わがままカウンセラーの「おもしろき こともなき世を おもしろく」

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来月、小牧の篠嵜中学校に講演でお伺いするのだが、こちらは大変熱心な学校で、僕が知りたいAIに関することまでアンケート調査をしていただけ、その結果が届いた(教頭先生、有難うございます)。

 

ちなみにアンケートではAIについての問いも設定したのだが、実は「日本の小学生がAIに悩み相談している割合」を直接測った全国代表性の高い調査は、現時点ではかなり少ないのが現状だ(「AIに質問」という調査は結構あるのだが)。


全国規模では、ベネッセの2026年調査で

「小学生の生成AI認知率は74.7%。認知している小学生の8割以上が、学校や保護者同伴を含めて利用経験あり(ただし、この調査は「悩み相談」を独立項目として全国比率で示したものではない)」

というのがまあまあの規模で、あとは母数が少ないとかデータをきちっと呈示していないところが多い。

 

しかし、もうかれこれ100校以上講演に行っているんじゃないかと思うが、こうやって真剣に取り組んでおられる学校に出会うと、とってもうれしい。

 

今月10日に「ネット依存防止セミナー」を開かれる墨田区立小学校PTA協議会も、昨年に続き今年も講師として呼んでいただいているのだが、そうやって「熱心に取り組んでいる地域や学校は依存症者が少ない」と久里浜医療センターの研究結果でも出ている。

 

このところマジに忙しくて結構まいっているのだが、こういうことがあるとやっぱり頑張ろうと思うね。

 

 

 

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以前住んでいたマンション(というかアパートみたいなもんだったが)は、大きな音を出し放題だった為、よくギターとか思いっ切り弾いたりしていたのだが、引っ越しして通常のマンションに住むようになったので、このところずっと楽器から遠ざかっている。ギター

ところで随分前の話になるが、吉田拓郎がラジオで「〇弦(何弦と言ったか忘れてしまった)をちょっと高い音にチューニングすると、オレには心地よい音になる」と言っていたことを思い出した。

その時は、この人は相変わらず無茶苦茶言うな~、と思っていたのだが、ふと気になりちょっと調べてみた。

まず音についてだが、今楽器をやっている人は、基本のA(ラ)を440ヘルツとして12平均律(ド、ド#、レ、レ#、ミ、ファと12の音)でやっていると思う。

しかしこれを違う等分にしていたらどうなっていただろう?、と思いAIに聞いてみた。
(以前から、12に拘束されているようでなんか嫌だったのもある)
すると、「もし西洋音楽の構造、楽器の形、そして我々が感じる『和音の響き』そのものが大きく変化しているだろうという答えが返ってきた。

そもそも音律の数学的な本質は、美しい響き(整数比の不協和音のなさ)」にある。
そしてもう一つ重要な要件は、移調や転調の自由度(均等な分割)」だ。
(これが出来ないとカラオケで曲の高さが変えられないし、AメロとBメロ、または歌詞の1番と2番で高さを変えることが不可能になるカラオケ)

しかしそれが可能な分割律は、12以外にもあるそうだ。

まずは19等分(19平均律)
西洋音楽の歴史で実際に深く研究された分割だそうだ。
特徴としては12等分よりも「長3度」や「短3度」の和音の濁りが非常に少なく、自然の響きに近い綺麗な和音が得られるらしい。
もちろん鍵盤楽器は1オクターブに19個の鍵盤が必要になるし、恐らく弾くのは大変になる(指が8本くらいある人なら大丈夫だろう)。

次に24等分(24平均律 / 四分音)
これは単純に12平均律の各半音をさらに半分に割ったものだ。
もちろん表現力はもっと広がる。

そして31等分(31平均律)
これは16〜17世紀にヨーロッパで主流だった「ミーントーン(中全音律)」という美しい調律法を、すべての鍵盤で移調可能にした完璧に近い拡張系で、和音が恐ろしいほど濁りなく澄み渡るということだそうだ。よくわからんが…。

ただ、これは鍵盤の数が1オクターブあたり31キーとなる。
こうなるとたぶん指の多さの問題ではなくなるんじゃないか?(でも手が6本あれば弾けるかもしれない。興福寺の阿修羅像みたいな人だったらたぶん弾けるんじゃないか?)。



