2023年4月3日(月)

 いずれ改めて詳しく採り上げるかも知れないが、音楽家の坂本龍一が亡くなった(3月28日死去、享年満71歳。上の写真)。1月に70歳で亡くなった高橋幸宏に続いて、YMO(Yellow Magic Orchestra)のメンバー3人のうち2人が立て続けにこの世を去ってしまったことになる。

 とは言え、YMOの音楽に同時代で強い関心を持っていた訳ではなく、その後も学生時代の友人や会社時代の元同僚のようにソロ・アルバムが出る度に買い求めて熱心に聴いたこともなく(友人は何度かアルバムをCDにコピーしてくれたこともあるのだが、じっくり聴くこともなくCDラックに収納してしまった)、せいぜい「戦場のメリークリスマス」(1983年)や「シェルタリング・スカイ」(1990年)などの映画音楽に多少興味を惹かれたくらいだった(特に後者は映画自体も大好きで、OSTのCDも買って繰り返し聴いたものである)。

 年始にNHKで放映されたピアノ・ソロ演奏「坂本龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes」もたまたま見たのだが、話し声にまったく力がなく、病魔に蝕まれて体力的に相当きつそうなことが見て取れる内容だった(だから今回の訃報に接しても「ああ、やはり」という思いだった)。

 ともあれこの音楽家の死を深く悼み、心から冥福を祈りたい。RIP.

 

 

 今日は約4年前に逝った亡き愛犬の月命日でもある(下の画像と動画)。

 ここ数日、満開を迎えた桜の花びらが舞い散る近所の川辺を散歩しながら、まだ若く元気だった時にやはり桜吹雪のもとで愛犬とのんびり散策したことを思い出しては、いつかまたどこかで必ず再会したいものだと心の中で念じ続けていたものである。RIP.

 

 

 候補作の選定や受賞結果に映画的センスが微塵も感じられず、それでいて最近は何やら時代におもねった「似非」インテリぶりさえ目立つハリウッド映画界のロクでもない映画賞に「アカデミー賞」なるものがあるが、今年は中国系の監督&キャストによる「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」という作品が主要部門を席捲したことで日本や韓国でも話題になったため、「どんなものだろうか」と思って試しに見てみることにした(そして予想通り大いに後悔することとなった)。

 

 

 この祭典がらみの各種メディアによるやかましい報道が収まった頃、「今年のアカデミー賞は一番優れた作品が受賞したわけではない」という記事がインターネットに掲載され、個人的な感想ではとんでもない大愚作である「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」が主要賞を軒並み獲得出来た理由が解説されていたのだが(以下のアドレス参照→https://shueisha.online/entertainment/118313)、優れた作品が必ずしも栄冠を手にする訳ではない(というより、むしろ真に優れた作品が選ばれる方が珍しい)ことは何も最近だけの傾向ではなく、まだ今から数十年前に子供だった私でさえ、「何でこんな作品が高く評価されるのだろうか→やはりハリウッド映画(界)はロクなものではない」と信ずるようになった程、その「見識のなさ」では定評のある賞だと言っていいだろう(むろん例外もあるにはある)。

 

 もっとも「世界三大映画祭」などと称されることのあるカンヌやヴェネツィア、ベルリン等の国際映画祭にしても、アカデミー賞に比べて映画マニア度や知識人臭がより強いというだけで、受賞作の選定に「見識」や「センス」があるとはとても思えない恥ずかしい結果を再三繰り返して来たことも確かである。

 要するに映画賞(のみならずあらゆる賞という賞)なるものは、所詮、自分たちの属する業界を商業的に盛り上げようとする「業界人」たちによる「内輪」イヴェントに過ぎず、作品の善し悪しなどよりも、話題性(=商業性)や時代への迎合具合(これまた突き詰めればカネである)が最重視される「プロモーション活動」でしかないと言って良いだろう。

 

 

 むろん映画の良し悪しなどというものも所詮は主観的なもの(要は好き嫌い)でしかなく、従って評価に際しての「絶対的な尺度」といったようなものもあるはずはなく、誰がどんな作品を高く評価しようと(あるいは反対にどれだけ酷評しようと)完全に自由であり、言い換えれば「何でもあり」の世界である。

