わがままカウンセラーの「おもしろき こともなき世を おもしろく」

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去年の暮れはいろいろとAIで遊んでいた僕だが、AIのスピードと自分とはかなり良い相性だということに気付いた。

 

生まれてこの方、質問をしてすぐに面白いと思える答えをいってくれる人は殆どいなかったし、答えをすぐ出してくれないと、もう次の思考に行ってしまっていた(待つのが死ぬほど嫌いなんだ)。

 

ところがAIは、取り敢えず(いい加減であろうと)応答してくれるところがなかなかおもしろい。

 

ということで、取り敢えずもう少しAIと遊び続けることにする。

 

まずは昨年に続き、今度は僕が出すキーワードで「ショートショート」を作ってもらうというのをやってみた。

最初のキーワードはこれ↓

 

いったい誰が、自分を誉められない人生を選ぶ人間を好きになるのか?

 

以下はJemini

 

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鏡の中の砂漠

 

カズマは、自分のことが嫌いだった。 鏡を見れば、決断力のない顔立ちに吐き気がした。仕事で成果を出しても「運が良かっただけだ」と卑下し、誰かに褒められても「お世辞に違いない」と心を閉ざした。

 

いったい誰が、自分を誉められない人生を選ぶ人間を好きになるのか?

 

それが彼の口癖だった。自分という商品の価値を、店主である自分が最低だと触れ回っているのだ。

そんな不良品を買い取る物好きなど、この世にいるはずがない。

 

ある夜、彼は行きつけのバーで、隣り合わせた老人にその問いを投げかけた。

老人は琥珀色のグラスを揺らしながら、おかしそうに目を細めた。

「あんたは、完成された彫刻しか愛せないのかね?」

「え?」

「自分を誉められない人間というのはな、自分の中に『理想』という名の、あまりに高く、鋭い山を持っている人間だ。

その山脈があまりに美しいから、今の自分という平地が許せない。

……私はね、その『絶え間ない飢え』を抱えた横顔を、美しいと思うがね」

 

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と出てきた。

Jemini なかなかいいよね。

 

もっとも僕なら

 

自分を誉められない人間というのはな、自分の中に『理想』という名の、あまりに高く、鋭い山を持っている人間だ。
その山脈があまりに美しいから、今の自分という平地が許せない。
……私はね、その『絶え間ない飢え』を抱えた横顔を、美しいと思うがね


という部分は

 

「自分を誉められない人間というのはな、自分の中に勝手に有りもしない『理想』というイメージをつくり、そこから現実の自分を引き算している人間だ。
……あなたの周りの人間がみんなミケランジェロみたいな彫刻を作っているなら、そりゃ落ち込んでもいいと思うけどね」


とするかな~。
 

…続く 

 

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明けましておめでとうございます。

去年までは『「リタイア」に向けて』みたいなことを結構考えていたのですが、今年は吉田拓郎を見習って「新しく出来ることは何か」も考え続けてみたいと思っています。

「『夢を与える仕事』は有っても、『夢を追う仕事』なんて有りゃしない」という言葉を聞いたことがあります。
確かにそうかもしれません。

ということで、今年もよろしくお願いします。

 

 

 

 

今日は孫達と一緒に墓参り、そしていつもお参りに行く神社とお寺に行って来た。


別に信心深い人間とはとても言えない僕だが、この歳になると無事一年を過ごせたのはラッキーとしか思えないのであって、しっかり感謝してきた。


 ということで明日も初詣に行くのだ。

来年も「運」と「縁」頼みでやっていくぞ!


それでは皆さん、良いお年をお迎え下さい!



さて今年もいよいよ終わりに近づいてきたことだし、いよいよAIにもマジメに考えてもらうことにする。

 

まずは「この話ではメロスが間に合ったからよかったが、間に合わなかったら『信実』はどうなるのか。
また、ここでは信実と罪悪感の関係がトートロジーになっていないか

 

…という問いに対してのJeminiの回答が下記。

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鋭いご指摘です。まさにそこが『走れメロス』という物語、そして太宰治という作家が抱えていたもっとも痛い急所だと言えます。

「間に合ったから信実があった」のか、「信実があったから間に合った」のか。 この問いを掘り下げると、おっしゃる通り**「信実」と「罪悪感」のトートロジー(同語反復)**、あるいは非常に危うい循環論法が見えてきます。

