お久しぶりです。


みなさま
をいかがお過ごしでしょうか。


夏が来れば思い出すのは…
私にとっては
懐かしく美しい風景などではなく、


息子が
イジメにより
学校に行けなくなった日のことです。


担任も学校も
イジメとさえなかなか認めず、


私たち親子からの訴えは
ことごとくかき消され、


息子は登校復帰など到底出来ないまま
小学校を卒業。


息子も私も


辛く、苦しく、もどかしく
怒りに満ちた日々を送っていたこと、


このブログで幾度となく
吐き出させてもらいました。


最近、
世の中を騒がせている
広陵高校野球部のいじめ問題。

報道の中で


被害者の訴えを、


学校側が


「確認できなかった」と伝えています。


あるイジメ事案に対しては部分的に、


そして最初に明るみになった

イジメよりも更に前に
更なる卑劣なイジメ行為があったことを


保護者と思われる方が訴えているけれど、


その事案については
学校は全否定しているかのような報道。



息子の時と重なり、
やり場のない怒りのような気持ちが
込み上げてきました。


被害側からすれば
どのようなイジメ行為を受けたのかを
具体的に伝えたのに


それを学校が確認できなかったとして
まるで無かったかのように言うのは、


被害に遭った側が
嘘をついているとでも言われているかのようで。



散々辛い目に遭っているのに、


そのイジメをしていた加害者たちに聞いたら
「やってない」と言ったからって
無かったことにするなんて…。


なぜ、


加害者たちの言葉は
あっさり鵜呑みにして、


被害者の悲痛な訴えを
踏みにじるのでしょうか。


いじめを訴えることは、
心に本当に大きな負担がかかります。


にもかかわらず、
ようやく振り絞ったその声よりも


加害者の否定を優先するって…


それは被害者をさらに傷つける行為に
他なりません。


「どうせ言っても無駄なんだ…」という
無力感に襲われ、


また傷つきたくない…


と心がダメになって
もう前に進めなくなったり。


加害者が「やっていない」と言えば
事実が消えてしまうのなら、


いじめを隠すなんて
簡単じゃないですか!!

結果として学校も
「いじめはなかった」と
結論づけやすくなり、


責任を免れる方向へと流れていく…


こんな加害者に有利な構図、
私にも覚えがあります。



「いじめは確認できなかった」とすれば、
学校は
報告義務や
対応の責任を軽く出来るのでしょう。



つまり、


被害者救済よりも


学校の体面維持が
優先されてしまっている…


この構図こそ、
いじめ問題が繰り返される
原因のひとつなのでしょ
うね。



そして、
そのイジメ行為を見逃された
加害者たちはどうなるのでしょう。

処分も指導もないことで、


「やっても大丈夫だった」


「どうせバレない」と


誤学習してしまうことでしょう。


そして
「否定すれば逃れられる」という
誤った成功体験により、


加害者は将来にわたって
同じように他人を傷つけたり
責任逃れを繰り返すかもしれませんね。


被害者が声を上げても報われず、
加害者は
「否定すれば守られる」と利を得る…


こうした構図は、
教育の場として最悪ではないでしょうか。



加害者が守られてしまうような風潮は
結果的にはその加害者の成長を妨げ、
将来に大きな禍根を残すんです。


加害者にキチっと

やってしまったことの責任を取らせること、

心からの反省を促すことも

教育のはずです。


「やっていない」と言えば許される世界は、

被害者を苦しめるだけでなく、


加害者をも成長させない。


実は

加害者も未来を奪われている。


やるせなさと同時に、

深い怒りが込み上げてきます。


「いじめは確認できなかった」
という言葉…


それは被害者に絶望を与え、
加害者に誤った免罪符を与えてしまう。


否定すれば逃げられる――


そんな仕組み、


誰一人幸せにしない。