 しかもこのような高飛車な言葉を次々と並べ立てている私からしてがそもそも単なる市井の一映画好きに過ぎず、そんな無名の私が「最低最悪」だと見做す作品が世の多くの人々から大絶讚され、高く評価されているような例も枚挙に遑なしである。だから以下で私が超駄作だの凡作だのと貶めている作品も、単に私に映画を見る目やセンスがなくその真価を読み取れていないだけなのかも知れないことを断っておきたい。

 従って上記「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」にしても、「最低最悪の大愚作」という私個人の極めて低い評価とは裏腹に、今後も映画史に残る大傑作として評価され、愛され続けていくことも決してありえないとは言えないだろう(もっともそんなことはまずないと心の底から確信してもいるのだが・・・・・・)。

 

 

 ともあれ、この作品1本だけを見て今回のアカデミー賞の結果が余りに馬鹿げたものだと断定するのは軽率過ぎると思った私は、「作品賞」候補として挙げられていた作品をとにかく1本でも多く見てみることにした。なんとなれば、受賞作はその時候補に挙げられた作品の中での相対評価の結果でしかなく、他の候補作が受賞作以上に箸にも棒にもかからない「超愚作」だらけである可能性もないとは言えないからである。

 

 

 とは言え、如何に物好きで暇を持て余している私でも、2時間半を超える長編作品が勢揃いしている(★)候補作を全てを見るだけの気力はなく(そもそも今回「票」を投じたすべての会員たちは、果たして候補作全作を見るだけの時間や気力を持ち合わせていたのだろうか?)、前作を見ていない(これからも見る気はない)「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」と「トップガン マーヴェリック」というシリーズもの2作と、特に好きという程でもないエルヴィス・プレスリーの生涯に基づく伝記映画(そもそも私は伝記映画なるものを面白いと思ったことがほとんどない上、監督のバズ・ラーマンという人が大の苦手でもある)「エルヴィス」は、端から除外することにした。

《★ 他にも同じようなことを言ったり書いたりしている人が少なからずいるが、昨今の映画の上映時間がどんどん長くなっていることは、単に作り手たちの「編集」能力が落ち、なんでもかんでも詰め込まなくては満足できない「自己満足」の結果でしかないとしか思えず、その膨大な数の作品の多くを1時間半ほどの尺に収めているウディ・アレンの慎ましさ/美学は今更ながら極めて貴重である。》

 

 

 以下に順不同で各作品に対する私の評点と簡単な感想を記すことにすると、

 

・「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(2022年)」(ダニエル・クワン / ダニエル・シャイナート監督) 1.0点(IMDb 7.9) インターネットで視聴
 こんな下品でおバカな映画が、(一応)名だたるアカデミー賞で作品賞、監督賞、助演男優賞、助演女優賞、脚本賞、編集賞の7部門を受賞したことはある意味で「画期的」だと言えはするだろうが(いずれ日本でテレビ放映されることになった際、例えば男性器そのものの形状をした「あの物体」にはボカシがかかるのだろうか? あるいは初めから削除されるだけだろうか?)、同時にアカデミー賞というものが「時代と寝る」賞であることがますます明らかになったという意味で、同賞の価値(もともとそんなものは全くないとも言えるが)を根本的に毀損せしめたと言えるだろう。

 オタク的「妄想」満載で傍若無人の限りを尽くしながら、最後はアメリカ的(と同時に東アジア的)な家族・家庭至上主義にあっさり収斂してしまう余りの紋切り型ぶりも実に救いがたい。
 ただし次々と繰り広げられる「トンデモ世界」を考え出した(馬鹿げた)想像力と、それを莫大な予算と手間をかけて映像化した(無意味な)熱意と努力だけは買いたいと思う(よって上記の点数を献上)。
 今更ながら感のあらわな「2001年宇宙の旅」のパロディ(にすらなっていない)などは、ただただ「痛々しい」だけである。



・「フェイブルマンズ(2022年)」(スティーヴン・スピルバーグ監督) 3.5点(IMDb 7.6) インターネットで視聴
 監督のスピルバーグの自伝的作品で、複雑なユダヤ人家庭に育った彼が若くして本格的な8ミリ映画を撮り、やがて映画界に入るようになるまでの過程を、両親とその友人の(三角)関係などに触れながら描き出している。

