
今年も例年通りキタアカリを埋ける。
私は鍬を握れないので、従甥二人に「(イモを埋けるのを)少し手伝いんちゃいや」と声を掛け、私は作業する二人の傍らに立って指図・監督(←あとはナイフ片手に種芋を切って切り口に灰をまぶして消毒・並べていくという感じで役割分担)。
従甥たちには小さい頃から野菜の種や苗を植えさせたり、収穫の手伝いをたまにさせていましたが、二人も中高生になり、今は同居していることもあり、そろそろ本格的に土いじりを教えていこうと思いましたので。
もちろん、二人が“嫌だ”“したくない”と言えば絶対に作業はさせない。
理由は後で書きますが、百姓というのは決してラクな仕事ではない。
百姓の大変さや苦労は私はよく知っているし、この手の仕事に自ら進んで就いてくれとも言わないし、望みもしない。
今の時代、百姓でメシを食うていくのは物凄く大変ですから。
でも、家庭菜園と言えどもこれも立派な“生活防衛”の手段の一つと位置づけていることから決して生半可な遊びではないし、やる気もなくなぁなぁに土いじりをされるのは私は我慢なりません。
素人だろうが本職だろうが食べ物を作る者(生産者)にはそれ相応の責任というものがあります。
それが果たせないなら鍬を握る資格はないです。
そこのところも含めてしっかり従甥にも土いじりを教えていかなければなりません(※実際に従甥たちが将来的に百姓になる・ならない、土いじりをする・しないに関係なく)。
就農でもしない限り、進学や就職、出世なんかには全く役に立たない知識や技術ですが、私は従甥たちに最終学歴の高さや高い教養以上に男としての生き抜く力、“生存力”を身に付けてほしい。
“実生活的な逞しさ”や“内面的な強さ”というんでしょうか?
土いじりはそういうのを自然と学び、養われる気がします。
仕事が無くてもとりあえず土地と鍬(道具)と種(資材)があれば何とか食い繋げる可能性(生存率)が少しでも上がるなら土いじりを教えることも決して無意味や無駄ではないと思っています。
※土いじりとは関係ないけど、この前、質屋という名前や商売そのものを知らない従甥たちを連れて質屋に行き、私が実際に質屋を利用して質屋の仕組みや利用の仕方を社会勉強だと思って教えてやりました。
ボンクラ高校卒でまともなサラリーマン経験もなく、社会経験も大したことないこんなクズキワオヤヂの私が若者に教えてやれることなんて高が知れています。
大人としても、人間としても、決して褒められた生き方もしていないし、叩けばいくらでもホコリ(過去の悪行)が出る、本当に汚なむさい人生を歩んできたからこそ、自分みたいなダメ人間街道に足を突っ込まないよう、自分が持つ数少ない取り柄(←大袈裟)、家庭菜園を活かしてせめて“生き残る術”をこれからも教えていきますよ。
物心付いた時には既に父親がいなかった従甥たちに“父親の後ろ姿”を背中で伝えるなんてことは未婚で父親経験のないオイラには出来ないし、そういうガラでもないけれど、社会のルールや規範を教える“男の年長者”としての役割を果たせる人間は家庭内だとオイラしかいませんから。
我が家には人生経験豊富なじい様(従甥たちにとっては“ひいじぃ”)も健在ではあるけど、従甥たちとは世代が違い過ぎてじい様の考え方や人生観が現代に即していない部分(※)もあるから、あまりアテにはなりませんからね。
※もちろん、“長老の知恵と経験を借りる”“人生の先輩の生き様を示す手本”という点では今を生きる若者に対してヒントになることもあるから一概に全てが全てダメだとは思いせんが…。