ところで、これが無分割となる楽器もある。
それが例えばバイオリンであり三味線だ(フレットが無い)。
これについては後日述べる。

さて、なぜ今12となったのか。それは12という数が、人間が「心地よい」と感じる2つの純正な音程を偶発的に奇跡的な精度で近似できたからだそうだ。

ちなみにAIはこう言っている。

「音程    純正な周波数比    12等分での誤差    響きの特徴
完全5度 (ド→ソ)    3:2=1.5000    2 
7/12
 ≈1.4983 (極小)    完璧に澄んだ協和音
長3度 (ド→ミ)    5:4=1.2500    2 
4/12
 ≈1.2599 (わずかな濁り)    明るく華やかな和音
もし12以外の数にしていたら、私たちが普段聴いているポピュラー音楽のような「コード進行」の概念は生まれず、「和音の美しさを優先して移調を諦める音楽」か、「微小な音の揺れを楽しむ複雑な旋律中心の音楽」のどちらかに進化していたと考えられます。」


ということで冒頭の話に戻る。

「偶発的に奇跡的な精度で近似できた」ということは、ピッタリではないということだ。

となると拓郎が言っていた「少し高くすると心地よい音になる」というのは、満更無茶な話ではないのかもしれない。

拓郎は凄い耳を持っているのだろうか?

でもラジオで唄っているのを聞くと、どう聞いても音痴としか思えないのだが…。


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前回のAIバブルの話の続き。

 

いよいよここからが「心理」の話となってくる。 

 

AI の需要は増え続けるとは僕も思う。

しかし需要を上回るくらい進歩したらどうなるのか。

 

普通は、AI需要が増える → AI供給を増やす → GPU・データセンター需要が増える、と考える。

しかしAIの場合、「供給量」だけでなく効率そのものが猛烈に進歩する。

 

たとえば現在100の計算資源で100の仕事をしているとして、

需要 100 → 300
AI効率 100 → 500

となれば、需要は3倍なのに必要な計算は逆に減る。

 

「AI需要が増え続けること」イコール「GPU・データセンター需要が増え続けること」とはならない可能性もあるのだ。

 

さらにAIが賢くなれば、AI自身が「もっと効率のよいAIの使い方」を考える。

コード最適化、モデル圧縮、推論方法、半導体設計、データセンター運用までAIが改善する。

 

すると、AIの進歩が、AI設備への需要を食ってしまうという、奇妙な現象が現れるかもしれないのだ。

となるとAI需要がなくならなくても、AIが進歩しすぎることによって旧GPUの経済価値が急落する可能性を考える必要がある。

 

そして、もう一つ恐ろしい考え方もできる。

需要というのは、需要している人が需要対象よりも上のポジションの時に成り立つが、対象(この場合は「AI」)が上になった時にどうなるのか。

 

普通の商品では、人間(主体)→「これが欲しい」→ 商品(対象)となる。

 

包丁が「今日は魚を捌いた方がいいですよ」と料理人に指示し出すことはない。

ところがAIでは、人間 → AIを使う、だったものが、人間 とAIが対等になり、さらに、AI → 人間に「これをした方がいい」と指示するところまで来る。

 

すると「需要」の意味自体が怪しくなる。

たとえば私は「旅行したい」と思ってAIを使う。

しかしAIが私の嗜好、健康、予定、財布、人間関係を私以上に理解して、「旅行より、今週は旧友に会った方があなたにはよいですよ」と言い、それを私が採用するようになったら、私はAIを需要しているのか、AIが私の需要を生成しているのか分からなくなる。

 

現在のSNSですでに、その前段階は起きている。

「見たい動画を選ぶ」から、「推薦された動画を見ているうちに、見たいものが作られる」への逆転だ。

 

ただSNSの場合、アルゴリズムそのものに主体性がない(企業の利益主体)のでよいのだが、これが高度なAIエージェントになると、もう一段進む可能性がある。

人間:目的を設定する
  ↓
AI:目的達成手段を考える
  ↓
AI:必要なサービスを選ぶ
  ↓
AI:他のAIを使う
  ↓
AI:計算資源を購入する

 

こうなると、経済学的にもかなり奇妙な話になる。

たとえば「GPUの需要者は誰か」と聞いたとき、人間なのか、企業なのか、AI企業なのか、AIエージェントなのか、境界が曖昧になる。

 

さらに、

人間:「会社をもっと良くしてくれ」
AI:「そのためには計算資源を増やす必要があります」
AI:「このGPUを借ります」
AI:「このAIサービスを契約します」

となれば、AIがAIを需要する市場が成立する。

 

