英国の推理作家ディック・フランシス(1920年10月31日~2010年2月14日)

 

 2024年3月23日(土)

 テレビっ子で読書嫌いだった子供時代の私が本を読むようになった最大のきっかけは1970年代末の横溝正史ブームで、次々と公開/放送される映画やテレビドラマを見ては、おどろおどろしくも美しい表紙(★)の角川文庫版を次々買い漁り、ろくに意味も分からぬままページを繰っていったものである。

 横溝正史以外にも、「犬神家の一族」に始まる角川映画で取り上げられた森村誠一や大藪春彦、筒井康隆、小松左京、平井和正、赤川次郎、山田風太郎、半村良らの原作に目を向けるようにもなった。

《★過去のブログ記事→https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502039495.html

 

 

 

 その流れで海外の推理小説やSF小説にも徐々に食指を伸ばすようになり、小学校の図書室に子供向けリライト版がたくさん置かれていた時には見向きもしなかったコナン・ドイル=シャーロック・ホームズやアガサ・クリスティ=ポワロやミス・マープルなどにも遅まきながら接するようになった(ただしモーリス・ルブラン=アルセーヌ・ルパンやエラリー・クイーンの作品に全く興味が向かわず、後者は何年か前に代表作をまとめて読む機会があったものの(★★)、前者は現在に至るまで1冊も読んだことがない)。

《★★過去の記事→https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12728610390.html

 

 

 しかし高校に進学して友人に勧められた遠藤周作の硬軟織り交ぜた作品群にすっかり惹き込まれてからは、私の読書傾向は一転して(純)文学寄りになっていき、漱石や芥川をはじめとする明治・大正文学や、第三の新人や大江健三郎などの戦後文学、さらには遠藤の専門だったフランス文学や欧米文学へと向かい、推理小説やSF作品からは急激に遠のいてしまった(そのため私が読んだ推理小説やSF小説には非常に偏りがあり、上記のルブランやクイーンの他にも、ジョン・ディクスン・カーやS・S・ヴァン・ダイン、ウィリアム・アイリッシュやジョルジュ・シムノンなど、ミステリー好きなら必読ものだろう作家の作品もほとんど読んだことがなく、SF小説はさらに有名どころの未読作品が多い)。

 

 

 そんな推理/ミステリー小説との短かった蜜月時代に手に取った作品に、英国人作家ディック・フランシスの競馬シリーズがある。

 そもそも私は競馬や競輪などのギャンブルに全く興味を抱いたことがなく、社会人になってから会社の同僚のお付き合いで一度だけ競馬場を「社会見学」したことはあるものの、それ以前も以降も一切賭け事をしたことはない(身近なところでは麻雀やトランプも出来ない)。

 それで思い出したのだが、社会人になりたての頃、私の勤めていた職場では高校野球が開催されるたびに職員間で野球賭博のようなことが行われていて、全く興味のなかった私も何度か半強制的に(?)参加させられたことがあった。

 そもそも高校野球自体に何の関心もない上、会社で賭け事をすることに抵抗を覚えた私は程なく参加を固辞するようになったのだが、そのうち社内的にも問題視する声が上がるようになり、いつの間にか行われなくなっていった。

 今から考えれば、女子職員にお茶くみをさせたり(これも私は大嫌いで、こちらは最初から辞退)、始業時間前に机の掃除をさせるなど、私が社会人になった1990年代初め頃には、(少なくとも私の勤めていた会社では)今では到底考えられないようなおかしな慣習がまだまだまかり通っていた訳である。


 

 話が脱線してしまったが、そんな私がどうして競馬シリーズなどというものを読むことになったのか、そのきっかけも理由ももはや記憶にないのだが、おそらくどこかの作家か評論家が勧めていたか何かでたまたま手に取ってみたのだろう。

 最初に読んだのはシリーズ最高傑作とされることの多い「興奮」(原題:For Kicks)だったが、私はどういう訳かこの競馬ミステリーという異色ジャンルにすっかり惹き込まれ、立て続けに3、4冊買い込んで読みふけったのだった。しかし既に「文学モード」に入りかけていたこともあり、良くも悪くもそれ以上「深入り」することはなかった(結局ディック・フランシス作品は私の「推理/ミステリー時代」の最後期を飾ったことになる)。

