<注意>一部文字化けがあります。

http://oriharu.net/LOG_FARION/AR940502.TXT より

 

 平井和正『幻魔』を考える PART2


 盲信・狂信の甘美な罠

 自分の人生は、すべて『幻魔大戦』を書くために集約されて存在する――そんな奇妙な信念が長い間私に取り憑いていました。私を動かした言霊は、それほど強力であり苛烈な代物でした。その他のことが何ひとつ考えられなくなってしまっているのです。真っ暗なトンネルの中を私は闇雲に歩き続けている心地がしました。

 すべては、新宗教に九カ月間在籍した経験の、後遺症でした。自分の魂を震撼させた経験が愚劣な盲信・狂信でしかなかったことを、何とかして認めたくないがための、死に物狂いの足掻だった。そういってしまうのは辛いが、自分自身が愚かしい惨めな狂信状態にあったことは認めざるを得ません。

 いやというほど、他人のそれは眺めてきたくせに、身震いするほどの嫌悪を抑えきれないくせに、自分だけはそうではなかったと否定したいのです。現実は否定しがたいものであるのに、自分だけは理性を終始留めており、健全なバランス感覚において行動していた。他の人間たちとは違う。極限まで振れた振り子が次は反対方向へと振り戻すように、これまでの生神様と崇めた人間を一瞬にして、サタン呼ばわりし悪しざまに罵ることだけはしたくない。

 自分が過去の一時期、れっきとした盲信・狂信の過中にあったことを認めた上で、熱烈な生神様崇拝に自分を赴かせた当のカリスマが卑小な正体を明らかにしてしまった今、それを償う方法はないものか……私は長い間不眠の夜を過ごして思い迷った挙げ句、いったん棚上げにすることにしたのでした。

 棚上げにすること、それが人生の知恵だ、と私は思いました。判断を留保しなければならないことは、いったん猶予の時を与えて棚上げにしてやろう。そのうちに正体が明らかになるだろうし、棚上げの物件が溢れ返ったら、棚ごと私の頭に落ちてくるはずだ。その時になるまで、じっくりとこの問題を追及してやろう。

 その時の決心から、十数年。今やっと私は棚上げにした問題を、すべて下ろした上で、一つ一つ吟味することができるようになったのです。

『幻魔大戦』を書くことは私にとって棚上げにしたことを吟味することでもあったし、自分自身の経験が、盲信・狂信のおぞましい所産ではなかったことを、証明する作業でもありました。私が、かかわり合った新宗教の経験をすべて『幻魔大戦』という小説の中で煮詰めてみる。きわめて極私的な経験を普遍的な小説世界に置き換えてみる。

 私がやろうとしたのは、無惨な幻滅の中に空中分解した理想主義を、今一度小説世界の中で再構築(シミュレート)し、その理想が現実の粗暴な洗礼に耐えうるかどうか、検分してみたかったのです。

 私が、新宗教のカリスマに対して軽蔑と不信を明確に表明して袂を分かった他の人々と違い、態度保留を選んだために、『幻魔大戦』の作中世界と現実を混同する錯覚を、読者たちの一部に与えてしまったことは、いかにも残念なことです。

 現実との混同を避けるように、と別の機会を捉えて呼びかけはしたものの、棚上げのこともあって、直接具体的に警告することには困難がありました。

『幻魔宇宙』のGENKEN及び主宰の東丈と、現実の新宗教のカリスマを重ね合わせて、新宗教の組織に参加してしまった読者たちは、かなり多数に上るようだし、その人々が現実と幻想のギャップに押しつぶされた惨めな経験を持ったことに、私は作家的責任を覚えずにはいられないのです。この場をお借りして、お詫び申し上げたいと思います。

