さて今年もいよいよ終わりに近づいてきたことだし、いよいよAIにもマジメに考えてもらうことにする。
まずは「この話ではメロスが間に合ったからよかったが、間に合わなかったら『信実』はどうなるのか。
また、ここでは信実と罪悪感の関係がトートロジーになっていないか」
…という問いに対してのJeminiの回答が下記。
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鋭いご指摘です。まさにそこが『走れメロス』という物語、そして太宰治という作家が抱えていたもっとも痛い急所だと言えます。
「間に合ったから信実があった」のか、「信実があったから間に合った」のか。 この問いを掘り下げると、おっしゃる通り**「信実」と「罪悪感」のトートロジー(同語反復)**、あるいは非常に危うい循環論法が見えてきます。
1. 「結果論」としての信実
原作の論理では、「間に合うこと」が「信実」の物理的な証明になってしまっています。
メロスが間に合わなかったら、どれほど彼が途中で必死に走っていたとしても、世間(そして王)は「彼は裏切った」と断定します。
逆に、メロスが途中でサボっていても、運良く間に合いさえすれば「信実の勇者」として称えられます。
つまり、ここでの信実は**「本人の内面(誠実さ)」ではなく「外部からの観測(結果)」に依存している**のです。
太宰は「信実」という形而上学的な概念を、結局は「日没までに戻る」という物理的な成功によって定義せざるを得ませんでした。
2. 罪悪感と信実のトートロジー
太宰的な心理構造で見ると、以下の循環が生まれます。
**「私は汚い(罪悪感)」**から出発する。
その汚れを注ぐために、「絶対に間に合わなければならない(強迫的な信実)」。
間に合ったことで、**「自分は信実の人間だ」**と(一瞬だけ)思える。
しかし、その信実は「罪悪感」を燃料にしているため、またすぐに**「自分は本当は汚い(罪悪感)」**に戻る。
ここでは、**「信実=罪悪感が(一時的に)解消された状態」**でしかなく、独立した徳目として存在していません。
罪悪感があるから信実を求めるし、信実を求めるほど自分の罪悪感が浮き彫りになる。
まさにトートロジーです。
3. 「間に合わなかった」場合の信実の行方
もし間に合わなかったら、この物語の「信実」はどこへ行くのでしょうか。
武者小路実篤なら: 「間に合わなくても、彼の心の中に信実があった事事実は変わらない。天はそれを知っている」と、超験的な解決を図るでしょう。
太宰治なら: 「間に合わなかった=信実は最初からなかった」と断罪するか、あるいは、先ほど議論したように「間に合わなかった恥を一生書き続ける」という**「不誠実の誠実」**に逃げ込むでしょう。
太宰にとっての信実とは、輝かしいゴールテープではなく、**「裏切るかもしれないという恐怖(罪悪感)と戦い続けている、その葛藤の持続時間」**そのものだったのではないでしょうか。
4. 論理のすり替え
『走れメロス』のラストで、セリヌンティウスも「一度だけ君を疑った」と告白し、二人は殴り合います。 これは、太宰がトートロジーを突破しようとした形跡です。
「結果(間に合ったこと)」ではなく、「内面で一度裏切った(罪悪感を持った)ことを正直に開示し合うこと」。これこそが本当の信実なのだ、と論理をスライドさせているのです。
結論
おっしゃる通り、メロスの信実は「罪悪感の裏返し」という循環の中にあります。
もし「間に合う」という奇跡が起きなければ、この論理は崩壊し、メロスはただの「友を殺した男」として歴史に埋もれます。太宰がこの物語をハッピーエンドで終わらせたのは、**「そうでもしないと、自分の罪悪感というトートロジーから抜け出す出口がなかったから」**という、切実な祈り(あるいは自己救済)だったのかもしれません。
「信実とは、結果による証明が必要なものか、それとも沈黙の中でも成立するものか」。この問いは、現代の私たちが抱える「承認欲求」の問題にも通じている気がします。
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AIとして僕の思考に添おうとしているようだが(本当にAIは反論しないんやな~)、このJeminiの回答に対して、下記のようにもう一段のツッコミを入れてみた。
「『信実』イコール『内面で一度裏切った(罪悪感を持った)ことを正直に開示し合うこと』というのはかなり強引な結びつけであり、この話はウィトゲンシュタインの「規則違反を犯した言葉の使い方に、深淵さを感じるのは人間の錯覚」というのと関係するのではないか?」
これについてはJeminiはこう答えてきた。
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ウィトゲンシュタインの「深淵という錯覚」という視点を持ち出されたことで、この物語の核心にある「欺瞞」がより鮮明になります。