 映画好きにとっては興味深い内容ではあるものの、プロットや演出は単調かつ平凡で、何よりも主人公がどうしても映画を作りたいと思うようになる熱い思いが余り感じられないのがなんとも物足りない。子供時代に感銘を受けた作品としても冒頭に「地上最大のショウ」(1952年)が出て来るのみで、最後に登場する某有名監督(演じているのも某有名監督)の作品すらロクに引用されることがないのは、複雑な権利関係の問題でもあるせいだろうか(むしろこの有名監督との出会いのような映画関連のエピソードをたくさん見てみたかったのだが)。

 ユダヤ人家庭の様子やユダヤ人差別などの描写も極めて類型的で、ユダヤ人であること自体に対する自己批判や韜晦を含むウディ・アレン作品の複雑さとは到底比べ物にならないのは、良くも悪くもスピルバーグという「優等生」の限界か。

 

 

・「イニシェリン島の精霊(2022年)」(マーティン・マクドナー監督) 3.0点(IMDb 7.8) インターネットで視聴

 「ヒットマンズ・レクイエム」(原題:In Bruges、2008年)、「セブン・サイコパス」(2012年)、「スリー・ビルボード」(原題:Three Billboards Outside Ebbing, Missouri、2017年)と、数年ごとに優れた傑作・佳作を撮り上げて来た劇作家出身の監督マーティン・マクドナーの新作だが、正直今作に関してはどうしてこんな内容を語らねばならなかったのかが理解出来たとは言えず、不完全燃焼感が残るだけだった。

 英蘭条約締結後まもない1923年の、まだところどころで内戦が繰り広げられているアイルランドの(架空の)イニシェリン島が舞台で、まるでギリシャ悲劇でも想起させるような友人2人の突然の決裂と確執とを巡る物語である。しかしある日突然親友に絶交を言い渡し、以後その親友が関係修復を試みるたびに陰惨極まりない行為によって拒絶を示す男の真意は測り難く、彼の口から語られる絶交の理由もどこまで本心なのか分からない。

 深い愛憎によって結びついたこの2人の男たちの関係にはアイルランドと英国の間の厄介な歴史に関する様々な寓意が込められているのだろうが、英蘭史に通じている訳ではない私にはどこまでその寓意が読み取れているか甚だ心もとないと言うしかない。

 狭い空間や価値観にとらわれ、ちっぽけなプライドによって諍いを続けて自滅していく男たちと、そうした狭い土地や価値観ときっぱり決別して新たな生を求めて旅立っていく妹との対比、シェイクスピア劇の「道化」のように鋭い観察眼によってポロリと箴言のような意味深い言葉を発する知恵遅れ(?)の男(とその謎の最期)、精霊と死を巡る言い伝えを再三口にする不気味な老女など、多くを語ることなく謎を秘めた登場人物たちや彼らの織りなす寓意的な物語によって、今作は複雑で深い意味を内包しているように見える(が、単に映画的・文学的なギミックである可能性も完全には否定しきれない)。

 しかし上記のような傑作・佳作を立て続けにものして来た監督だけに単なる思いつきで今作を撮ったとは思えないのだが、私のように英蘭の長く複雑な歴史に詳しくない人間にとってはこの寓意のみで出来上がっているような作品は一筋縄ではいかず、正直掴みどころがないと言うしかない。

 


・「TAR/ター(2022年) 原題:Tár」(トッド・フィールド監督) 2.5点(IMDb 7.5) インターネットで視聴
 世界的な女性指揮者役のケイト・ブランシェットによる演技はいつもながら見事なのだが、今作にはクラシック業界の人物名やエピソードなどがゴシップ的に次々と披瀝され、クラシック音楽自体は好きでも「業界」には詳しくない私のような「非・業界人」には理解出来ないものも少なくない上(クラシック音楽に関心すらない観客であれば、完全に置いてけぼりにされるだけだろう)、内容自体も最近のPC(政治的正しさ)迎合の風潮をそのまま反映した凡庸なものに終始していて、なんとも詰まらない。