 その後もこのシリーズに対しては面白かったという好印象が残り続け、何年か前にハヤカワ文庫Kindle版が半額セールになったことを契機に推理/ミステリーやSF小説への興味が復活したことから、競馬シリーズも改めて何冊か買ってみる気になった次第である。

 ちなみにどの作品を買う/読むべきかという選定にあたっては、しばらく前に紹介した「ミステリの祭典」を参考にした。

 

 この競馬シリーズ、年老いて筆力(? 体力?)の衰えた父ディックが息子フェリックスの協力のもとで完成させた共作も含め全44作あるようなのだが、今回はそのうち10作を購入・通読した。以下に簡単な雑感を記して(あくまで)個人的な備忘メモとしておく。

 

父ディックと息子フェリックス

 

 メモを記す前に、今回読んだハヤカワ文庫Kindle版の問題点や、訳者・菊池光の翻訳について簡単に触れておきたい。

 

 まずは競馬シリーズのKindle版だが、Amazonなどのレビューにも度々記載されている通り、誤植(実際には紙の本からのスキャン・ミス)が山のようにあって感興を削がれることこの上ない。

 これはこのシリーズに限ったことではなく、角川文庫の松本清張作品などにしても、スキャン・ミス(の放置)は旧作の電子書籍化における大きな問題なのだが、この競馬シリーズではその頻度が特に高いように思えてならない。

 具体的に「本命」という作品からスキャン・ミスと思われる例をあげてみると、

 

 「者」→「老」(「労務者」が「労務老」、「記者」が「記老」)

 「方」→「力」(「方角」が「力角」)

 「シーツと」→「シーッと」(最初に読んだ時には、これがベッドのシーツではなく擬音語かと思った)

 「日」→「口」(「すばらしい日」→「すばらしい口」)

 「き」が「ぎ」に(「ざわめき」→「ざわめぎ」、「引き出し→「引ぎ出し」、「身動き→「身動ぎ」、「集まってきます」→「集まってぎます」、「見分け」→「見分げ」)

 「見出した」→「見出だした」(ミスと言うより訳者の癖か?)

 「カード」→「力ード」(カタカナの「カ」が「力」(ちから)になっている)

 「おずかに手をゆるめた」(わずかに?)
 「ゆうつな調子」(ゆううつ? そもそもこの人には「憂鬱」をあえて平仮名表記する癖がある)

 

 私が気づいただけでも「本命」1作品の中にこれだけのミスが見られた(他作品でもこの他に「目」→「白」などの間違いが多出)。

 紙の本でも誤植は決してない訳ではないものの、電子書籍になってもこうした間違いが多いのは残念と言うしかなく、たとえ電子書籍が紙の本に比べて低廉な価格設定になっているとしても、こうした「不良品」を平気で売り出す出版社の見識を疑うしかない(WORDなどには誤入力された文章に下線が表示される機能があり、こうしたソフトを活用すれば上記のようなミスは簡単に防げると思うのだが)。

 

 この競馬シリーズのみならず、ロバート・B・パーカーの「スペンサー」シリーズなどをほぼ一人で手掛けて一部のファンから高い評価を得ている訳者・菊池光 (きくち・みつ)の翻訳についても少々触れておきたい。

 ざっくりした印象を記すなら、この人の翻訳は良く言えば個性的と言えなくもないものの、悪く言えば直訳調で日本語として拙劣かつ不自然、そして固有名詞や外来語の独特な表記方法はひとりよがりで、翻訳作品に訳者自身の個性など求めていない私のような読者にとってはこれは単なる雑音以外のなにものでもない。人によって好き好きはあるだろうが、私にとってこの人の翻訳は「プロ」のものとは到底思えないレヴェルでしかないと言っていい。

 一定の美意識からあえてそうしているのだろう独特な表記例を具体的に記しておくなら、「テーブル」→「テイブル」、(飲み屋の)「バー」→「バア」、(衣服の)「ジャージ」→「ジャージイ」、「セーター」→「スエター」、食べ物の「シチュー」→「スチュー」、「プロローグ」→「プロロオグ」などが挙げられる。

 一方で、「ステーキ」や「コーヒー」などは「(ビーフ)ステイク」や「コオフィ」ではなく「ステーキ」や「コーヒー」そのままで、また、原語が「y」で終わる言葉は基本的に「ー」(長音)でなく「イ」と表記している(のだろう)半面、「ie」で終わる言葉には「イ」と「ー」が混在しているようで、明確な表記基準が(あるのかないのか)正直よく分からない。