 1977年のこと、私自身の筆で書き表したカリスマ名義の著書三部作において、私は思いきった過激な推薦文を掲載しました。当時の私が本心からの崇拝と尊敬をもって推薦文を寄せたことは事実でしたが、軽率の謗りを免れないことも確かです。カリスマの名前で著書を出したことも、余儀ない事情があったとはいえ――最初はカリスマの側近が文章を書くことになっていましたが、むろんアマチュアで文章を書いたキャリアは一切なく、私自身の本を多数刊行していた版元と出版社との交渉の段階で、成り行きとして『止むなく』私が引き受けることになってしまったのでした。

 弁解がましい書き方で、身が細る思いを禁じえませんが、最初はそんな気は毛頭なかったのに、いざ始めるとなると、凝り性の私はドライブがかかり、止めても止まらないという状態に速やかに陥りました。カリスマの方ははなからそれがお目当てで、――平井さんがいつ、“使命”に気づいてくれるかと思っていた、と後で言われました。最初からアマチュアに書かせる気などなかったのです。

 盲信と狂信のどつぼに嵌まっていた私は、精神的視野狭窄症の虜となってもはや何らの懐疑精神も持たず、それが偉大なる神――造物主によって称賛される行為と信じ切っていたのでした。

 今となっても、このような告白をなすことはまことに辛いのですが、棚卸しをすべて終えた今、これを読者のみなさんに申し上げることは、作家としての社会的な欠かせない義務であろうと考えられるからです。 新宗教は、現代において隆盛をきわめています。その隆盛ぶりがどこに起因するのか、私自身の極私的な経験を通じて、語っておくことに『幻魔大戦』の作者としての責任感を覚えずにはいられないのです。

            *

 カリスマ名義の最初の本を出すことが決定した後、私は初期の霊的体験で最も印象的なものに遭遇することになりました。

 その前触れとして、毎晩十一時過ぎになると、奇妙な悪寒を覚えるのです。変に身内がぞくぞくする。寒けがして鳥肌が立ってきます。それがたとえば、入浴中で体が十分温まっているのに、嘘寒くなってくる。熱いお風呂の中で悪寒がします。

 それが私だけにとどまることなく、妻も同じ体験をしていることがわかりました。悪寒をもたらし鳥肌を立たせる不気味な波動が、確かに私の身の廻りに集中しているのです。

 そして、ついに決定的なものを見てしまいました。

 周囲の空間が不意に冷たく青ざめて暗くなり、左側からくるくると回転しつつ出現したものが、ぴたっと真正面に静止し、対峙しました。それは染めたように青い、角を生やした獣人――サバトの牡山羊として、魔術関係の書物で見ることのある有角の神、即ち悪魔そのものだったのです。

 その時の驚きは、直ちに直感による認識に変わりました。この私が何者かによって呪詛されている!

 それは理屈抜きの確信でした。犯人までも直感によって見抜いてしV暲た・X慍峅jH^Pれは霊的感覚そのものです。呪詛者は勤め人で、毎晩の定まった就寝時に私に思念ナを集中し、恨みつらみを募らせていたのです。これほどの怨念を受けるとは、ただならぬことで、それが新宗教に関わっていることは間違いないと悟ったのでした。私がカリスマの側近の一員に割り込んだことで、強烈な嫉妬と恨みを買うことになったのです。

 事実、私がカリスマにその件を指摘してから、ただちに毎夜の定期便の悪寒は消えました。カリスマには心当たりがあり、呪詛を行っていた当人を強く叱責したのでしょう。

 このように愛と慈悲を売り物にする新宗教の内実は、おぞましい嫉妬や猜疑心や敵意に溢れたものでした。初代カリスマが死去した後は、教団組織が権力闘争の反目と憎悪のうちにたちまちバラバラに解体、分裂を遂げたのも当然でした。

 イエスの愛を語り、釈迦の慈悲を説く新宗教の実体がこれでした。しかし、盲信・狂信の徒にとっては、“法難”というまことに都合のよい言葉が用意されています。組織内部の無数の矛盾が噴き出してきた場合も、信者の目をよそに向けさせるのに便利な言葉があるのです。