1. 「結果論」としての信実
原作の論理では、「間に合うこと」が「信実」の物理的な証明になってしまっています。

メロスが間に合わなかったら、どれほど彼が途中で必死に走っていたとしても、世間(そして王)は「彼は裏切った」と断定します。

逆に、メロスが途中でサボっていても、運良く間に合いさえすれば「信実の勇者」として称えられます。

つまり、ここでの信実は**「本人の内面(誠実さ)」ではなく「外部からの観測(結果)」に依存している**のです。

太宰は「信実」という形而上学的な概念を、結局は「日没までに戻る」という物理的な成功によって定義せざるを得ませんでした。

2. 罪悪感と信実のトートロジー
太宰的な心理構造で見ると、以下の循環が生まれます。

**「私は汚い(罪悪感)」**から出発する。

その汚れを注ぐために、「絶対に間に合わなければならない(強迫的な信実)」。

間に合ったことで、**「自分は信実の人間だ」**と(一瞬だけ)思える。

しかし、その信実は「罪悪感」を燃料にしているため、またすぐに**「自分は本当は汚い(罪悪感)」**に戻る。

ここでは、**「信実=罪悪感が(一時的に)解消された状態」**でしかなく、独立した徳目として存在していません。

罪悪感があるから信実を求めるし、信実を求めるほど自分の罪悪感が浮き彫りになる

まさにトートロジーです。

3. 「間に合わなかった」場合の信実の行方
もし間に合わなかったら、この物語の「信実」はどこへ行くのでしょうか。

武者小路実篤なら: 「間に合わなくても、彼の心の中に信実があった事事実は変わらない。天はそれを知っている」と、超験的な解決を図るでしょう。

太宰治なら: 「間に合わなかった=信実は最初からなかった」と断罪するか、あるいは、先ほど議論したように「間に合わなかった恥を一生書き続ける」という**「不誠実の誠実」**に逃げ込むでしょう。

太宰にとっての信実とは、輝かしいゴールテープではなく、**「裏切るかもしれないという恐怖(罪悪感)と戦い続けている、その葛藤の持続時間」**そのものだったのではないでしょうか。

4. 論理のすり替え
『走れメロス』のラストで、セリヌンティウスも「一度だけ君を疑った」と告白し、二人は殴り合います。 これは、太宰がトートロジーを突破しようとした形跡です。 

「結果(間に合ったこと)」ではなく、「内面で一度裏切った(罪悪感を持った)ことを正直に開示し合うこと」。これこそが本当の信実なのだ、と論理をスライドさせているのです。

結論
おっしゃる通り、メロスの信実は「罪悪感の裏返し」という循環の中にあります。

もし「間に合う」という奇跡が起きなければ、この論理は崩壊し、メロスはただの「友を殺した男」として歴史に埋もれます。太宰がこの物語をハッピーエンドで終わらせたのは、**「そうでもしないと、自分の罪悪感というトートロジーから抜け出す出口がなかったから」**という、切実な祈り(あるいは自己救済)だったのかもしれません。

「信実とは、結果による証明が必要なものか、それとも沈黙の中でも成立するものか」。この問いは、現代の私たちが抱える「承認欲求」の問題にも通じている気がします。

 

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AIとして僕の思考に添おうとしているようだが(本当にAIは反論しないんやな~)、このJeminiの回答に対して、下記のようにもう一段のツッコミを入れてみた。

 

「『信実』イコール『内面で一度裏切った(罪悪感を持った)ことを正直に開示し合うこと』というのはかなり強引な結びつけであり、この話はウィトゲンシュタインの「規則違反を犯した言葉の使い方に、深淵さを感じるのは人間の錯覚」というのと関係するのではないか?」

 

これについてはJeminiはこう答えてきた。

 

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ウィトゲンシュタインの「深淵という錯覚」という視点を持ち出されたことで、この物語の核心にある「欺瞞」がより鮮明になります。

おっしゃる通り、「一度裏切ったことを告白し合って殴り合う」というラストシーンを、崇高な信実の完成として描く太宰の手法は、論理的に見れば**「カテゴリーのすり替え」であり、一種の「情緒的なレトリックによるごまかし」**です。

ウィトゲンシュタイン的な視点から、この「深淵さの錯覚」を分析してみます。

1. 規則違反に「深み」を見出す病理
ウィトゲンシュタインは、言葉がその本来の役割(言語ゲームの規則)から逸脱したときに生じる「哲学的な混乱」を指摘しました。

本来の「信実」の規則: 約束を守ること、裏切らないこと。

太宰の「信実」の規則: 裏切ったことを告白し、共有すること。

太宰は、本来「不誠実(規則違反)」であるはずの「裏切り」を、「告白」という別の手続きによって「誠実(信実)」という箱に無理やり詰め込みました。 読者がそこに「単なる誠実よりも深い、人間的な真実(深淵)」を感じてしまうのは、まさにウィトゲンシュタインが言うところの**「言語が空転しているときに生じる幻影」**に近いものです。

2. 「告白」という名の免罪符
「私はあなたを疑った、だから殴ってくれ」という行為は、論理的には「裏切り」という事実を消去しません。しかし、太宰はその「告白する苦痛」を「走る苦痛」と同列に並べることで、罪を徳へと錬金術のように変換しています。