 要は、貧しい家庭から世界的な名士にまでのし上がった女性指揮者が、自らの権力を濫用して性的嗜好によって若い音楽家たちを優遇したり干したりすることを繰り返し、やがてその言動が暴露されてあっさり失脚し、精神的にもおかしくなった末にアジアの貧国で指揮の指導をしたりオタク相手のコンサートを指揮するまで没落するという内容で、とどのつまりセクハラ批判の単純な勧善懲悪に終わってしまっているだけと言って良い。

 


・「西部戦線異状なし(2022年)」(エドワード・ベルガー監督) 4.0点(IMDb 7.8) インターネットで視聴

 エーリヒ・マリア・レマルク原作(既読)。
 ロシアのウクライナ侵攻が続く中、まさに時宜を得ていると言って良い典型的な反戦映画で、最前線を舞台としながらユーモラスな挿話も少なくなかった原作がかなり改変されて悲壮感や絶望がより強まり、少ない台詞と迫真の戦闘場面、重厚な音楽(ただし個人的には大仰過ぎて余り好みではない)等によって作り出される息詰まるような緊迫感に満ちた映像表現はとにかく見事と言うしかない(私の大好きな原作冒頭の食事配給のエピソードが描かれていないのは大いに残念なのだが・・・・・・)。
 映画(やその評価)が同時代の社会情勢を反映したものでなければならないなどということは全くないものの(むしろそれとは無関係であるべきだとすら思っている)、峻烈なまでの厳しさと禁欲さとに貫かれた今作のような戦争映画の傑作が、英国アカデミー賞(BAFTA賞)では作品賞や監督賞を受賞しながら、大西洋を隔てた米国アカデミー賞では「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」というオタク的妄想に満ちた能天気で下品極まりないお○○作品の軍門に降ったことは、英国とアメリカという国(民)のウクライナ侵攻を始めとする戦争というものに対する決定的な意識の違いを反映していると言えるかも知れないし、「見識」や「映画的センス」のなさでは昔から定評のある米国アカデミー賞が改めて「救い難いまでにお○○な祭典」であることを再確認することになったとも言える(私個人の中では今回の愚挙によって米国アカデミー賞は完全に終焉を迎えたと言って良い。さらば、アカデミー賞)。
 私は「映画は映画館でこそ見るべき」というような物言いや考え方が大嫌いなのだが(どこでどんな画質で見ようが「優れた作品」は優れているのだという考え)、今作はPCやテレビでの視聴を基本とするNetflix作品ではあるものの、こういう作品こそ映画館で見た方がその醍醐味を十全に味わえるのかも知れない。

 その一方で、企画が通れば莫大な予算を与えてくれる上、かなり自由に撮らせてくれるというNetflixでなかったなら、このような作品は端から作られなかったかも知れないのも確かだろう。

 

 

 

 今回のアカデミー賞とは直接関係ないものの、上記「西部戦線異状なし」の最初の映画化作品も見直してみた。

 

・「西部戦線異状なし(1930年)」(ルイス・マイルストン監督) 3.5点(IMDb 8.1) 日本版DVDで再見(ただし廉価版DVDのせいか、フランス人女性たちとの交流の場面に一部省略があるようで、インターネットで当該部分だけを見直した)

 第一次世界大戦終結の約10年後、第二次世界大戦勃発まで約10年を残した時期に撮られた作品で、当時は第一次大戦の記憶が徐々に薄れつつある一方、第二次大戦の予兆もまだ感得されてはいなかった頃だろうか。そしてこのような映画を作り、見た後でも、人間は結局程なくしてより激しい戦争へと再び突入していった訳である。

 今から90年以上前の作品にしては戦闘シーンにも迫力があり、撮影や演出も見事ではあるが、全体的な演技や台詞回しが演劇的過ぎていささか不自然なのが難点か(主人公も実績ある俳優でないせいか演技が拙い)。

 また結末がやや駆け足なことと、一介の無名兵士の死などは戦場において少しも「異状」ではないという「西部戦線異状なし」という言葉が最後まで登場しないのも、せっかくの名作に画竜点睛を欠く結果となってしまっている。