 他にも独特な語彙や表記に、「馬匹運搬車」(馬匹=ばひつというのは単に馬のことらしい。馬を運ぶ車輌は今では一般に「馬運車」と言うようである)、「得物」(武器のことらしい)、「部面の知識」、「ずるこすそう」、「ひとげ」(人気。間違いではないらしいが、一般には「ひとけ」だろう)、「協構をする」などなど枚挙に遑がない。

 また、地名や人名の表記にもおかしなものがあり、ちゃんと調べて訳したのかどうか大いに疑問である(「レディング」(Reading)→「リーディング」、ハムステッド(Hampstead)→「ハンプステッド」、なんとかマナー(☓☓☓manor)→「メイナ」、「ストラトフォード・アポン・エイヴォン」(Stratford-upon-Avon)→「ストラトフォード・アポン・エヴァン」などなど。「オウイン」という登場人物が出てくるのだが、原語は「Owen」か?(あるいは「Owain」? 「Owen」は「オーイン」のように発音する場合もあるようだが、一般には「オーエン」か「オーウェン」だろう)。

 

 この菊池光という人には他にも上記ロバート・B・パーカーやジャック・ヒギンズなど数多くの翻訳があり、個人的にはジョン・チーヴァーの長編作品(「ワップショット家」もの2作や「ブリット・パーク」)が気になっているのだが、いずれも実物を手にしたことがないため、競馬シリーズのように癖のある翻訳になっているのかどうか不明である。競馬シリーズにしてもロバート・B・パーカーの「スペンサー」シリーズにしても、名訳だとして支持するファンがいる半面、私のように全く性に合わない読者も結構いるようである。

 

 

 以下に備忘メモを記すことにするが、私が読んだ10冊の競馬シリーズに共通する特徴として、作品の主人公たちが揃ってマゾヒストと言っても決して過言ではない極度の忍耐強さを持っている点が挙げられるだろう。読んでいる方が我慢できなくなるような(心身の)苦痛にひたすら耐える登場人物を書き続ける作者(ディック・フランシス)は、きっとサディスト的性格の持ち主に違いないと勘ぐってしまう程の執拗さなのである。そうしたサド/マゾ的なまでの残酷描写が苦手な方々には、この競馬シリーズはお勧め出来ない。
 

ディックフランシス利腕(ハヤカワ文庫Kindle版)再読?

 シリーズ第18作。英国推理作家協会ゴールド・ダガー賞。エドガー賞長編賞受賞。

 元騎手で調査会社の調査員「シッド・ハレー」を主人公とする4作品の第2作。

 途中まではそこそこ面白いのだが、主人公シッド・ハレーが英国人らしく感情を全く表にあらわさず(そのことで結局、妻との結婚生活も破綻してしまう)、何もかも自分ひとりで処理・解決しようとする余り、結果的に自ら(だけでなく親しい者まで)を繰り返し生命の危機に追い込んでしまうのが不自然過ぎて白けてしまった。

 主人公の孤独な戦いぶりはある段階までは納得出来なくもないものの、明らかな暴力/脅迫行為が行われる場面ではもはや警察が介入すべき領域だろうと思え、無理やりサスペンス的状況を作ろうとしているように見えてしまったのである。これは今シリーズの他作品にも共通する過剰な作為と言っていい。

 

 

ディックフランシス大穴(ハヤカワ文庫Kindle)

 シリーズ第4作。シッド・ハレーものの第1作。

 今作も競馬がらみの不正取引を調査するうちに、元騎手で現在は調査員となっている主人公が次々と窮地に陥って痛い思いをすることになる話で、悪人たちは戯画的なまでに残酷で、悪行や暴力を働くことを少しも躊躇しない悪辣さである。結末もいつも通り主人公が窮地を脱してメデタシメデタシとなる展開で、類型的ではあるもののそれなりに楽しめる(ただし昔初めてこのシリーズを読んだ時のような興奮までは覚えない)。

 上記のように菊池光の訳文には時折首をかしげるような表現や表記が見られるのだが、それがこの人の文体なのか、電子版作成時にスキャンに失敗したせいなのかよく分からないものもあって集中力を削がれる。また、性悪の女性だとは言え、「◯◯しな」のような男っぽい命令形を頻繁に使うのにも違和感を覚えてしまうし、盟友チコのやたらぶっきら棒な口調もいささかやり過ぎである。