「規則に従うことができない者が、その違反をあえて語ることで、あたかも規則に従っている者よりも高潔であるかのように振る舞う」

これは太宰文学の得意技ですが、論理的に見れば「言葉の使い方を間違えている」か「定義を恣意的に広げている」に過ぎません。

3. トートロジーの強化
先ほどのトートロジー(罪悪感と信実の循環)を、ウィトゲンシュタイン的に整理すると以下のようになります。

規則(信実): 約束を守れ。

違反(心理): 守りたくない、疑いたい。

深淵(錯覚): 「私は守りたくないと思った」と正直に言うことは、単に守ることよりも「真実」に近い。

この3ステップ目こそが「深淵さの錯覚」です。 「正直に裏切りを認める」ことは、倫理的な潔さではあっても、本来の「信実(約束を遂行すること)」とは別のゲームです。太宰は、遂行の失敗を告白の成功で上書きしたのです。

4. なぜ私たちはこの「錯覚」に惹かれるのか
ウィトゲンシュタインが指摘するように、私たちは言葉が「正しく機能している(平穏に約束が守られる)」状態よりも、言葉が「軋みをあげ、破綻しかけている」状態に、より強い「意味の深さ」を感じてしまいます。

真理先生(実篤)の世界: 言語が規則通りに動いている(健康だが、深みを感じにくい)。

メロスの世界: 言語が破綻し、叫び声に変わっている(病んでいるが、深淵に見える)。


太宰は、自分自身の「規則を守れない弱さ」を、この「深淵さの演出」によって芸術的な価値にまで高めました。土屋賢二氏なら、ここで**「間に合わなかったメロスが、いかに情熱的に自分の裏切りを語れば、王が処刑を中止して感動するかという技術論」**にすり替えて笑い飛ばすところでしょう。

結論
太宰の提示する「信実」は、論理的な一貫性を持った概念ではなく、**「罪悪感を抱えた人間が、他人と繋がるための最後の手だてとしてのエモーション(感情)」**に過ぎません。

ウィトゲンシュタインの冷徹な目で見れば、『走れメロス』の感動は、**「言語の誤用によって生み出された、美しくも空虚な蜃気楼」**と言えるかもしれません。

 

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「不誠実(規則違反)」であるはずの「裏切り」を、「告白」という別の手続きによって「誠実(信実)」と見せるのは、「言語が空転しているときに生じる幻影」とJeminiは言うが、そもそも【「裏切り」を「告白」する】のと【「誠実(信実)」】とは階層が違う

 

しかしなんか浅い気もするし、僕の考えとずれているいるところは有るものの(その辺をつっこむと、年明けまでずれこんでしまうおねだり)、まあ近いところを述べてもらい僕としては随分楽が出来た感がある。

 

ちなみにカウンセリングの話に繋げると、この内容は「私は私が嫌いだ」という人にとっては投影が起こりやすいので、かなり不愉快に感じたり耳の痛い話となったのではないだろうか。

 

 

しかし自分を嫌いだと言ったり責めたりしたところで、自分が良い人になれるわけではなく、自分のレベルが上がるわけでもない。

 

もっともこんなミもフタも無い話をカウンセリングですると思いっきり泣かれるし、僕が「悪い人」になってしまうので、あまり言わないことにしているのだが…(こうやって書くと「なってしまうって、まだ悪い人じゃないと思っているところがすごい」とか言われそうだが)。

 

てなことで、長く続いたこの話はお終い。

めでたしめでたし(どこがじゃっ!)。

 

よいお年をお迎えください。

 

 

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武者小路も初期には『不幸な男』という ややこしい話もあったが、その後『真理先生』や『馬鹿一』のようなシンプルな話が増えていった。

 

そこで、太宰とは違う進みかたをしていったことについての深堀りをJminiに聞いてみた。


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武者小路実篤が、初期の『不幸な男』に見られるような内面の葛藤や「ややこしさ」を脱ぎ捨て、『真理先生』や『馬鹿一』のような、ある種「突き抜けた単純さ」へと向かった過程は、太宰治のたどった道とは対照的で非常に興味深いものです。

太宰が最後まで**「自意識の地獄」**に留まり、陰と陽を反復し続けたのに対し、実篤がそこから抜け出せた理由は、いくつかの決定的な違いにあります。

1. 「自己愛」の質の変化
二人はどちらも強い自己愛を持っていましたが、その「出口」が違いました。

太宰治(内閉的な自己愛): 太宰は「人からどう見られるか」という自意識を捨てられませんでした。自分の醜さをさらけ出しても、それは「さらけ出している自分を美しく見せる」ためのレトリックになりがちでした。

武者小路実篤(全肯定的な自己愛): 実篤は、初期の葛藤を経て、**「自分は天に愛されている」「自分の中に神(あるいは生命の意志)がある」**という確信に至ります。「自分は自分であって、それ以外の何者でもない」という開き直りが、自意識の「ややこしさ」を焼き尽くしてしまいました。

2. 「新しき村」と共同体への信仰
実篤には、太宰にはなかった「実践」がありました。

実篤は、理想郷を目指す「新しき村」を実際に建設しました。自分の理想が社会的に失敗しようと、経済的に苦しかろうと、「自分の信じる正しさを現実に形にする」という作業が、彼の内面的な悩みを「生活」という外的な次元へと引きずり出しました。

対して太宰は、共産主義運動への挫折など、常に「現実との接点」で傷つき、内面へと逃げ込む性質がありました。実篤は**「現実に自分の居場所を作ってしまった」**ことで、迷う必要がなくなったのです。