おっしゃる通り、「一度裏切ったことを告白し合って殴り合う」というラストシーンを、崇高な信実の完成として描く太宰の手法は、論理的に見れば**「カテゴリーのすり替え」であり、一種の「情緒的なレトリックによるごまかし」**です。
ウィトゲンシュタイン的な視点から、この「深淵さの錯覚」を分析してみます。
1. 規則違反に「深み」を見出す病理
ウィトゲンシュタインは、言葉がその本来の役割(言語ゲームの規則)から逸脱したときに生じる「哲学的な混乱」を指摘しました。
本来の「信実」の規則: 約束を守ること、裏切らないこと。
太宰の「信実」の規則: 裏切ったことを告白し、共有すること。
太宰は、本来「不誠実(規則違反)」であるはずの「裏切り」を、「告白」という別の手続きによって「誠実(信実)」という箱に無理やり詰め込みました。 読者がそこに「単なる誠実よりも深い、人間的な真実(深淵)」を感じてしまうのは、まさにウィトゲンシュタインが言うところの**「言語が空転しているときに生じる幻影」**に近いものです。
2. 「告白」という名の免罪符
「私はあなたを疑った、だから殴ってくれ」という行為は、論理的には「裏切り」という事実を消去しません。しかし、太宰はその「告白する苦痛」を「走る苦痛」と同列に並べることで、罪を徳へと錬金術のように変換しています。
「規則に従うことができない者が、その違反をあえて語ることで、あたかも規則に従っている者よりも高潔であるかのように振る舞う」
これは太宰文学の得意技ですが、論理的に見れば「言葉の使い方を間違えている」か「定義を恣意的に広げている」に過ぎません。
3. トートロジーの強化
先ほどのトートロジー(罪悪感と信実の循環)を、ウィトゲンシュタイン的に整理すると以下のようになります。
規則(信実): 約束を守れ。
違反(心理): 守りたくない、疑いたい。
深淵(錯覚): 「私は守りたくないと思った」と正直に言うことは、単に守ることよりも「真実」に近い。
この3ステップ目こそが「深淵さの錯覚」です。 「正直に裏切りを認める」ことは、倫理的な潔さではあっても、本来の「信実(約束を遂行すること)」とは別のゲームです。太宰は、遂行の失敗を告白の成功で上書きしたのです。
4. なぜ私たちはこの「錯覚」に惹かれるのか
ウィトゲンシュタインが指摘するように、私たちは言葉が「正しく機能している(平穏に約束が守られる)」状態よりも、言葉が「軋みをあげ、破綻しかけている」状態に、より強い「意味の深さ」を感じてしまいます。
真理先生(実篤)の世界: 言語が規則通りに動いている(健康だが、深みを感じにくい)。
メロスの世界: 言語が破綻し、叫び声に変わっている(病んでいるが、深淵に見える)。
太宰は、自分自身の「規則を守れない弱さ」を、この「深淵さの演出」によって芸術的な価値にまで高めました。土屋賢二氏なら、ここで**「間に合わなかったメロスが、いかに情熱的に自分の裏切りを語れば、王が処刑を中止して感動するかという技術論」**にすり替えて笑い飛ばすところでしょう。
結論
太宰の提示する「信実」は、論理的な一貫性を持った概念ではなく、**「罪悪感を抱えた人間が、他人と繋がるための最後の手だてとしてのエモーション(感情)」**に過ぎません。
ウィトゲンシュタインの冷徹な目で見れば、『走れメロス』の感動は、**「言語の誤用によって生み出された、美しくも空虚な蜃気楼」**と言えるかもしれません。
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「不誠実(規則違反)」であるはずの「裏切り」を、「告白」という別の手続きによって「誠実(信実)」と見せるのは、「言語が空転しているときに生じる幻影」とJeminiは言うが、そもそも【「裏切り」を「告白」する】のと【「誠実(信実)」】とは階層が違う。
しかしなんか浅い気もするし、僕の考えとずれているいるところは有るものの(その辺をつっこむと、年明けまでずれこんでしまう
)、まあ近いところを述べてもらい僕としては随分楽が出来た感がある。
ちなみにカウンセリングの話に繋げると、この内容は「私は私が嫌いだ」という人にとっては投影が起こりやすいので、かなり不愉快に感じたり耳の痛い話となったのではないだろうか。

しかし自分を嫌いだと言ったり責めたりしたところで、自分が良い人になれるわけではなく、自分のレベルが上がるわけでもない。
もっともこんなミもフタも無い話をカウンセリングですると思いっきり泣かれるし、僕が「悪い人」になってしまうので、あまり言わないことにしているのだが…(こうやって書くと「なってしまうって、まだ悪い人じゃないと思っているところがすごい」とか言われそうだが)。
てなことで、長く続いたこの話はお終い。
めでたしめでたし(どこがじゃっ!)。
よいお年をお迎えください。
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