
在り来たりな言葉ですが、6年は早かったような遅かったような、まぁ、よー分からなん。
父親がガンで死んだという知らせを母親から受けるまで父親がガンだったこと、入院してたこととか何も一切知らされてなかったし、それくらい父親と実家とは疎遠だった6年前。
ガン自体は10年くらい前に見つかってたらしく、私がしばらく顔も会わせなかった、私の知らないところで放射線や薬剤による治療はしてたようですが、年を追う毎に身体中あちこちに転移し、最後は目や鼻、口、耳、肛門と、身体中のありとあらゆる穴ボコから血を吹き出し、苦しみながら多臓器不全で死んだと、父親の最期を看取った母親とじい様から伝え聞いている。
そして放射線や抗ガン剤による治療の影響か、父親を焼き場で荼毘に付した後は骨がほとんど残らず、喉仏も拾えなかった。
それくらい身体中がボロボロだったんだろう。
父親は被爆者手帳持ち、後期高齢者一歩手前のいい歳だったけど、父親が死んで一番ショックだったのはおそらくじい様。
既に100歳を越えた、いつお迎えが来ても不思議じゃない自分より先に息子を亡くすことの不条理さや悲しさは相当なものだったに違いない。
父親の亡くなる前年に妻であるばあ様を亡くしたばかりでまだ悲しみが癒えていなかった時期に不幸が続きましたからね…。
私は晩年の父親とは仲が悪かったから、父親が死んだ直後は「ざまぁーねぇ」なんて思ってたから、家族や親族がパニクってる&シクシク泣いてる中で唯一私だけは気味が悪いくらい冷静さを保って現状把握をしていたから、粛々淡々と葬儀業者の手配と葬式の準備をし、父親を送り出したのは覚えています。
実の父親を亡くしたのに涙一つも見せず、まるでトラブルの事後処理を行う役所の職員のような事務的で冷淡な対応を平然とやっていた私は傍目には異様に映ったかもしれないし、今にして思えばあの時の私は異常だった。
でも、そんな私も父親を亡くして事の重大さに気付いたのは四十九日を終え、父親の入った骨壺を納骨する日。
自ら墓の石室に骨壺を納めようとした時、自然と目から一筋の涙が頬伝って骨壺に零れ、この時になってようやく自分は父親を亡くして“悲しい”という気持ちになりました。
そして危うく骨壺を手から滑らせて落としそうになって一旦骨壺を墓の脇に置いた瞬間、櫃を切ったように私は“わぁーっ!!”とその場で崩れ落ちて大泣き。
たぶん骨壺を1時間くらい抱いたまま座り込んで手放さず、納骨を拒否…──というより、父親の死を受け入れられない、父親の死を否定したいという一心で私は涙や鼻水、地面に頭や顔を何度も打ち付けて出血した自らの血と泥で顔をグチャグチャにし、わーわー泣いて全く動けなくなりました。
あの時の私は本当に酷い状態でしたよ。
あれから6年が過ぎ、今でこそ父の日などに父親が生前大好物だった地元で有名な高級洋菓子店の高価なクッキーの詰め合わせを気前よく、笑顔で仏壇に供えてやれるくらい落ち着きを取り戻しましたが、今でも最後まで父親と仲直りはしなかったこと、死に目に立ち会えなかったこと、結婚して孫を抱かせてやれなかったことが唯一心残り、後悔として残りました。
親孝行らしいことは何一つしなかった自分。
【石に布団は着せられず】──まさにそれですわ。
まぁ、今となってはどうにもならないこと、口にしても仕方がないことです。
↑形見分けの時に勝手に持ち逃げされ、危うく換金されかけたところを愚弟から奪還した父親の時計。18Kベゼル、サファイアガラス、ホーロー文字盤、青焼き針、と父親の遺品の中で数少ない金目の品。この手のコンビ時計は趣味じゃないから全く使うことはないけれど、たまにこうやって取り出し、秒針のステップ運針をぼんやり眺めています。