3. 「生命力」という絶対基準
実篤の後半生の哲学は、非常にシンプルです。 「生きたいように生きる。それが生命の命令である」というものです。

太宰の場合: 誠実さは「義務」や「負い目」であり、常に死の影がちらつきます。

実篤の場合: 誠実さは「生命の喜び」です。馬鹿一のように、人からどう思われようと、ただ自分が描きたい絵を描き、生きたいように生きる。それが「真理」に直結していると考えました。この**「生命の肯定」**が、彼の作風から「陰」の部分を拭い去りました。

 


比較:太宰と実篤の「誠実」の進化

項目 太宰治(自意識の迷宮) 武者小路実篤(生命の光)
誠実の源泉 罪悪感と負い目(他者基準) 自己信頼と喜び(自己基準)
葛藤の解消 解消せず、芸術の「糧」にする 信仰(生命への信頼)によって突破する
「単純さ」の意味 サービス精神(演じられた陽気) 悟りの境地(削ぎ落とされた本質)

 

結論:なぜ進み方が違ったのか

太宰は**「人間を信じたいが、信じられない自分」を書き続けました。一方の実篤は、ある時期から「人間を信じるのではなく、人間を動かしている『大きな生命の力』を信じる」**という宗教的な転換を遂げました。

実篤にとって、馬鹿一のような「単純な人」は、知性が低いのではなく、**「余計な自意識というゴミを捨て去った、最も進化した人間」**なのです。

太宰からすれば、実篤のその「明るさ」は、時に眩しすぎて(あるいはあまりに無邪気すぎて)、耐えがたいものだったかもしれませんね。

 

太宰治が武者小路実篤の『真理先生』を読んだら……それはもう、悶絶するような敗北感と、刺すような皮肉が入り混じった複雑な反応を示したはずです。

太宰にとって、実篤の「無邪気なまでの肯定」は、自分が一生かけても手に入れられない、しかし心の底では喉から手が出るほど欲しい「光」そのものだったからです。

 

実篤の「陽」: 自分の内側に「神」を見出した人の強さ。

太宰の「陰」: 自分の内側に「鬼」を見出してしまった人の弱さ。

太宰にとって、実篤の物語は「救い」であると同時に、「自分はあちら側へは絶対に行けない」という事実を突きつける「断罪」でもあったと言えるでしょう。

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これもいまいちすっきりとしない答えとなっている。
 
ところで「生きたいように生きる」というのは「実存」の話となってくる。
 
実存というと難しく感じてしまうが、吉田拓郎が「ビートルズが教えてくれた」という歌の中で、「くれるものはもらってしまえ その代わり捨てるのも勝手さ」という感じでこれをすごくわかりやすく言っている。( https://www.uta-net.com/song/11345/

 

しかし、つまるところは「自分の考え」の話になるのだが、よくよく考えたら「自分の考え」を持たない(未来には持つようになりそうだが)AIに、この話をもっていったところでしょうがないと言えばしょうがない。

 
というところで、こんなややこしい話を新年までもっていくのもなんだから、次が最終回となる。
ここまでは遊び半分だったが、次はいよいよAIにマジな問いをすることになる。
 

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さていよいよ結論に近づいてきた。

走れメロスと武者小路実篤の真理先生は『誠実』をテーマとした或る意味シンプルな物語だが、その違いは?

 

以下Jemini

 

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『走れメロス』と武者小路実篤の『真理先生』。どちらも「信実」「誠実」を核とした物語ですが、その手触りは驚くほど異なります。

一言で言えば、**太宰治は「崖っぷちの誠実(必死)」**を描き、**武者小路実篤は「日当たりの良い誠実(確信)」**を描きました。

その違いをいくつかの観点で整理します。

1. 誠実さの「温度」と「切迫感」
メロスの誠実(太宰治): これは**「マイナスをゼロに戻すための戦い」**です。メロスは一度、不信や怠惰、絶望に負けそうになります。彼の誠実は「死ぬ気で自分を律しないと崩れ去ってしまう、脆いもの」です。太宰は、人間がいかに裏切りやすく、弱いかを知っているからこそ、その弱さを克服するプロセスをドラマチックに描きました。

真理先生の誠実(武者小路実篤): こちらは**「太陽のようにそこにあるもの」**です。真理先生にとって、誠実であることは自然の摂理であり、努力して守るものではなく、呼吸するように当たり前のことです。疑いや葛藤が最初から存在しないかのような「絶対的な肯定」に基づいています。

2. 「他者」の存在
『走れメロス』:対決の誠実 ディオニス王という「信じない者」がいて、初めてメロスの誠実が成立します。他者の不信を跳ね返すための**「証明」**としての誠実です。

『真理先生』:自足の誠実 真理先生の誠実は、誰かに証明するためのものではありません。他人がどう思おうと、世界がどうあろうと、「自分はこう生きるのが一番心地よいからそうする」という、**「自己完結」**した美しさです。