 ハンディキャップを抱えた者同士が、互いの感情を少しずつ探りながら傷を舐め合い、勇気づけていく浪花節的?なエピソードは悪くない。

 

 

ディックフランシス罰金(ハヤカワ文庫Kindle)

 シリーズ第7作。エドガー賞長編賞受賞。

 競馬の不正に関する記事を書いたことで、次から次へと危機に見舞われる主人公への息継ぐ暇もない試練の数々を読んでいると、(上記のように)作者は相当なサディスト(あるいはマゾヒスト)なのではないかと思ってしまう程、読んでいるのがつらく感じられる。

 しかしサスペンス作品としては見事な出来で、リアリティに多少疑問は残るものの、これまで読んだディック・フランシス作品では最上位に来るものだと言って良い。最後の一文も決して甘いものではなく、人間(男?)の悲しい側面を冷徹に描き出している。

 

 

ディックフランシス「本命」(ハヤカワ文庫Kindle版)再読?

 シリーズ第1作。

 このデビュー作でディック・フランシスはその後数十年にわたる作家としてのキャリアの核心となるものを既に獲得しており、再三再四繰り返されることになるプロットのパターン(競馬を巡る犯罪やスキャンダルの一端を知った主人公が真相究明に乗り出して窮地に陥り(大抵肉体的な苦痛を散々味わわされることになる)、苦境を乗り越えて解決に至る)も、今作で既に確立している。

 逆に言えば作者はこの処女作で作り出したプロトタイプの変奏を飽かず繰り返していくことになるのだが、元騎手の彼がこれほど完成度の高いサスペンス小説をいきなりものしたことに当時の批評家や読者たちは驚愕したに違いない(実際ゴーストライターがいるのではないかという疑惑を持たれたこともあるらしい)。

 主人公のロマンス部分はいささかご都合主義で甘ったるく、結末もやや駆け足ではあるものの、作者の筆致やストーリーテリングは確かで中だるみすることなく、結末まで一気呵成である。見事な処女長編。

 

 

ディックフランシス「敵手」(ハヤカワ文庫Kindle)

 シリーズ第34作。MWA賞 エドガー賞長編賞受賞。シッド・ハレーもの第3作。

 これまでの翻訳とどれだけ異なるか比較してはいないものの、今作は翻訳が余りに直訳調かつ不自然で終始気になって仕方なかった(特に人称代名詞をしつこい程わざわざ訳出するのが煩わしくてならない)。また、原文は分からないものの、「えー」という訳文が非常に多く、文脈にそぐわない不自然さが気になって仕方なかった。翻訳への違和感が多い半面、誤植は少なめか。

 有望な3歳馬の足が次々切り取られるという謎めいた事件をめぐり、元ジョッキーで全国民に愛されている有名司会者が黒幕だと指摘した主人公シッド・ハレーは全国民の敵となり、訴訟リスクにさらされる。

 そんなつかみは素晴らしく、また足を切られた馬の飼い主である白血病の少女とシッドの交流も感動的で、まさに巻を措く能わずで一気に読み進めたものの、物語が進むにつれて徐々に期待は失望へと変わって行った。

 最後で真犯人の動機が明らかにされるものの、善人で人気者という自己像から脱け出したいという理不尽な衝動でしかなく、懸命なアリバイ工作の実態も実に呆気ない。結末で上記の少女が助かるかどうか明確に描かなかったのは、安直なハッピーエンディングを避けるためだと評価できるものの、大風呂敷を広げた割には結末が平凡で安直なのは残念でならない。また女性記者とのロマンスも取ってつけたようで頂けない。

 不良児ジョナサンの行く末も気になるが、あっさり途中退場してしまうお座なりな扱いがやや物足りない。

 

 

ディックフランシス「度胸」(ハヤカワ文庫Kindle版)再読?

