(臨時営業)サラメシ、あるいは父伝子伝
2014年4月19日(土) またまたボンヤリしていたら4月も早や後半だが、昨冬よりも温暖だったこの冬は、3月になるとやはり例年よりも早く春めき始め、いつもなら梅や連翹の花が咲くだろう時期に桜の花が満開を迎えた。その桜も、いつもながらに自宅に引きこもって外界の動きと遮断されているうちに、不意の花冷えと春雨とで呆気なく散ってしまい、老犬を散歩に連れていく際にすぐ近くの公園にわずかに咲いているのをちらと見かけただけで終ってしまった。 つい暫く前までは、自宅から歩いて15分ほどの場所にあるヤンジェチョン(良才川)にかかる橋をバスで過ぎる際、川べりに咲きほこる色様々な花を望むことが出来たが、今では桜はむろん梅や連翹などの花も一気に散ってしまい、単調な樹木の青葉しか見られなくなってしまった。 昨年末に1年間のスケジュールを終え、しばらく休講した後で1月中にも再開されるはずだった韓国語の講習が、運営母体である某区の予算の都合なのか、いつまでたっても始まる様子がないまま4月を迎えてしまった(★)。10日ほど前になんとか1学期遅れで開講されはしたものの、私が通い始めた「中級の上」クラスの男性講師の教え方が余りにひどく(どうひどいかは具体的に書きはしないが)、初回は我慢して静かに聴いていたものの、2回目の講習でも少しも変る様子がないためすっかり嫌気が差し、講師と事務局の双方に適当な理由を告げて、昨年途中から受講したひとつレヴェルが下の「中級」クラスに変更してもらった。《★おかげでこの予想外の「休暇」の間、読書に多くの時間を割くことが出来た(本来であれば韓国語の自習時間を増やすべきところなのだが、生来の意志の弱さから誘惑に打ち勝つことが出来なかった…)。ウィリアム・フォークナーの「響きと怒り」、「八月の光」、以前このブログでも簡単に触れたジョナサン・リテルの「慈しみの女神たち」、トーマス・マンの「魔の山」、「ブッデンブローク家の人々」、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」、アルベール・コーエンの「選ばれた女(Belle du Seigneur)」などの長篇作品をはじめ、村上春樹が「フラニーとズーイー」の新訳を出したからという訳ではないがサリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」に始まるいわゆる「グラース家サーガ」(今回は野崎孝他の旧訳で読んだ)や、樋口一葉の「たけくらべ」、「にごりえ」、森鴎外の「阿部一族」、「佐橋甚五郎」などの歴史小説、上の文中でも触れている横溝正史の「女王蜂」など、初読のものもあれば再読(三読)したものもあるが、韓国語の独習を始める午前の静かなひとときに、登場人物一覧などを作りながらゆっくり読み進めることが出来た。》 「中級の上」クラスでは、某私立大学の語学堂(外国人のための韓国語講習)の教材を使うことになっていたのだが、これまで何度かこの種の教材を使ってきた経験から、大学などでの「お勉強」には良いのかも知れないが、より実践的な語学力向上のためには特に役立つと思ったことはなく、むしろ出入国管理局などの公的機関が、韓国に帰化したり永住したりする外国人や「結婚移民者」向けに作成した教材の方がより生活に密着しており、韓国という国の仕組みや習慣を知る上でも有益だと思うようになった。 おまけに大学の教材は、ワークブックという練習帳を合わせると5,000円近くもし(一方中級クラスの教材は700円程度である)、それだけのお金を出せば、日本人が理解しづらかったり間違えたりしやすい要点をコンパクトにまとめた日本語の教材を少くとも2冊は買えるし、細かいニュアンスまで説明されたそうした教材を使って集中して勉強した方が遙かに効率良く学べるはずである。 