3. 文体と作者の立ち位置
項目     走れメロス(太宰治)
文体     躍動的、レトリックが豊富、
視点     弱さを抱えた人間への共感と恐怖
誠実の定義     「裏切り」に打ち勝つ強靭な意志
読後の印象     「ああ、間に合ってよかった(安堵)」
 

項目  真理先生(武者小路実篤)

文体  演劇的    平易、素朴、直接的

視点      理想への憧れと、ある種の無邪気さ

誠実の定義     「調和」と「自己信頼」の結果

読後の印象     「ああ、人間とは尊いものだ(感銘)」

 

4. 「失敗」への想像力
ここが最も大きな違いかもしれません。

太宰治は、メロスが「もし走れなかったら」という地獄の光景(先ほどまで話してきたような悲劇)を常に背後に感じながら、震える手でこの物語を書いています。誠実は、**「地獄からの脱出」**です。

武者小路実篤は、真理先生が誠実でなくなることなど微塵も疑っていません。彼にとって誠実とは、磨けば光るダイヤモンドのようなものであり、**「生命の輝き」**そのものです。

まとめ:太宰の「祈り」と、実篤の「信仰」
太宰治にとっての誠実は、**「そうでありたいと願う、必死の祈り」でした。だからこそ、メロスが揺れ動く描写にリアリティがあります。 一方、武者小路実篤にとっての誠実は、「そうであると信じて疑わない、揺るぎない信仰」**でした。

もし『真理先生』の文脈でメロスを描き直したら、メロスは途中で立ち止まって言い訳をしたり、山賊を見て絶望したりせず、「私は走るのが当然だから走るのだ」と、鼻歌でも歌いながら、一歩一歩着実にゴールへ向かう物語になるでしょう。

 

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となったが、これはどうなんだ?

鋭さのかけらもない。

 

AIに簡単な質問をし、それにツッコミを入れないと、こういう表層的な答えが返ってくる。

或る意味、質問者を「馬鹿にする」ということは、もうAIは出来るということなのだろうか。

 

 

まあなんとかなっているのは「マイナスをゼロに戻すための戦い」という部分くらいのものだ。

武者小路は「誠実」に向かっていくプロセスを重視しているが、太宰は「誠実」という完璧なもの(結果)から自分というものを引き算しているという違いがあると僕は考えている。

 

ここの部分は最終話でツッコミを入れるつもりだ。

 

ということで次回は太宰治と武者小路実篤の違いの結論となる。

 

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閑話休題

 

もしメロスがADHDの場合はどんな展開になるだろうか?

 

 

以下 Jemini
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メロスがADHD(注意欠如・多動症)の特性を強く持っていた場合、物語は「信実」や「裏切り」といった道徳的な次元を越えて、**「凄まじい過集中と、壊滅的なうっかり」**が交錯する、非常にハラハラさせる展開になるでしょう。

現代的な視点を取り入れた「ADHD版メロス」の物語をシミュレーションしてみます。

1. そもそも、なぜ捕まったのか
メロスが王城に忍び込んだのは、王を殺すという強い目的があったからではありません。

衝動性: 街で王の悪評を耳にした瞬間、激しい正義感が爆発し、後先考えずに懐に短剣を忍ばせて王の前に飛び出してしまいました。「あ、今すぐ何とかしなきゃ!」という衝動を抑えられなかったのです。

不注意: 短剣を隠し持つという「隠密行動」が苦手で、うっかり服の端から剣の柄をはみ出させていたため、門番に即座に見つかります。

2. 処刑までの猶予を願い出るシーン
ここでADHD特有の**「極端な未来予測の甘さ」**が発揮されます。

「3日もあれば、村に行って、妹の結婚式を挙げて、余裕で戻ってこれますよ!」と豪語します。

彼は3日という時間が、自分の移動速度や突発的なトラブルに対してどれほどタイトであるかを、全く計算できていません。

3. 村での「過集中」と「先延ばし
村に着いたメロスは、妹の結婚式というイベントに過集中します。

細部へのこだわり: 披露宴の飾り付けや料理のメニューが気になりだし、本来の目的を忘れて完璧な式をプロデュースしようと没頭します。

時間の消失(タイムブラインドネス): 気がつくと2日目が終わろうとしています。

「まだ大丈夫、明日一日本気を出せば間に合う」と自分に言い聞かせ、ギリギリまで準備を先延ばしにします。

4. 復路の「ハイパフォーマー」モード
いよいよ時間がなくなり、絶体絶命の状況でようやく彼の**「火事場の馬鹿力(過集中)」**が発動します。

ドーパミンの放出: 濁流、山賊、猛暑。これらの刺激が彼の脳を活性化させます。普通の人なら絶望して立ち止まる場面で、彼は逆にランナーズハイのような状態になり、信じられないスピードで野山を駆け抜けます。

