高校3年間、ずっと担任だった“ヨボじぃ”かな?
オイラが入学した時には既に83にもなるじいさんで、私立だから定年も転勤もないコトからかれこれ60年くらい教師(担当は歴史)をやってたらしく、学校の教員としては最古参(※戦前の旧制中学時代から教鞭を執っていたとか)。
これはのちに知ったのだが、オイラみたいな出来の悪い連中ばかりが集められたクラスの担任を誰もやりたがらなかった中で、ヨボじぃは自ら担任を名乗り出たらしく、オイラが3年間無事に進級して卒業出来たのもこの担任のおかげだったりする。
もっとも、入学した当時はまだ中学時代のやんちゃ気分が抜けず、オイラは先公というだけで毛嫌いし、大人の言うコトなんてこれっぽっちも聴かない、いわゆる反抗的な“不良生徒”に部類されるヤツで、担任のヨボじぃも例外なく最初は無視していた。
そんなある日、オイラが授業をサボって食堂の横にある自販機スペースのベンチで座って昼寝しているとヨボじぃが来て「南部…今は数学のじゃろうに…。ここで何をしとるんじゃ?」と話し掛けてくるから「あぁっ?知るかっ。シャバいからフケたんだよ。わしの勝手じゃろうが」と、悪態をつくオイラのポケットに入ったハーフサイズカメラ(OLYMPUS PEN EES2)にヨボじぃが気付き、「そりゃ何じゃ?」と尋ねるので、ポケットからカメラを取り出し「カメラだよ、カメラ。カメラを知らねえとかボケかますなよ」と毒を吐くと、ヨボじぃが「そうか…」と呟いて何やら思案(?)するコト数秒。
するとヨボじぃは「南部…写真が好きなら、ウチの写真報道部で頑張ってみんか?」と声を掛けられ、のちに写真報道部に入ったのがキッカケでヨボじぃと関わり合いを持つようになった。
いつかしかこのヨボじぃを“信用出来る身近な大人”として一目置くようになり、ヨボじぃの言うコトにはまだ多少なりとも耳を貸すようになり、サボりがちだった授業はとりあえず居眠りでも出席するようになり、他の教科は居眠りしてもヨボじぃの歴史と道徳(主に戦争体験)の授業だけはマジメに受けていた。
そして卒業式の時に先公に対して本心から自発的に頭を下げ、素直に感謝の言葉を述べたのも最初で最後もヨボじぃただ1人だけだった。
ここまで人間的に尊敬出来た先公もたぶんヨボじぃ以外には後にも先にもいないだろう。
この先公と高校で出会わなかったら、オイラは間違いなく真っ当な人間を辞めていたに違いないし、身を滅ぼしていた。
正に“恩師”と言って差し支えないの人だった。
ただ、そのヨボじぃはオイラが卒業して約2日後に風邪(肺炎)をこじらせて入院し、その翌日に他界してしまった。
まるで、出来の悪いクソガキ共の面倒を看るという役目を終えたかのようにパッタリ逝ってしまった。
ヨボじぃの通夜と告別式に出たけど、突然の訃報で本当にショックだったのを今でも覚えている。
情けなくも男泣きしたのは中学の相方が交通事故で死んだ時以来だった。
ヨボじぃは卒業式の時「オマエさんたちは本当に手の掛かるやんちゃ坊主ばかりだったが、わしはオマエさんたち全員は例外なく“息子”同然に思って3年間担任をさせてもらった。出来が悪くとも可愛い我が子じゃからな。オマエさんたちは人に愛され、祝福されながらここを巣立っていくコトだけは覚えておいてほしい。そして、自分の命も他者の命も大切に出来る優しい大人になりなさい」──その最期の言葉が今でも忘れられない。
こんな社会に居場所のない落ちこぼれだと思っていた自分たちを見捨てず、粘り強く真剣に向き合い、父か祖父のように温かく接し、静かに見守っていてくれた老教師の担任、“ヨボじぃ”──。
オイラはアンタみたいなお節介なじいさん、最高の恩師に出会えて本当に幸せでした。
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