上記の講師の言い分では、それなりのお金を出して教材を買えば、途中で簡単にやめたりせず真面目に講習を受けるようになるということなのだが、件の講師の教え方や韓国語の知識のお粗末さを見せ付けられたこちらとしては、そんなことよりも、学ぶ側の人間が勉強し続けたいと思うような講習をすれば生徒も自然についてくるのではないかと、憎まれ口の一つも叩きたくなった程である。 もっとも、私が早くも別のクラスに変更したことを告げると、一緒に受講するはずだった同級生たちはひどく驚いていたので、あるいは私が上記の講師に対して(不当なまでに?)厳しすぎるだけなのかも知れない。なんと言っても教材を買いさえすれば無料で受けられる講習であり、高額な受講料を払わなければならない大学の語学講習などと同水準の講義を期待するのは、そもそもお門違いなのではないかと…。 しかし確かに無料であるとしても、役に立ちそうもない講習を受け続けるのは貴重な時間の浪費であり、いっそより効果的な教材を用いて独習した方がマシである。幸い昨年に引き続いて受けることになった「中級」クラスは、内容も単に教材をなぞるだけではなく、毎回別の教材から選ばれた宿題も出され、講師もヴェテランでこちらの質問にも的確に答えてくれる(反対に言えば、今回の講師はこちらの質問にもろくに答えてはくれないのである)。途中からは昨年受講した内容を改めて習うことにはなるが、それも文法や表現(特に韓国語に多い擬声語や擬態語など)の再確認になって良い機会かも知れないと思うことにしている。 とまれ、漸くにして今年の学習態勢が整ったという訳である。 閑話休題。 以前も少し書いたことがあるが(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502040152.html)、20数年間の会社員生活でお昼休みは、私にとっては(例外もあるので「概ね」ではあるが)「休み」の時間ではなく、仕事の延長とでも言うべき実に苦痛な時間だったと言っていい。 一時期は日々の仕事そのものよりも昼食時間の方が遙かにストレスフルだったことすらあり、いつも決りきった飲食店で同じようなメニューを前にしながら、別段とりたてて親しい訳でもない上司や同僚と交わさねばならない会話のことを考えるだけで、朝からひどく憂鬱だった。 別に私一人のせいではないのだが、いつも同じ面子(メンツ)であることもあって、毎日食事の時間が待ち遠しくなるような楽しい話題などは全くなく、話を交わすことよりも沈黙の時間の方が長い実に重苦しい雰囲気のなかでは、何を食べてみたところで食事を充分味わうことなどできず、この辛いルーチンをこなすためだけに、決して少くないお金を(使いたくもないのに)使って、ただ単に腹を満たしていたに過ぎなかった。 もっとも都合7年半にわたり海外にある子会社に出向していた期間は、たまたま気が置けない上司や同僚に恵まれたこともあるが、弁当の出前をとったり職場近くの店でサンドイッチや軽食を買ってきて、インターネットを眺めながら自分の机の上で静かに食事をとることが出来たし、日本でも部署によっては「昼当番」と称して、他の部署や外部からかかってくる電話の応対をするための順番が定期的に回って来たので、上司や同僚が昼食から戻ってきたのを確認した上で、やおら一人で気儘に食事に出ることが出来たため、苦痛な時間を過ごさずに済んだ。 平均的な労働日数を週に5日、休暇等を換算して年間45週と仮定すると、1年に225日働くことになる。上に挙げたような「例外」もあるので、上司や同僚と「嫌々」一緒にしたためた昼食の回数を全体の半分とすれば、この225日×11年=2,475回となる。1回の平均時間を1.25時間(食後に行く喫茶店を含む)とすると、総時間数にして約3,094時間となる勘定である。 これは年換算すればわずか0.35年(日数にして129日)にしかならず、20数年間(8,030日)の会社員生活全体からすれば微々たる時間だとも言えるが、同僚との昼食に行かずに一人のんびり本を読みながら食事をしたと仮定した場合、5時間で単行本を1冊読めたとすると、実に619冊分にもなる。 