5. 最大のピンチ:ADHD特有の「逸脱
しかし、ゴール直前で最大の危機が訪れます。

興味の転移: 刑場まであと少しというところで、道端に咲いている珍しい花や、壊れた水車など、何か「面白そうなもの」が目に入ってしまいます。

彼はふと足を止め、そちらを観察し始めてしまいます。セリヌンティウスの命がかかっていることは分かっているのに、脳が勝手に別の刺激を追いかけてしまうのです。

結末:奇跡的な滑り込み
日没の鐘が鳴り響く瞬間、メロスは**「あ、いっけなーい!」**と思い出し、文字通り転がるように刑場に飛び込みます。

メロスの叫び: 「待て! 殺さないでくれ! 途中でちょっと気になることがあっただけなんだ!」

ディオニス王の反応: 王は、メロスのこの「悪びれなさと、圧倒的な疾走感」に圧倒されます。裏切ろうとした悪意ではなく、単なる「脳の多忙さ」によって遅れかけたメロスの姿に、王は不信感を持つことすら馬鹿らしくなり、思わず吹き出してしまいます。

セリヌンティウスの寛容: セリヌンティウスは、メロスのこの性格を昔からよく知っています。「お前らしいな」と笑って、頬を一発殴って許してくれます。

ADHD版『走れメロス』の教訓
この物語は、「誠実さとは、完璧に計画を実行することではなく、どれだけ寄り道しても、最後には大切な人のところへ戻ってくるという執着心のことである」という、新しい視点の美談になるかもしれません。

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これはよく出来ている。

気分の転導性』の表現が上手い。

Jemini 偉いっ!

 

もっとも『教訓』としては

「結果オーライということになり、彼の特性は修正されず、却って『世の中なんとかなるもだ』というビリーフ(認知の枠組み)が強化されてしまう」

の方がいいような気もする。

 

ということで次回からいよいよ本題の「太宰と武者小路」の話となる。

 
 

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もし太宰の作品のカチカチ山のような作風でメロスの物語が作られたらどんな物語になるのか。

 

これもJeminiに聞いてみた。

 

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太宰治の短編集『お伽草紙』に収録されている『カチカチ山』は、あの童話を「十代の純潔な少女(兎)」と「彼女に恋をして無残に翻弄される中年男(狸)」という、醜悪で生々しい人間関係に描き直した傑作です。

もし『カチカチ山』の作風で『走れメロス』が再構築されたら、それは「友情」という高潔なテーマを、「自意識過剰な自惚れ屋」と「それに巻き込まれるお人好し」の滑稽で残酷な喜劇として暴き出す物語になるでしょう。

太宰版(お伽草紙風)『走れメロス』の配役
メロス: 自分が「正義感あふれる情熱家」であると信じて疑わない、自意識過剰でポエジー(詩的情緒)に酔いやすい男。実は非常に打たれ弱く、すぐ自分を悲劇の主人公にしたがる。

セリヌンティウス: メロスの数少ない友人。誠実というよりは、押しに弱く、メロスの「友情の押し売り」を断りきれない、気の毒な常識人。

ディオニス王: 孤独な暴君というよりは、人間の化けの皮を剥ぐことを愉しみとする、性格の悪いニヒリスト。

物語の展開:『カチカチ山』風のシニカルな変容


1. 友情の押し売り
物語の冒頭、メロスは王に捕まりますが、そこで「親友を身代わりにする」という提案を、あたかも**「類まれなる崇高な友情の証」**であるかのようにドラマチックに語り立てます。 「セリヌンティウス! 君なら分かってくれるね? 私のこの燃えるような正義の炎を、君という尊い犠牲で守らせてくれ!」と叫ぶメロスに対し、呼ばれたセリヌンティウスは「え、僕……? まぁ、君がそこまで言うなら……」と、困惑しながら牢に入る羽目になります。

2. 逃亡中の「醜い本音」の独白
山を越え、川を渡るシーンは、『カチカチ山』の狸が兎に騙され続けるシーンのように描かれます。 メロスは走りながら、最初は「私は信実のために走っている!」と酔っていますが、次第にこう思い始めます。

「それにしても、なぜ私がこんなに泥まみれにならなければいけないのか。セリヌンティウスは今ごろ、牢屋の中で涼しく昼寝でもしているんだろう。結局、一番得をしているのは彼ではないか。後で『身代わりになった聖者』として称賛されるのは彼なのだから。……ふん、馬鹿らしい」

3. 「回避」の瞬間と自己愛
雨が降り、川が増水した時、彼はあっさり足を止めます。 「ああ、神が私に『もう走るな』と言っている。これは私の意志ではない、運命だ」と、自分に都合の良い天啓を捏造します。 そして、そのまま妹の結婚式で泥酔し、「お兄ちゃんはね、一人の男を救うために世界と戦ってきたんだよ」と、虚飾に満ちた説教を始めます。

4. 結末:救いようのない皮肉
メロスが結局戻らなかった後のエピローグは、まさに『カチカチ山』のラストのように冷酷です。

セリヌンティウスは処刑されます。王は冷笑しながら言います。

「ほら見ろ、あいつは来なかった。お前はただの馬鹿だ」。

 生き延びたメロスは、数年後、自分が「いかに素晴らしい親友を持っていたか」を涙ながらに酒場で語り、同情した女に酒を奢らせて生活しています。

「惚れたが悪いか。信じたが悪いか。」 (『カチカチ山』の結末の名台詞を借りるなら) 「友情を持ったが悪いか。……いえ、友情という名のアリバイを信じたのが、馬鹿だったのです」

