも、
「一人で食べているとき、あなたと世界との間には何がありますか?」
という問いの方が面白いと思います。
スマホでもいい。本でもいい。店のテレビでもいい。隣のおじさんの咳でもいい。串トンが焼ける匂いでもいい。あるいは自分の空想でもいい。
問題は「一人かどうか」ではなく、その30分にどんな縁を張っているのか。
そう考えると、「ひとり飯」は孤独の問題というより、むしろ現代人の「自在度」を観察する非常に面白い窓になりそうです。」
と続く。
この話はまだまだ続くのだが、取り敢えず今回はここまで。
Copyright(c) ベルコスモ・カウンセリング
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
ベルコスモ・カウンセリングはNPO日本次世代育成支援協会のカウンセラー講座をバックアップしています(WEB講座もあります)。↓

詳しくはホームページをご覧ください。https://npo-jisedai.org/kouza.htm