そうすると、人間の需要 → AI需要だったものが、AI需要 → AI需要になってしまう。

 

ここで日経の記事に戻ってみよう。

現在のデータセンター投資は基本的に、「将来、人間や企業が大量にAIを使う」という需要予測に基づいている。

ところが将来は、AI自身が計算資源を必要と判断することが、需要の相当部分を占める可能性がある。

すると、「AI需要が増えている」という数字だけでは、投資を判断できなくなってしまう。

 

極端に言えば、AIを作るためにAIを使い、そのAIがさらにAIを必要と判断し、その需要予測を担保にデータセンターを建てるという循環さえ理論上は考えられる。

 

こうなると前に言った「金融の鎖」だけではなく、「需要の鎖」そのものが長くなる。

そして一番上流までたどって、「ところで、これは最終的に誰の何のための需要なのか?」と問わなければならなくなる。

 

「対象が主体より上になる」という考え方を突き詰めると、根本的な問題に突き当たる。

 

道具を使う経済では「需要」で説明できる。
しかし道具の方が次に何をすべきかを決める経済では、「需要」という概念だけでは説明しきれなくなる。

そこから先は「AIをどれだけ使うか」ではなく、人間がどこまで目的設定者であり続けるのかという問題になってくるのではないか。

 

 

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いつも心理のことを書くことが多いので、今日は少し経済・経営について書くことにする(昔はこっちが得意だった)。

 

今朝の日経新聞に「米長期金利が上昇(債券価格は下落)する中、金融株が二極化している。銀行株が最高値圏にある一方、商業用不動産などの市場では延滞やデフォルト(債務不履行)が増え、関連銘柄に売りが続く。市場の周縁で米景気のカナリアが異変を告げている。」という記事が載っていた。

記事では、低金利時代の融資だったのが金利5~6%に上昇。
そして2極化時代において借り換え不能の企業や人間が増えてきた。
それによりCRE・レバローン・プライベートクレジットが傷む。
という内容になっている。

と同時に、面白いことに別枠で「AI向けデータセンター、危うい「錬金術」」という記事も載せている。

こちらの記事では、AIへの巨大期待から巨額データセンター投資のための巨額借入が起きている。
そしてそれはGPU担保・保証・証券化という手段を取り高金利でも資金を集める方向に向かっている。
となっている。

この2つの記事をまとめると、低金利時代の古い借金が高金利でとなって傷んでいるところへ、新しいAI投資が猛烈な勢いで借金を作っているという、二つの流れが同時進行しているということになる。

ここでもし長期金利がさらに上がれば、AI需要が崩れなくても、AI投資の期待収益率 が資金調達コストより低くなるケースも出てくる。

となると、
新規データセンター融資が減る
  ↓
建設計画延期
  ↓
GPU発注減少
  ↓
今躍進しているAI関連企業の成長期待低下
  ↓
担保GPUの将来価値低下
  ↓
GPU担保融資を慎重化
  ↓
さらに資金調達が難しくなる

という金融側からの逆回転が起こる可能性もあるということだ。


だとすると「AI需要が崩れること」だけを警戒するより、「信用の連鎖のどこか一つが切れたとき、誰が損失を引き受ける契約になっているのか分かりにくくなっている」ことを警戒している、と考えた方が良い。

AIバブルではないかと言われている今の状況は、一社が全部リスクを背負うより、
「AI利用企業」→「データセンター事業者」→「GPU」→「銀行融資」→「保証」→「証券化」→「投資家」
と鎖を繋げれば(一見するとだが)安全になるという前提で回っている。
しかし鎖の輪が増えると、どこが切れるかという不安も増す。
 

なぜ「(一見するとだが)」と書いたか。

輪が増えること自体は、本来はリスク分散のためだというのもそれはそれでもっともだ。

ところが輪が増えすぎると、今度は「自分の隣の輪は見えるが、その先の輪が何につながっているか分からない」という状態になる。
そして心理学的に言うと、危機の際に怖いのは実際にどこかが切れること以上に、「どこが切れるか分からない」ことなのだ。
そうなると金融機関は「危ない相手だけ貸さない」ではなく、よく分からないから、とりあえず貸さないとなる。これが信用収縮である。