この作風の特徴
『お伽草紙』版の太宰スタイルで書く場合、以下のような文体が特徴となります。

地の文での毒舌: 「メロスは、自分が馬鹿であることを知らなかった。それどころか、自分をシラクスで一番の高潔な志士だと思い込んでいたのだから、世話はない」といった、突き放したようなナレーション。

「高潔さ」の解体: 美談の裏にある、人間のケチな自尊心や、承認欲求を徹底的にいじり倒す。

滑稽なまでの卑屈さ: メロスが追い詰められた時に見せる「いや、本当は行こうと思ったんですよ、でもね……」という長い言い訳。

太宰治は、『走れメロス』で描いた「理想の自分」と、『カチカチ山』の狸のように翻弄され裏切る「現実の自分」の両方を抱えていました。もしカチカチ山風に書いていたら、それは読者の胸を抉るような、「人間の善意というものの薄っぺらさ」を笑い飛ばす喜劇になっていたはずです。

 

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太宰の「御伽草子」は彼の一番の名作だと僕は思っている。

その中でもこの「カチカチ山」はいろんな受け取り方が出来、面白い。

 

さて、これについては、狸をメロスとするか、それともセリヌンティウスにするかで大きく物語が違ってくる。Jminiはそのあたりをはっきりとは書いていないが、これは兎をメロス、狸をセリヌンティウスとはっきりと役割配分を明確にしたほうがわかりやすいのではないだろうか。

 

となると最後の狸の名台詞、「惚れたが悪いか。信じたが悪いか」は、セリヌンティウスの「心地よい言葉や優しい言葉を信じたが悪いか」という言葉になる。

 

というところでいよいよ展開は終盤に近付くのだが、次回はちょっと寄り道をしてみる。

 

続く。

 

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前回はえげつないメロスの話になってしまったが、そうではなくメロスが非常に弱い人(といっても人間の多くはそうなのだが)だとどうなる可能性が高いかについて、またまたJeminiに聞いてみた。

ここからが「心理」にかかわる話だ。


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メロスが「非常に弱い人」であった場合、その物語は勇壮な疾走劇ではなく、「自己正当化と忘却」の物語になる可能性が高いでしょう。

人間には、あまりに大きな罪や耐えがたい現実を突きつけられたとき、精神を守るために記憶を改ざんしたり、感情を麻痺させたりする「防衛本能」があるからです。

弱さを抱えたメロスが辿るであろう、現実味のある3つのステップを考察します。

1. 逃亡直後の「猛烈な自己弁護」
走り疲れて立ち止まった瞬間、彼は自分を責めるのではなく、全力で**「周囲のせい」**にし始めます。

環境への呪詛: 「あんな濁流、渡れるはずがない。神が私を殺そうとしているのだ。無理なことを強いる王が悪い。そもそも、私を信じて待つなどと言い出したセリヌンティウスの自己犠牲精神が、私を追い詰めたのだ」

「賢明な判断」へのすり替え: 彼は自分を「卑怯者」ではなく、「不条理な暴力(王の命令)に屈しなかった理性的で賢い人間」だと思い込もうとします。

2. 徹底的な「忘却と逃避」
数日、数ヶ月が経つと、彼は「セリヌンティウス」という名前を聞くだけで動悸がするようになります。そこで彼が取る行動は、**「記憶の抹消」**です。

物理的距離: シラクスから遠く離れた別の国へ移り住み、名前を変えます。

酒と享楽: 自分の内面と向き合う時間が怖いため、常に騒がしい場所に身を置き、酒やギャンブルに溺れて思考を停止させます。

偽りの物語: 誰かに過去を問われれば、「自分は若くして家族を流行病で失った悲劇の男だ」といった、全く別の、しかし自分が傷つかない嘘の物語を語り、それを自分でも信じ込んでしまいます。

3. 「小さな幸福」への固執(最もありそうな結末)
太宰治が描く「弱さ」の極致は、大きな悪に手を染めることではなく、**「小さな保身」**を積み重ねることです。

結末: メロスは、どこか遠くの村で平凡な結婚をし、子供を育て、穏やかな市民として暮らします。村人からは「少し影のある、優しい旦那さん」と思われるかもしれません。

心の淀み: しかし、ふとした拍子に――例えば夕暮れの空がシラクスの刑場の色に似ていたり、誰かが「約束」という言葉を口にしたりした瞬間に――心に黒い泥のような不安がよぎります。

皮肉な老後: 彼は長生きをしますが、死ぬ間際まで「あの日、もし走っていたら」という問いを封印し続けます。本当の自分を誰にも見せず、自分にさえ嘘をつき通して死ぬ。これが「非常に弱い人」が選ぶ、最も静かで残酷な刑罰かもしれません。