 シリーズ第2作。

 他の作品のように最初に明確な犯罪が描かれることなく、どんな不正が行われているか徐々に明らかになっていく異例の展開で、真相が分かるまでのプロットに趣向を凝らしている点は悪くない。

 ただし不正が明らかになって以降の展開はいつも通りのディック・フランシス作品で、警察など公権力の裁きに頼らず、あくまでストイックに自分自身で悪に立ち向かって行く点も相変わらずである。

 最大の欠点は従妹とのロマンスで、必然性を感じない上せっかくの緊張感を削いでしまっており、陳腐な内容にイライラさせられるだけである。ベストセラー作品にはロマンス的要素が必要だという編集者の勧めでもあったのか、それともディック・フランシス自身がそうした凡庸な小説観の持ち主なのか、古くさいエンターテインメント小説の類型をなぞるだけで頂けない。

 今作にも訳者の独特な表記例が散見される。「ジッグ舞曲」(ジーグ=gigueのことか?)、「ロジン」(ロージン=Rosin?←もっともこれは今では「ロジン」表記が正式らしい)。

 

 

・ディック・フランシス「骨折」(ハヤカワ文庫Kindle版)
 シリーズ第10作。現実にはとてもありえないような発端から結末に至るまで全くリアリティを感じられない平均以下の凡作。今作はいつも以上に翻訳が悪いせいか、特に後半は文章もひどく混乱していて読むのに大いに苦労させられた。

 

 

ディックフランシス「重賞」(ハヤカワ文庫Kindle)

 シリーズ第14作。

 これまで読んだディック・フランシス作品の中で最も陳腐で類型的な作品。

 特に主人公が恋人に会いに訪れたマイアミでたまたま自分の持ち馬そっくりの馬に遭遇するというご都合主義そのものの展開や、この恋人とのロマンス描写も陳腐極まりなく、悪役たちの造型も過度なまでに悪役然とし過ぎていて違和感しか覚えない。

 唯一の救いは最後に主人公の持ち馬がレースに勝利しない点か。結末もひどく勧善懲悪的で、主人公が様々な才能に恵まれた金持ち(おもちゃの発明家)という、ハーレクインロマンスのような凡庸な人物造型やプロットにも白けるしかない。

 

 

ディックフランシス「査問」(ハヤカワ文庫Kindle)

 シリーズ第8作。

 競馬シリーズでありながら、作品のほとんどが競馬場ではなく、騎手による不正を裁定する調査委員会や、そこで下された判定(濡れ衣)に対する潔白証明に奔走する主人公の言動で構成される異色作である。

 今作も主人公と美女の余りに類型的なロマンス描写に白けるだけなのだが、内容的にもいつも通り妄執に駆られた異常者が主人公を追い詰め、肉体的に痛めつけるお馴染みのパターンが踏襲されている。

 真相究明にはひとひねりあるものの、真犯人にも全く意外性がなく謎解きの面白みがない上、最後の方で数多くの人名が次々登場し、登場人物一覧を参照しながら読まないと誰が誰だか分からなくなり、バタバタした展開にも興醒めするばかりである。

 今作でも訳者独特の表記方法が気になってしまい、なかなか作品に集中出来なかった。

 

 

ディックフランシス「興奮」(ハヤカワ文庫Kindle)再読

 シリーズ第3作。

 競馬シリーズで個人的に最も好きだったため、今回は最後まで取っておいた作品である(内容は完全に忘れていた)。

 数十年ぶりに読み直してみると、とにかく面白かったというかつての印象が強すぎたせいか、意外にも今回はディック・フランシス作品の中で最も凡庸でつまらないものに思えてしまった。かつて今作に惹かれたのは、最初に接した作品だったため単に競馬シリーズの常套パターンに通じていなかったからなのだろう。

 今回はシリーズ共通のパターンがよく分かった後で読んだ上、作品の出来自体も傑出したものとは言えないため、余計失望が大きかったに違いない。

 競馬にからむ不正の発覚と真相究明、その過程で主人公が陥る(特に肉体的な)苦難、邪悪そのものと言っていい精神異常者の犯人たち、美女たちとの凡庸なロマンス、完璧主義者の主人公が警察などの公権力に一切頼らず自力で問題を解決しようとして更に窮地に陥るものの、最後は不屈の精神で苦境を脱してハッピーエンディングへ・・・・・・という、ディック・フランシス作品で飽かず繰り返されるパターンが今作でも顕著である。

 本命馬が突然「興奮」状態に陥ってレース終盤で脱落してしまう理由にも意外さは微塵もなく、真相判明までの過程もスリリングさに欠ける。主人公が窮地に陥る展開も如何にも作りものめいており、真相究明のきっかけをもたらす某美女との邂逅も如何にも偶然かつ都合が良すぎる。言うなればなにもかもがディック・フランシス作品の類型そのもので、新鮮味もスリルも感じられないのである(もっとも今作は初期作品であり、むしろ後続作品が同じパターンを飽かず繰り返したと言うべきなのだが)。