 盲信・狂信者は、みずから騙されることを求めている。詐欺の被害者に酷似したところがあるように思えます。耳に快い言葉だけを聞き入れ、苦い言葉、自分を告発して傷つける真実の言葉には、耳を塞ぎます。すべては自分の都合次第です。

 その信仰の実態は私利私欲に基づく、御利益の追及ですから、カリスマを信じて利益がある間は、何がどうあろうと信じ続けます。真実など無関係なのです。

 その代わり、カリスマを信じることに利益がなくなれば、さっさと見捨てて去っていきます。結局は、御利益信仰だけを追求するのが、狂信・盲信者であることが判ります。

            *

 私が唯一、心から安堵しているのは、新宗教に積極的に関わり合っている間を通じて、一度たりとも勧誘という形で布教をしなかったことです。

 だれが何といおうと、新宗教の最大の害毒、万人にとっての大迷惑は、この勧誘いう布教でしょう。偏執狂の狂信・盲信の信徒に捕まった時の不愉快さは、なにものにもたえがたいものがあります。

 最大値を示す狂信・盲信の極に達した時ですら、私は親しい友人はもちろん家族にさえも新宗教の組織に加入することを勧めませんでした。

 私にためらいがあったのは、やはり新宗教の教義よりはむしろカリスマに対して不安を持っていたためでしよう。

 他人にドライブをかけて、盲信・狂信へ誘い込んでいくカリスマのやり方に、同調しきれないものがあったのは確かです。私の内部に必死にバランス感覚を保持し続けようとする働きがあり、それこそが真実の神の助けであったことを、今の私は確信しています。

 もし私が狂熱的にだれかれ構わず勧誘して回っていれば、どれだけの不幸を招いたか判りません。自分の内部の歯止めがなかったら……そう思うと冷や汗の感触が肌を這い下ります。

 カリスマの特徴は、その恐ろしい偏執的な狂熱により、他人に熱病を伝染させ、それを可能な限り広範囲にわたって蔓延させることにあります。熱病の病原体のキャリアーなのです。

 カリスマの物狂いには度外れの迫力があり、それは懐疑精神と無縁の、偏執者の絶対的確信ですから、真っ向から立ち向かおうとしても普通の人間には太刀打ちできません。粗暴性格の暴力団組員の偏執的迫力と同種のものです。相手の理不尽さにゆえに、つい圧倒されてしまうのです。

 理性やバランス感覚に欠けたものは、偏執のエネルギーを持ちます。理も非もない無秩序のエネルギーだけ持ち合わせる暴走族同然に、精神世界においては、新宗教の布教者は理不尽で暴力的な存在です。

 私はたぶん、無意識のうちにその真実を悟っていたので、布教どころか、その可能性を封じるために、それまでの私の友人知人たちから意識的に遠ざかり始めました。親しい友誼を結んでいた人々から離脱するという感じは、自分が危険な爆発物に等しい存在になっている、そんな感覚があった証拠です。

 通常は、すべてのかかわり合いを持つ人々、自分の生存圏にある人々を残らず己れの新宗教的狂熱に巻き込み、精神的には致命的な病原体をうつして回るのが、盲信・狂信者なのですから。

 17世紀のペストの大蔓延するロンドンの市内で、死神が出現しました。この死神は、ペストのキャリアーで、美しい若い女と見ると、抱きついて無理やり死の接吻を与えることで恐れられました。新宗教の布教者は確かにこの死神同然です。

 私は憶病という物質的なバランス感覚の持ち主でもあったので、親しい人々を破滅に巻き込むのは真っ平だったのです。私が布教、伝道に関して、慎重というよりは憶病だったのは、カリスマの狂熱性に対してこっそりと『ユダ』のような疑念を心の奥底に、隠し持っていたからでしょう。

 何よりもカリスマの側近たちの、不気味な狂信・盲信の度合いがケタはずれにエスカレートして行くのを見ることが、私を憶病にするのに役だってくれたのでした。


 平井和正全集43『幻魔大戦6 悪霊教団』巻末企画より (19921月刊行)


*下線は私米国が引きました。