 

 

・「逆転のトライアングル(2022年) 原題:Triangle of Sadness」(リューベン・オストルンド監督) 3.5点(IMDb 7.4) インターネットで視聴

 全体に好みの作風ではないし、冒頭のファッション・モデルのエピソードや食事代を巡るカップルの諍いシーンなどは冗長で退屈さえあるものの、後半の過激なまでに挑発的な(さらに時として醜悪下劣で)ブラック・ユーモアには否応なしに惹き込まれてしまった。おそらく「大衆受け」する内容ではないだろうが、批評家や根っからの映画好きには支持される「怪作」だろう。

 前作「ザ・スクエア 思いやりの聖域」にはやや懐疑的だったものの、今作を見てスウェーデン出身のこの監督が並々ならぬ力量の持ち主であることがはっきり分かり、次作も大いに期待出来そうである。

 

 

・「バビロン(2022年)」(デイミアン・チャゼル監督) 1.5点(IMDb 7.2) インターネットで視聴

 今作はアカデミー賞作品賞候補作ではないが、話題になっていたのでついでに見てみた。

 「雨に唄えば」(1952年)同様、サイレントからトーキーへと移行しつつあるハリウッド映画界のドタバタを描いた作品で、大して魅力的な内容がある訳でもないにもかかわらず3時間超という長さに数々のエピソードが詰め込まれている弛緩した作りで、見終えた後も何のカタルシスも訪れては来ない(むしろつまらない感傷によって無理やり締めくくられていて脱力させられるだけである)。

 冒頭における象の排泄場面以降、とにかくお下劣で汚らしい場面が次々登場するのも作り手の意図が全く汲み取れないのだが(どういう訳か今回の候補作には偶然のようにして排泄や嘔吐などの場面がやたらと登場するのが不思議でならない)、それだけ「ハリウッド」なる業界が醜悪で穢れきっていることを示したかったのだろうか。

 女主人公が破滅的な行動を繰り返す理由もはっきりせず(単にカネと欲望にまみれたインテリ気取りの映画人/業界人たちへの反撥か?)、彼女がこしらえた大きな借金を巡る後半のエピソードも放りっぱなしで現実なのか幻想なのか分からない取っ散らかりぶりでなんとも頂けない。

 

 

・「ウーマン・トーキング 私たちの選択(2022年)」(サラ・ポーリー監督) 2.0点(IMDb 6.9) インターネットで視聴

 これまた「政治的に正しい」作品なのだろうが、絶対的な神や男たち(の性や暴力)による支配や従属関係からの解放と自由、そうした支配に抗うべきか逃げるべきか、信仰者として他者の罪は赦すべきか否かといった議論が延々と映し出されるだけの今作は正直映画的面白みに欠け、またその描き方にしても余りにも優等生過ぎて、あえてフィクションとして描く意義がどこにあるのかよく分からない。

 映像や音楽は美しいし(ただしさすがにザ・モンキーズの「Daydream Believer」の使用は作品の雰囲気と全く合っていない)、リズミカルで意味深い台詞の数々も素晴らしいのだが、「正しさ」や「大義」によって彩られている今作のような「善良」で退屈極まりない作品は二度と見返すことがないだろう。

 

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 という訳で作品賞候補10作のうち7作(+1作)を見た限り、個人的に見るに値すると思われた作品は「西部戦線異状なし」と「逆転のトライアングル」、「フェイブルマンズ」の3作のみで(次点で「イニシェリン島の精霊」)、今回のアカデミー賞を席捲した「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」は微塵も見る価値のない天下の大愚作でしかなかった。

 要するに「白人(男性)優位主義」が問題視されているハリウッド映画界で、「パラサイト」(2019年)や「ドライブ・マイ・カー」(2021年)に続いてアジア系(今回は中国系)に配慮した結果と言って良く(あるいは中国資本や中国系観客へのおもねり)、映画そのものの出来とほとんど関係なく「政治的」に受賞作が選ばれる「忖度」まみれの映画賞として、アカデミー賞は完全に終焉を迎えたと言っても過言ではない(と単なる一映画好きに過ぎない私は愚考した次第である)。RIP.