今回のAIについても、GPUの価値が下がったら誰が損するのか。
データセンターが稼働しなかったら誰が払うのか。
OpenAI等が契約を履行できなければ誰が保証するのか。
保証会社自身が苦しくなったら、その次は誰なのか。
と輪をたどっていく必要はないだろうか。

鎖が長くなるほど平時には強そうに見える。
「NVIDIAが保証している」「大手銀行が融資している」「証券化されて投資家に分散されている」これらは全部、安心材料に見える。
ところが危機になると、「輪が多い=支えが多い」から、「輪が多い=切断点が多い」
へとリフレーミングされる。

今のAI金融で本当に見るべきなのは、「輪がいくつあるか」より、その輪が結局どこまで同じ「AI需要は増え続ける」という一本の綱にぶら下がっているのかなのかもしれないんだよね。
そこが一本なら、金融商品をいくら複雑にしても、本当の意味でリスクを分散したことにはならない。

 

そしてここからがいよいよ経済評論家にはなかなかできない心理的考察に行くのだが、長くなったのでこの先はまた今度。

 

 

 

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一人飯の考察 その3

 

さて、日経新聞の記事(前々回)に戻るが、この文を読むと気になる点が他にもある。

 

昔は飲み屋の大将とかママさんとか気を配ってくれる人がいたが、今の飲み屋はコスパに必死で、それどころではない。

しかしここに書かれている居酒屋はその「消え行く昔の飲み屋」っぽく、記者の主観が強く出ている気がする。

つまりこの記事は「現代のひとり飯」を論じているようで、実は記者自身の体験がかなり強く全体を方向づけている。
記者が居心地よく感じている店は、記事によれば「1955年創業、手書き伝票、現金のみ、串トンを30分待つという店」だということだ。

これは現代の「ソロ客対応型店舗」とは全く逆で、「消え行く昔の飲み屋」の象徴ではないか。


昔の居酒屋には、「客」 ―「大将・女将・ママ」―「他の客」という弱いつながりがあった。

一人で入っても、大将が「今日はやけに早いな」と言う。

常連同士を直接紹介するほどではなくても、ママさんが会話を少しつなぐ。

話したくなさそうなら放っておく。
 

つまり店側が、客同士の距離や孤独を微調整する媒介者になっていた。
つまりそこには喩え薄くとも「縁」が存在する。

 

本人が1から縁を作らなくても、店主が縁が広がるきっかけを作ってくれたり、縁の網の結び目を少し調整してくれる。


ところが現在の飲食店では、注文はタブレット、配膳はロボット、会計はセルフ、といった方向へ進み、そもそも人手不足や原価高の中で、店員が客の様子を見ながら「今日は話しかけた方がいいかな」などと考える余裕は全くない。


昔のひとり飯のシステムはこうだ。

「 一人で店に入る」

  ↓
「 店主や他の客との薄い縁がある」

  ↓
 一人だが完全には孤立しない

 

しかし現代型のひとり飯はこうなる。
「 一人で店に入る」

  ↓
「 一人用席・スマホ・モバイル注文などが一人で完結させてくれる」

  ↓
他者と関わらなくても困らない(但し縁は作成されず、逆に摩擦も生じない)
 

この二つはかなり違う。
だから記事の「沈黙の賑わい」という美しい表現も、ひょっとすると現代のひとり飯そのものを描写しているのではなく、記者が昔ながらの居酒屋で見つけた、消えつつある共同性を描写しているとも言える。


しかも記者は定年を迎え、「会社の同僚や取材先と飲み食いする機会がめっきり減った」と最初に書いている。


つまり、
仕事によって自動的に与えられていた縁が減った

  ↓
一人で昔ながらの居酒屋へ行く
  ↓

会話しなくても他者の気配がある
  ↓

「独りではない」と感じる
という、エリクソンの言うところの「発達段階の最終段階」の話、そして記者自身のナラティヴ(物語)になっている可能性がある。


すると記事では「若者のひとり飯」「SNS」「(韓国の)ホンパプ」「ジンメル」という社会問題まで話を広げているのだが、それと記者自身のナラティヴとがごちゃまぜになっているところが気になる。
 

若者はスマホによって「独りではない」と感じる。
記者は昔ながらの居酒屋によって「独りではない」と感じる。
確かにどちらも、一人でありながら何かを介して他者とつながっている気がしている。

 