そして1回あたりの平均食事費用(これまた食後のコーヒー代を含む)を1,200円とすると、2,475回の食事で総額297万円。一人で食事に出た場合はこの半額で済ませていたとすると(と言うのも、実際昼当番などで一人で食事をする場合、私は大抵サンドイッチやおにぎりなどの軽食と、コーヒー1杯程度で済ませていたからである)、上にも挙げた以前のブログにも書いたように「ブックオフの105円コーナー」の本で「換算」すると、実に14,142冊の本を買うことが出来たことになる(むろんそれだけの本を収納する場所があったかどうかということは此処では勘案しないことにする)。本でなくとも、さほど高くない自動車の1台か(もっとも運転できない私にとっては意味がないが)、大画面のモニターや音響システムを買ってホーム・シアターを楽しむことくらいは充分に出来たはずである。 何という時間の損失、機会の損失だろうか! ところがである。 最近私が最も楽しみにしているテレビ番組は、私がかくも忌み嫌ってきた「会社員たちの昼食」を「ウオッチング」する番組「サラメシ」(★★)なのである。《★★言うまでもなく韓国のテレビではなく、日本のNHKの番組である(我が家では日本語によるテレビ放送はNHKの国際放送しか見られない)。サラメシとは「サラリーマンの昼メシ」の略。 実際にはサラリーマン(ウーマン)だけでなく、様々な職業を持つ人々の昼食を紹介している。番組のウェブサイトにあるキャッチフレーズは《ランチをのぞけば、人生が見えてくる 働くオトナの昼ごはん それが「サラメシ」》。》(★後日追記→この「サラメシ」も、なんと2025年3月で呆気なく終了してしまった。後継番組はまったく興味のないもので、そうでなくてもすっかり関心が薄れてしまっていたテレビというものを、これをきっかけにますます見ないようになってしまった) これまでも韓国に来て私のよく見るテレビ番組と言えば「孤独のグルメ」だったり「深夜食堂」だったりと、いつでも食べ物がらみの番組ばかりだったのだが、もうすぐ渡韓後2年になるというのに頭の中は少しも成長していないようである。 これまで何度も書いてきたように、生来の味音痴と吝嗇癖があいまって、私という人間はおよそ食べ物には大したこだわりも好みもなく、空腹さえ満たされれば大抵は満足してしまう方なのだが、映画やテレビ、漫画などの食事シーンには現実の食事以上に「妄想」を掻き立てられてしまう悪癖がある。 しかし「サラメシ」という番組に私が惹かれるのは、様々な職場で働く人たちがそれぞれの好みやこだわりを持って作る弁当の中味を覗き見る楽しみもむろんあるにはあるが、毎回番組内で焦点の当てられるどこといって特徴のない飲食店街や地方都市のなにげない風景、わずかな人数で営まれるちいさな事務所や工場における仕事の様子や職場風景などが実に魅力的だからでもある。 そして私などのような怠け者にとって驚きなのは、わざわざ朝早く起きて自分で弁当を作って職場に持ってくる人たちの多さであり、テレビ撮影のために普段よりも力をこめて作って来てはいるのだろうが、種類も様々で実に手の込んだ弁当を作る人たちが少からずいることである。 しかしこうした番組を見て楽しんでいることの底流には、あれだけ嫌がっていた会社生活や昼食時間が、いざそこから離れてしまうと懐かしく思えてくる一種のノスタルジーが作用しているのではないかと思われるかも知れない。毎日刺激のない生活を送るなかで、再び会社に通って上司や同僚たちに囲まれながら仕事をしたい気持ちすら湧き起って来ているのではないか、と。 だが、今も私の記憶に甦ってくる会社員生活と言えば、毎朝、まっすぐ立っていることも出来ないほど混雑した通勤電車に乗り、目の前の座席が空いてくれることをむなしく期待しつつ、半ばまどろみながら吊り革にぶら下がって1時間半以上かけて仕事場に向い、夜遅くまで終りの見えない仕事と厄介千万な人間関係に神経を擦り減らされた果てに、ふたたび電車に揺られて何とか家にたどり着いたとしても、もはや体も心も疲れ果てて何をする気力も体力もなくなり、ただ眠りに逃避するだけの日々…といったものでしかない(むろん実際にはそうした日ばかりではなかったのだが…)。 