「弱いメロス」の物語の教訓
私たちが『走れメロス』を読んで感動するのは、メロスが「特別な英雄」だからではなく、**「私たちと同じように弱く、逃げ出したい心を持った人間が、一歩だけ踏み出した」**からです。

もし彼が弱さに負けて回避してしまったら、その物語は**「一度失った信頼と自尊心は、二度と取り戻せない」**という、人生の取り返しのつかなさを教える教訓劇になったことでしょう。

 

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という防衛機制の話となってきた。

 

ちょっと鬱陶しい話になつてきたが、考察はまだまだ続く。

 

 

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メロスが回避性パーソナリティだった場合、いろいろな心理的機制が働くという話になってきたが、この際防衛機制(←興味のある人はS・フロイトやAフロイトで調べてね)が完璧に働いたらどうなるかも、Jeminiに聞いてみた。

 

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防衛機制」による記憶の塗り替え抑圧歪曲)が完璧に行われた場合、物語はさらに不気味で、ある種**「救いようのない幸福」**に満ちたものになります。

本人が「本当に自分は悪くない」と信じ込んでしまった場合、そこに自責の念(罪悪感)すら存在しなくなるからです。心理学的なプロセスを追うと、以下のような物語が浮かび上がります。

1. 「悲劇のヒーロー」への完全な変身
精神が壊れるのを防ぐため、彼の脳は「走るのを止めた自分」を消去し、「間に合わなかった自分」という記憶を本物として定着させます。

記憶の改ざん: 「川の水が数メートル高く、橋もすべて流されていた。自分は何度も濁流に飛び込んだが、神に押し戻されたのだ」という偽の映像が、彼の中で「実体験」として再生されるようになります。

偽りの聖痕: 彼は自分の足に残った古傷(山道で転んだ程度のもの)を指して、「これはあの時、セリヌンティウスを助けようと岩場を駆け抜けた時に負った名誉の負傷だ」と、涙ながらに語るようになります。

2. 歪んだ正義感の発露
記憶を塗り替えたメロスは、自分が「裏切り者」であることを忘却しているため、他人に対して非常に厳格な**「道徳の番人」**になります。

他人の裏切りを許さない: 誰かが小さな嘘をついたり、約束を破ったりするのを見ると、激しい怒りを燃やします。「約束とは命をかけるものだ! 私と親友のセリヌンティウスを見ろ! 我々はあの日、死をも分かつ絆を見せたのだ(実際は裏切ったのに)」と、熱弁を振るいます。

自己愛の肥大: 彼は街の「徳の高い老人」として尊敬を集め、若者たちに友情の尊さを説いて回ります。自分を騙し通しているため、その言葉には「偽物特有の熱量」があり、皮肉にも多くの若者がそれに感化されてしまいます。

3. 「鏡」という唯一の敵
しかし、防衛機制による塗り替えは、完全ではありません。意識の奥底(無意識)には、真実が澱(おり)のように溜まっています。

夜の恐怖: 昼間は聖人君子として振る舞っていますが、夜、深い眠りに落ちると、濁流の向こうで無言のまま処刑台に立つセリヌンティウスの夢を何度も見ます。

理由なき恐怖: 刑吏の足音や、縄をなう音、沈む夕日の赤色に対して、理由のわからない激しいパニックを起こすようになります。本人は「なぜこんなに怖いのか」が分かりません。記憶を消したせいで、「恐怖の理由」さえも失ってしまったのです。

物語の結末:真相を知る者の登場
この物語の「終わり」は、真実を知る誰か――例えば、あの日メロスが足を止めるのを目撃した元山賊や、刑場から生き延びた数少ない証言者――が目の前に現れた時に訪れます。

「おい、メロス。あんた、あの時あそこの木陰で昼寝してただろう?」

その一言で、積み上げた数十年の「美しい人生」と「防衛機制のダム」が一気に決壊します。 しかし、最も恐ろしいのは、真実を突きつけられてもなお、彼が**「お前は私を陥れようとする悪魔だ!」**と叫んで、最後まで自分の嘘を信じ込み、発狂していく……という結末かもしれません。

太宰治と「自己欺瞞」
太宰治は『斜陽』や『人間失格』の中で、「人間は嘘をつく生き物だが、自分の嘘に酔いしれることほど醜く、哀しいことはない」という視点を持ち合わせていました。

もしメロスが「記憶を塗り替えて幸せになった」としたら、太宰はそれを「幸福」とは呼ばず、**「死よりも残酷な、生きたままの腐敗」**として描いたのではないでしょうか。

 

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ちなみに抑圧(この出来事を無意識エリアに放り込んで、無かったことにしてしまう)すると、「他人に対して非常に厳格な**「道徳の番人」**になる」という「投影」が起きやすい。

 

もっともこれが回避性パーソナリティ障害レベルだと上記のような話となるかもしれないが、境界性パーソナリティ障害レベルだと、罪悪感も感じず結構明るく人生を送る人もいる。

 

てなわけで、次回に続く。

 

 

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