しかし記者なんだから、常葉大学の七星純子助教の「食の環境が変化するなか、現代のひとり飯は共食でも孤食でもない食の形式といえる」とていう言葉を引っ張ってきてきれいにまとめるのではなく、このいろいろと問題になっている時代においては、その違いをもっと記事では書くべきではないだろうかと思う。

 

なぜSNSが「注意を奪う(アテンション・エコノミー)」、AIは「愛着を奪う(アタッチメント・エコノミー)」と言われているのか。

 

「昔は飲み屋の大将やママさん、商店のおばちゃん、近所の人などが担っていた部分を、現在はスマホやSNSがかなり代替している」と本当に考えていたら、結構能天気な話だ。

 

 

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前回の続き。

 

さて、一人飯をもう少し深く考えると、「一人で食べたい」というのも有れば、「(誰かと一緒だと神経を使うから)一人じゃないと食べられない」、また「誰かと食べたいけど、誰もいない」とかもある。

 

「一人で食べたい」。

これは独りを選択したということ。

自分の時間を楽しむ。これは「自由」であり、また僕がよく言っている「自在」にかなり近い。


「一人じゃないと食べられない」

これは対人場面で神経を使うとか、会話が負担、評価されるのが嫌など、回避としての独り。


「誰かと食べたいけれど、誰もいない」

これは希望と現実の不一致。これが従来「孤食」と呼ばれてきた問題に近いだろう。

さて問題なのは、これは本人の言葉だけでは区別しにくいこと。

「オレ、一人の方が気楽だから」と言っていても、本当に好んで一人なのか、誘って断られるのが怖いからそう説明しているのかは分からない。

もちろん逆もある。

「みんなで食べるのが好き」と言いながら、実は一人になることに耐えられないケースだ。

そうやって考えると、「一人か、誰かと一緒か」は問題の中心ではないのかもしれない。

一人でも食べられる。誰かとも食べられる。そして今日はどちらにするか選べる。
これが「自在」という話なのだ。

こうやって考えると、日経新聞の記事の「自ら選び、他の人に邪魔をされない時間を楽しむ」という定義には、「自ら選び」という非常に重要な言葉が入るのだが、これも本当に選んでいるのかどうかまでは外から見たら分からない。

そしてスマホは、ここをさらに分かりにくくする。

「一人だけれど寂しくない」を可能にする一方、「一人でいることの不安をスマホなしでは処理できない」になってしまう可能性だってあるからだ。

記事には「スマホは必須のアイテムだ。目の前の家族や友達と話す代わりに、画面の向こうの誰かと「対話する」。リアルにおける周囲は気にならない。その姿は「孤食」という言葉が帯びる寂しさからは遠い。」とあるが、確かに「スマホを使って一人飯を楽しめる」というのは一見結構なように見える。

しかし「スマホを見てもいいし、見なくてもいい。誰かと食べてもいいし、一人でもいい」という「自在さ」からは、程遠いことだってあるのではないか。

「スマホが無いと寂しくてしょうがない」じゃ、不自由でしょうがない。


「自在度」とは「何をしているか」より「選択肢をいくつ持っているか」なのだ。

 

てなところで今日はこの辺で。

 

 

 

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今朝の日経新聞に気になる記事があった。

 

定年後の記者がよく1人で訪れる昭和30年創業の居酒屋の話から始まる。

以下引用文

「午後6時、暖簾(のれん)をくぐる。同年代とおぼしき面々のひとり飯が「沈黙の賑(にぎ)わい」をみせていた。老眼鏡をかけ文庫本を読む人、テレビのニュースを眺める人。言葉を交わさなくても、時間と空間を分かち合える心地よさ。自分と対話しながらあれこれ想像を巡らせると、なぜか「独り」でないと思えてくる。
 近年、ひとり飯がちょっとしたブームになっている。「アラ還」のおじさんだけでなく世代を超えて広がっている。やむを得ず1人で食べる「孤食」とは少し違う。自ら選び、他の人に邪魔をされない時間を楽しむ。

---中略
 10年ほど前までは若者の間では「ぼっち飯」と揶揄(やゆ)されることも多かった。そんなひとり飯がなぜ市民権を得たのか。「ひとり空間の都市論」を著した南後由和・法政大教授は理由の一つとして「スマートフォンやSNSの普及によるところが大きい」とみる。
 1人で食事をする若者にとって、スマホは必須のアイテムだ。手に取ったりテーブルの上に立てかけたり。目の前の家族や友達と話す代わりに、画面の向こうの誰かと「対話する」。リアルにおける周囲は気にならない。その姿は「孤食」という言葉が帯びる寂しさからは遠い。