当然、わざわざ早く目を覚まして弁当を作ることはおろか、朝食を摂る気分にすらなれず、スーツに着替えていつでも出発できる格好になってからも、「あと5分だけ…」と自分に言い聞かせながらギリギリの時刻までベッドの上に寝転がって愚図愚図していたものである。 だから再び会社員生活に戻りたいというような気はこれっぽちもなく、このまま経済的な支障さえなければ会社での仕事も昼食時間も二度とご免であると思っているほどなのである(むろん実際には支障だらけで、遠からずそうするしか選択肢はないのだが…)。 だから「サラメシ」で紹介される仕事場や昼食時間の様子が今の私に興味深く見えるのは、それが自分自身の現実の姿ではなく、自分には何の係わり合いもない「赤の他人」の会社生活や昼食時間だからであって、自分が実際に番組で採り上げられている仕事場に通い、上司や同僚と昼食を共にしなければならないとしたなら、それがどんなに和気藹々とした職場であろうと、やはり間違いなくすぐにウンザリして息が詰まるような辛い思いをしていたに違いないのである。 そうやって私がすっかり「騙されている」のには、働く人たちの昼食時間を魅力的に映し出そうとする番組製作者たちの演出力(悪く言えば「嘘」)があることは間違いないのだが、それに加えて極めてユーモラスな語り口でありながら、時としてホロリとさせるような人情味を帯びてしっとりとした表情を見せる俳優・中井貴一のナレーションのおかげであることも間違いない。 中井貴一と言えば、私もご多分に洩れずもう30年以上前のドラマ「ふぞろいの林檎たち」で初めて知った口なのだが、決して下手だったとは言わないものの、時任三郎や柳沢慎吾、小林薫などの個性的な男優陣や、手塚理美や石原真理子、高橋ひとみといった「美女」陣の蔭に隠れてしまっていたという印象が強い。中井の父親で、若くして既に亡くなってしまっていたという佐田啓二のことも当時の私は知らず、その暫く前の横溝正史ブームのなかで映画化された「女王蜂」で、やはり佐田啓二の娘として鳴り物入りでデビューした中井貴惠(★★★)と共に、「これでは早晩消えてしまうだろうな」などと無責任に思った程である。 だからこの「サラメシ」における硬軟とりまぜた見事な声の演技を耳にして、もう半世紀以上前に不帰の客となってしまった父・佐田啓二や小津安二郎が今の彼の姿を目にしていたらどんな感慨を抱いたことだろうかと思わずにはいられなかった。《★★★「女王蜂」の映画評を見ると、必ずと言っていいほどこの女優の演技が酷評されているのだが、今回原作を再読したついでに映画の方も見直してみたが、確かに巧みな演技とは決して言えないものの、そこまでひどいとは思えなかった。彼女にとって不幸だったのは、周囲に高峰三枝子や司葉子、岸恵子といった、父・佐田啓二や(幼い頃に可愛がられた)小津安二郎とも縁の深い大女優たちに囲まれていたことだと言ってもいいかも知れない。》 「サラメシ」に話を戻すと、普通の働く人たちの昼食風景やお弁当もとても興味深いのだが、番組の最後に「あの人も昼を食べた」として、もはやこの世を去ってしまった著名人たちがかつて愛した昼食のメニューを紹介する「あの人が愛した昼メシ」は、中井貴一の語り口の妙に加えて、The Pied Pipersによる「Dream」という歌の美しく懐かしい歌声も手伝って(https://www.youtube.com/watch?v=8eFk8fMM8wU)、毎回(と言ってもこのパートがない回も結構あるのだが)ただじっと見入ってしまうしかない。 ちなみに「父伝子伝」(父傳子傳、부전자전)というのは、「この親にしてこの子あり」を意味する韓国の諺である。