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いろんな本を読んで複眼的思考を身に付けたいです。

「プリンシプルのない日本」 新潮文庫 著者 白州次郎

題名通り「プリンシプル」とは何か。また、プリンシプルを政治家、況んや国民が持つ重要性を説いている作品。

「プリンシプルとは、日本語では原理や筋を通すといった言葉である。プリンシプルのない妥協は妥協ではなくて、一時しのぎのごまかしに過ぎないのだと考える。」とある。

私の見解から言えば、何を要素(根拠というとおかしくなる、自分が持っている根本的な考え方とでも言おうか)にその問題を見ているのか、ということだと思う。

イデオロギー、事大主義にも白州氏は言及している。
「責任をもって、やれないからやめますといった人を聞いたことがない。これは日本の昔からの、泣く子と地頭には勝たれぬという、東洋的な事大主義の現れなのである。・・・彼らにとってイデオロギ-というものは単なる道具なのだ、自分じゃ思想だと思っている。・・・だからここで落ち着こう、ここまで認めるがここまでは譲れないというような議論はあり得ない。両方で別の事を言い合っている。だから論争になれば、感情的な喧嘩のほか何も無い。お互いに言いっぱなしだもの。」

おそらく言いたいことはこういうことではないか。事大主義的に行動したり、責任転換のことばかり考えているうちに、イデオロギーもプリンシプルも自分の身体から抜け落ちてしまうと。

イデオロギーもプリンシプルもいわば、自分という存在にのみ付随するものであり、それを形作るものもなにもない。そのいわば「思想」をどうやって養っていくのか。

白州氏は、答えを出さない。それは、出さないのではなく、自らの行動を持ってのみ示せるということなのであろう。(その例として吉田松陰を挙げている)

よく最近本などを読んでいると見かける言葉がある。「好きなことを精一杯やれ。」「自分が無意識的に思う事をやることが良い。」など、努力や自分の感情に従って行動せよ、ということである。

まだ私の知識不足で、この問題がどう「プリンシプル」と「イデオロギー」などに値するのかが分からない。ただ、少なくともこの意見が、関わっていることだけは「無意識」的に分かる。

勉強不足だ。なんせ読みたい本が隣に何十冊もあるんだから。
「不可能を可能にするビジネスの教科書」 筑摩書房 著者 藤原和博

「商品(教える内容)×教師の技芸>1コマの費用」を超えるものを常に作り上げなければならないというビジョンを基に全てを改革していく元校長の話しである。

私の結論は、彼のコンサルタント的な力も学校の仕組み作りには必要であろうといった感じだ。

ただ条件がある。それは、「教育という存在を研究したきた人と共存しながら」教育を変革していく必要があるということだ。

なぜか、。

彼が学校の「顧客」と思っている人間は「生徒」なのか「親」なのか分からない。校長室を開いたり、学業に勤しむ環境を作っているのはわかる。その他にも「地域のつながり」なども進めていることはわかる。しかし、勉強も思考も進んで行っているのは「生徒」だ。「生徒」から目を離してはいけない。なんでもバランスだとは思うのだが、一人で進めず、あくまでも教育者と共に改革を進めれば、「革命」を起こす事が出来る。それだけのことができる素晴らしい感性を持った人間であることは間違いない。

もうちょっと教育研究者と共に歩いていってほしい。教育は、生きる「核」を育てるのが仕事だ。知識だけではない。でなければ、有能な人材が腐っていると揶揄される「官僚」などに埋もれてしまう。

みんな、一緒に協力しよう。教育研究者にも彼にも言えることだ。
「日本辺境論」 新潮社 著者 内田 樹

日本人としてのアイデンティティの核を成すものはない。だが、核を成さずしてここまでやってきたのが日本人(辺境人)であるといったような概念が内田氏が伝えたいことではないかと思う。

では、その辺境っぷりを変えるべきなのか???

内田氏は、無理だし、また変える必要はないと言う。しかし、日本人が自らが辺境人(つまりアメリカ人などと根本から考え方が違う)ということを理解することが、日本人たるものを理解することに繋がるという思いでいるようだ。

このことを詳しく解説していくためにさまざまな辺境っぷりの例を取り上げるのだが、中華皇帝と邪馬台国(日本)の話しが面白い。その頃の日本人は自らが辺境人であることをおそらく自覚しているのだ。例えば、聖徳太子が「日出づるところの天子、書を、日没するところの天子に処す」という文章や、明治維新以後、「皇室」などという言葉(日本が中華皇帝国の下司にあたる場合には皇室及び天皇が日本にいることになり得ない)を記述したりする場面だ。日本はおそらくわかっていてもそういうことをある種のメリットのためにするのだ。しかし、いつ何時でも言い訳は一緒なのである。

「情報に疎くて・・・無知なもので・・・辺境人なので・・・」

こうやってフラフラと今までの多難を乗り越えてきたこの才能こそ「日本人」たるアイデンティティなのではないかという話しだ。

確かにそうである。

憲法9条と自衛隊の関係にせよ、沖縄基地のことにせよ、誰の責任なのかさっぱり分かったもんじゃない。それは「なんだか分からないけどこっちのほうがよさそうだ。」と今までやってきて、議論がまとまりそうになったとき(コンセンサスを得ることが確実になった際)の行動力が半端じゃないためにあるものに巻かれていく生き方に長けているわけである。

これはあくまでの日本人とは何かという問題を明らかにさせてくれる本であるため、なかなか難解である。よって私の発言も「・・・のようだ」という書き方にしないと苦しい。(おそらくしばらく経ってもう一度読む事になるであろう)

しかし、日本人の性格を他国との比較、歴史の流れを持って解明していく明快さ、ロジカルさには圧倒される素晴らしい作品であることは間違いない。