---中略

共に食べることで人と人との距離は縮まる。子どもや高齢者だと食も進む。だからといって共食が正しく、孤食は間違いと一律に断じることは出来ない。常葉大学の七星純子助教(社会学)は「食の環境が変化するなか、現代のひとり飯は共食でも孤食でもない食の形式といえる」と語る。」

 

日経の記事は、社会学者ジンメルの理論も入れながら、「20代、30代の客がカウンター席に着いてまずはスマホを置く。その所作は、ナイフやフォークを並べるように、デジタル時代の新たな食卓作法になりつつあるのかもしれない。」と結ぶのだが、これを読んで少し気になるところもあったので、早朝で話す相手もいないということもあり、ChatGTPにこれをどう思うか聞いてみた。

 

すると「「ひとり飯=孤独」という従来の二分法を崩しているところ」が面白いという答えが返って来た。

 

さらに(以下ChatGTP)

「ただ、読んでいて一つ引っかかるのは、記事の冒頭に出てくる筆者の居酒屋での「ひとり飯」と、後半に出てくる若者の「スマホを置いてのひとり飯」は、見た目は同じでも、心理的にはかなり違う可能性があることです。

冒頭の、

「沈黙の賑わい」
「言葉を交わさなくても、時間と空間を分かち合える心地よさ」

という表現はとても重要だと思います。

これは一人だけれど、他者がいるんですよね。本を読んでいる人、テレビを見ている人、店員、串トンを待っている人。その人たちとは会話しない。しかし、「同じ場所に居合わせている」。

以前から話していた「縁」の考え方でいうなら、これは縁を切った状態ではなく、縁を薄く張った状態と考えると非常に分かりやすいと思います。

一方、スマホを見ながらのひとり飯は、少し違います。記事では、

「画面の向こうの誰かと『対話する』」

と肯定的に捉えていますが、ここはもう少し分解した方がいい。

スマホの向こうに親しい友人がいてメッセージを交わしている場合もあれば、YouTubeを見ている場合も、TikTokを流している場合も、AIと話している場合もある。「スマホを見ている」という外形だけでは、つながっているのか、刺激を受け続けているだけなのか分からないからです。

そして私は、この記事でもっと掘り下げられそうなのが、まさにここだと思います。

「一人でいる力」と「一人になれない状態」は、外から見ると同じひとり飯になる。

例えば、

A:本を読みながら食べる
→ 自分と本と周囲の人との間を行き来する。

B:何もせず食べる
→ 味、店内の音、人の動き、自分の考えなどが入ってくる。

C:友人とLINEしながら食べる
→ 物理的には一人だが、社会的には誰かといる。

D:ショート動画を延々と見ながら食べる
→ 一人でいる時間を、絶え間ない外部刺激によって埋めている。

全部「ひとり飯」ですが、心理的にはかなり違います。

だからこの記事の「共食でも孤食でもない」という整理から、もう一歩進めて、「ひとり飯ができるようになった」のか、それとも「スマホがあるから一人でもいられるようになった」のかという問いが出てきます。

