2023年10月3日(火)

 10月に入り、今年も残り4分の1となってしまった。

 今年は春から健康面でのトラブルが相次ぎ、住居や家財道具(電気製品等)の老朽化による故障や問題も続出するなど、ヒト・モノ両面において「経年劣化」を痛感させられる日々だった。

 残りの3ヶ月が息災に過ぎ、新たな(より良き)1年を迎えることが出来ることを祈るのみだが、正直なところ、今後も年を経るにつれてあらゆる面で下降線を辿っていくことは自明で、「終活」なるものを真剣に考え始めなくてはならない時期が近づいているに違いない。嗚呼・・・・・・。

 

 

 今日は約4年半前に死んだ愛犬の月命日である。

 上の写真とその元である下の動画は、高齢による衰えが顕著になり始めた愛犬の姿だが(しかし頑張ってその後2年以上も生きた)、それでも愛犬はそのちいさな体を懸命に動かして(特に細い尻尾をちょこちょこ上下左右に振りながら)、日々の散歩を楽しんでいた(はずである)。

 最後の1年になる頃には体がすっかり弱って、散歩するにもすぐ隣にある公園を何(十)分か歩くのが精一杯になってしまったが、それでも愛犬は何をするにも常に「一生懸命」だった。

 そんな愛犬に倣って私も最後まで「一生懸命」に生きねばならないと思うのだが、しかし実際には日々ただ惰性に従って漫然と生きているだけで、細い尻尾を振りふり頑張って歩いていた愛犬の姿に接するたびに、忸怩たる思いに駆られている。

 ともあれ、今月も亡き愛犬の冥福を心から祈りつつ、いつかまたどこかで再会出来ることを願い続けるのみである。RIP.

 

 

 今回は本当にどうでも良い話題で、例えば上に書いた文章を細かくご覧いただければ分かることだが、文章中に括弧や中黒などの記号を使う際、私は可能な限り全角フォントではなく半角フォントを用いるようにしている。

 具体的には最初に掲げた表(?)をご覧いただきたいのだが、普通にパソコンで文章を打つ場合、括弧や中黒などの記号は全角フォントで入力される(例えば以下の通り)。

 

 普通に括弧(「 」)や中黒(・)を入力すると、全角で表示される。

 

 ところがこの全角フォントの記号が私にはどうにも間延びして情けないように思えてしまい、これらをいちいち半角フォントに変更せずにはいられないのである(以下参照)。

 

 普通に括弧(「 」)や中黒(・)を入力すると、全角で表示される。

 

 しかも自分が書く文章だけでなく、インターネットからコピーして来た文章を貼り付ける際や、友人などとメールをやり取りする時でも、括弧や中黒が用いられている場合、やはりそれらをいちいち半角フォントに修正しないではいられない(メールの場合は、例えば友人が映画や本のタイトルを全角フォントの括弧つきで記述しているとすると、返信メールでその映画や本に言及する際、私はそのタイトルをコピーしてそのまま用いるのではなく、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」→「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のように、括弧や中黒だけわざわざ半角フォントに変えるのである)。

 

 特に私が忌み嫌うのは括弧や記号が2つ以上連続する場合で(例:「バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985年公開)」)、左の文章の最後は読点(、)も含めて全角フォントの記号が4つも並んでしまっていて見苦しいことこの上ない(と、私には思われる。ちなみに句読点は半角フォント入力も可能なのだが、使用頻度が高いこともあって、泣く泣く全角フォントのままで我慢している。一方、英数字は半角フォント入力が基本である)。

 

 実のところ、当ブログの過去記事(特に10年以上前の古いもの)を参照いただければ分かることなのだが、こうした全角フォント記号への嫌悪(?)が生じ始めたのはここ数年のことで、それ以前は全角フォントが2つ以上並んでいようが全く気にしていなかった。

 果たしていつどういうきっかけから偏執狂的とも言えるそうした傾向が始まったのか自分でもよく分からないのだが、厄介なのは自分が過去に書いた文章でも、たまたま読み直す機会が訪れたりするとひどく気になることで、目についた括弧や中黒をことごとく半角フォントに修正したくて堪らなくなるのである。

 しかし根がはなはだ面倒くさがり屋なので、大抵はひとつの記事を修正するだけですっかり力尽きてしまい(老眼が進んでいることもあって見逃してしまう場合も少なくなく、思った以上に手間暇がかかるのである)、修正作業は全く進んでいないのが実状である。

 

 そもそもパソコンで半角フォントが準備されている記号は、括弧を例に取ると私の知る限り、「 」 [ ] { }くらいなもので、『 』《 》【 】などには全角フォントしかなく、たとえ修正したくても端から修正できない(従ってこれら全角フォントしかない記号を使う際には結構逡巡してしまう)。

 しかも私の使っているスマートフォンでは(単に私が知らないだけかも知れないが)半角フォントの記号がなく、スマートフォンで記事を入力したり修正したりする際には、全角フォントを用いるしかない(そのすぐ後にパソコンを用いて修正する場合もあるにはあるが、忘れてそのまま放置されているものも少なくない)。

 

 どうしてこんな些細なことが気になるのか自分でもとんと理解できないのではあるが、美的感覚の問題というよりほとんど生理的(肉体的)な好悪によるもので、それだけに簡単に放置しておけないのが難点である。

 こうした傾向はおそらく「偏執病(パラノイア)」の一種であり、要は病気あるいは狂気と呼ぶべきものなのかも知れないのだが、かと言ってこれを治すために病院などに行ってみたところで、果たして医師がまともに取り合ってくれるかどうか疑問である(そもそも根っからの病院嫌いである私が、こんなことで通院する可能性は皆無なのだが)。

 

 幸い今のところは、ほとんど誰も読んでいないこのブログや、せいぜい数少ない友人とのメールのやり取りに限られた話である上、おそらくまだ誰ひとりそうした私のこだわりにも気づいてすらいないと思われ、他人様に迷惑を及ぼしている状況でもないため懸念するには及ばないだろうと勝手に考えている。

 しかし今後この種の「偏執病(パラノイア)」が嵩じておかしな方向に発展して誰かに迷惑をかけるようなことがまったくありえないとは言えないため、これからは意識的にこうした些事に拘泥し過ぎないような、鷹揚で余裕ある精神状態を心がけたいと思っているところである。嗚呼・・・・・・。