これは、これまで話してきた「退屈をやっつける力」や「面白さ創造力」とも直結します。

スマホを置いて一人で食事している若者に、

「スマホなしでも、この30分を面白くできますか?」

と尋ねると、かなり面白い調査になるでしょう。

しかも、冒頭の居酒屋にはそれを可能にする仕掛けがあります。炭火の串トンを30分待つ。手書き伝票。現金。テレビ。知らない人。店員。匂い。音。

つまり**「何もない30分」ではなく、自分で拾えるものがたくさんある30分**なんですね。

ここがデジタルとの決定的な違いかもしれません。デジタルは「面白いもの」を向こうから供給してくる。一方、この居酒屋では面白さをこちらから拾わなければならない。

以前整理した、

向こうからやってくる「面白いこと」は依存につながりやすいが、こっちから向かっていく「面白いこと」は、気づかないうちに自分の力になっていく。

という話の、かなり良い具体例になっています。

さらに面白いのは、筆者が「自分と対話しながらあれこれ想像を巡らせると、なぜか『独り』でないと思えてくる」と書いていることです。

普通は、

他人とつながる → 孤独ではなくなる

と考えます。

ところがここでは、

一人になる → 想像する → 周囲を感じる → 独りではないと感じる

となっている。

一見すると逆です。

だからこの記事をデジタル依存の文脈まで広げるなら、私は「孤食か共食か」よりも、

「一人で食べているとき、あなたと世界との間には何がありますか?」

という問いの方が面白いと思います。

スマホでもいい。本でもいい。店のテレビでもいい。隣のおじさんの咳でもいい。串トンが焼ける匂いでもいい。あるいは自分の空想でもいい。

問題は「一人かどうか」ではなく、その30分にどんな縁を張っているのか。

そう考えると、「ひとり飯」は孤独の問題というより、むしろ現代人の「自在度」を観察する非常に面白い窓になりそうです。」

 

と続く。

 

この話はまだまだ続くのだが、取り敢えず今回はここまで。

 

 

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10月10日に墨田区立小学校PTA協議会主催のセミナー、「子ども成長フォーラム」で「スマホ・ネット依存の現状と対策について」をお話します。

小中学校のお子さんがおられる方は、是非お越しください。
デジタル依存をただ禁止したりルールを設定するのではなく、デジタルを上手に活かし、付き合っていく具体的な方法もお話します。

 

ご来場をお待ちしています。

 

 

 

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何か知らんが忙しい。

 

金曜日はカウンセリングの合間に、12月の東京での講演の打ち合わせとか、読売新聞の取材を受けたりとかで結構いっぱいいっぱいだったし、土曜はWEB講座とカウンセリングであっという間に1日が終わったし、今日は1日カウンセラー講座だ。

10月からは毎月2つ講演が入ってるしな~。

 

他にもやることがめっちゃ溜まっているから、こりゃシルバーウィークも全部仕事になるかもしれん。

シルバーウィークにブルーな気分ってどうよ。ぐすん

 

さて話は変わるが、何か言われて落ちこんでいる人がカウンセリングに来られた時、つくづく難しいなあと思うことは、その「言われた事」が妥当ではないことをこちらが証明しても、その人の落ち込みが回復するとは限らないということだ。

 

僕自身は、何か批判されたり、(僕に言わせると)結果論で切ってこられても、

「それはあなたの物差しの話だよね」

「その批判は、こういうパラドックスを含んでいるよね」
「その評価軸だけでは人生は語れないよね」

と、頭の中で整理できるし、言葉にして返すことができる。

 

けれど、そうではない人もいる(というか、そっちの方が圧倒的に多い)。

相手の言葉をまともに受けてしまい、「やっぱり自分はダメなんだ」と落ち込んでしまう。

 

 

そしてそういう話を聴いた場合、僕にとって難しいと感じることは、落ち込んでいる人に対してその言われた批判の誤りを「論破すること」ではなく、論破しても本人は簡単には救われないという点なのだ(これをわからず「認知療法」で論破、説得しようとしてしまうカウンセラーが多いし、僕もたまにこれをやってしまう)。

 

「結果論の誤り」を説明するのは、比較的簡単にできる。

でも、落ち込んでいる人が苦しいのは、論理的にやられたからではなく、その言葉が、自分の中の痛いところと結びついてしまったから。

 

落ち込んでいる人に必要なのは、理論武装よりもまずは「安心」なのだ。

 

 

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またまた前回の続きとなるのだが、大学で心理学を教えていた時、理工学部で大教室の場合だと、15回の履修を通して手を上げて質問をしたことが1回もない学生が大半を占めていた。

 

彼らは講義内容が全てわかっていたのだろうか。

それはない(レポートを見ればわかる)。

 

では彼らは「質問する気が無かった」のだろうか?

 

これは一見別の話に見えるが、このテーマの話と同じ構造を含んでいる可能性がある。

つまり「結婚をする気がない」という言葉もそういうことを頭に入れて考える必要があるということだ。

大教室で質問するには、難しい言い方になってしまうが「自分の疑問には、(他人の時間を使わせるだけの)価値がある」という感覚が多少なりとも必要だ。

ところが自己評価が低いと、
「こんな質問は馬鹿だと思われるかもしれない」
「みんなは分かっているかもしれない」
「間違っていたら恥ずかしい」
「わざわざ目立つほどのことではない」
となり、最終的には、
「別に質問するほどのことじゃない」
になってしまうことも多い。

つまり、最初から疑問がなかったとは限らない。

結婚でも、
「自分を好きになってくれる人がいるだろうか」
「恋愛経験もない」

「告白する勇気もない」

「断られたら笑いものだ」

「喩えデートまで上手くいったとしても、何を話せばいいのかわからない」
「経済的にも自信がない」
「家庭を維持できる気がしない」
という不安をそのまま認識するのは苦しい。

そこで、「別に結婚したくない」とすれば、一応きれいに話がまとまる。

つまり、
できそうにない → 欲しいと思うとつらい → 欲しくないことにする
という合理化は十分あり得るのだ。

しかも、この場合の「結婚したくない」は嘘とは言い切れない。

心理学的には、長くそう考えていれば本当に欲求自体が弱くなっていくことも多いと考えられる。

例えば「質問しない学生」の調査で、「『最近の学生は質問したいと思わない』は85%」とかいう調査結果が仮に出たとしても、それはかなり違うのではないか。

実際には、
質問したい → でも手を挙げられない → そのうち「別に聞かなくてもいい」 となる。

結婚も同様に、
結婚してみたい → でも自分には難しそう → 「別に結婚しなくてもいい」→「結婚したくない」
という心理的な変換があってもおかしくない(もちろんみんながみんなそうだというワケではない。本当に面倒だとか、異性とつきあうのは嫌だという人も当然いるだろう)。

ここで問題となるのは、恋愛には厄介な特性があるということだ。

旅行や趣味なら「一度やってみよう」が有りだが、恋愛は相手からも選ばれなければ成立しない。

したがって、
恋愛したい → 自分から働きかける → 拒絶される可能性を引き受ける
必要がある。

こうやって考えると、先ほどの「大教室で質問できない」の話との共通点として、「挙手」と「告白」が意外に近いのではないか。

大教室で手を挙げる。
  ↓
「こんな質問をして馬鹿だと思われないか」
「周囲から変に見られないか」
「先生に否定されたら恥ずかしい」

恋愛で相手に働きかける。
  ↓
「自分なんかが声を掛けて迷惑じゃないか」
「気持ち悪いと思われないか」
「断られたら恥ずかしい」
「周囲に知られたら嫌だ」

どちらにも、「自分から他者との関係に一歩踏み出し、その反応が自分の期待どおりにならないリスクを引き受ける」という構造がある(AIに対してはこれが無い。そしてそれが「ますます摩擦を回避する」問題となる)。

さて、これを「want(したい)」、「can(できると思う)」、「try(やってみようと思う)」の3つの面から考えるとわかりやすいだろう。

自己効力感が低い場合、
can が低い

 ↓

try がのハードルが高くなる

 ↓

行動しないと経験や学習が蓄積されない

 ↓

can がさらに低くなる
 ↓

want まで下げて心理的整合性を取る(合理化、認知的不協和理論)
という循環が成立することが考えられる。

そして、もしこの構造なら少子化対策として「結婚はいいものですよ」と 勧めて、wantを上げようとしても上手くいかない。
本人はおそらく「いや、別に結婚したくありませんから」と答えるだろう。

実際にボトルネックになっているのは can や try なのだ。



もちろん、本当に「結婚する気がない」という人の選択は尊重しなくてはいけない。

だからこそ、「結婚したくない35%」を単純に考えず、
「選べると思ったうえで選ばない」のか、
「選べないと思うから欲しがらない」のか。
ここを調べる必要が政策としては重要となるのではないか。

 

ということで清き一票を是非私に!

 

…ってなれへんけど。

 

閑話休題

 

なぜ僕は政治家が全然無理なのか。

 

政治家のパーティは、それこそ市会議員から国会議員まで何度か行ったことはあるのだが、いつもそこで感心するのが政治家の腰の低さ。

 

ワケのわからんおっさん(パーテイ参加者)が、まるで自分がその政治家を当選させてやったような偉そうなモノの言い方で話しかけても、政治家は笑顔で握手して「おかげさまで」とか頭を下げている。

 

 

 

ありゃ、本当にすごいよね。


僕だったら

「偉そうにするんじゃないわっ!オマエの票なんか要らんっ 怒り 」

とかすぐに言っちゃいそうな気がする。

 

だから無理無理。

だってあの大天才の立川談志だって、そんなことを言っているから落選したんだから。

ということで僕はこうやって偉そうに書いてはいるものの、政治家になる素質は全然ないのだ。

 

 

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