2022年5月31日(火)

 個人的な備忘読書記録の続き。

 

・川端康成「雪国」(岩波文庫版)      

 しばらく前に1965年公開の映画版(主人公は木村功、駒子は岩下志麻、葉子は加賀まりこ)を見たので、ついでに原作を読み返してみることにした(1957年公開版もそのうち見てみるつもりである。こちらは主人公役は池部良、駒子は岸惠子、葉子は八千草薫)。

 初読時も曖昧で微妙な表現の多さにかなり手こずった記憶があるのだが、内容自体はシンプルで他愛ない痴情話でしかないものの(筋立てだけからすれば渡辺淳一のエロ小説と大差ない)、改めて読み直してもすんなり理解しがたい思わせぶりな表現が多く、意味を掴みかねて立ち止まってしまうことが幾度となくあった。

 まさに「新感覚派」川端康成の面目躍如とも言えるのだが、有名な冒頭部を英訳するにあたって訳者サイデンステッカーが如何に原文を自分なりに咀嚼して理解しやすい表現に改めたかという挿話を思い出しながら(★)、原文の日本語で読んでもなかなか理解の立ち行かないこの作品を外国語に訳すのはさぞ厄介だったろうと気の毒に思ったものである。

《★こう書いた後、「qfwfqの水に流して Una pietra sopra」というブログで「雪国」の翻訳に関する記事を見つけて大変面白く読んだので、以下に紹介しておくことにする。

 ただし私が「雪国」自体を再読したのは半年以上前のことで、読み直そうと思ったことと、以下のブログで触れられているNHKドラマ(未見)や川端の歿後50年とは全く関係がない。

 

「あんなこと」や「こんなこと」――川端康成『雪国』について

 https://qfwfq.hatenablog.com/entry/2022/05/01/143457

 black and white in the mirror――川端康成『雪国』について(その2)

 https://qfwfq.hatenablog.com/entry/2022/05/08/194603

『雪国』裏ヴァージョン――川端康成『雪国』について(その3)

 https://qfwfq.hatenablog.com/entry/2022/05/15/114543

 

 

・福永武彦「草の花」(新潮文庫版)   

 堀辰雄作品のような甘ったるいサナトリウム小説を想像し、食わず嫌いでこれまで読まずに来たのだが、Kindle版の福永武彦電子全集を何冊かまとめて買い込んだことから、まずは最も有名な今作から読んでみることにした。

 内容的には想像通りと言っても決して間違いではなく(ただし作品の中心にあるのは、むしろ主人公がサナトリウムにやって来る前に経験した過去の出来事である)、主人公がたびたび口にする「孤独」なるものにしても一見青臭く大仰に思えなくもないものの、散文詩のように読むものの想像力を掻き立てる緊密・怜悧な文体で語られる内容は厳しい自己省察に満ちていて、自ずとこちらも襟を正して読まざるをえなくなる程である。

 若かった頃に読んでいたらどっぷり惑溺していたかも知れないが、もはや内省的な懊悩だの人間の根源的孤独といった言葉が虚しいものとしか思えない中年オヤジが読んでみても、彫心鏤骨という言葉がふさわしい濃密精緻な文章や間然するところない構成の妙、安直軽薄な感傷や情緒に陥ることのない厳しい創作態度等がひしひしと実感される。

 主人公が男子学生やその妹に「愛」なるものを抱いたことは、彼ら自身もそう感じ取っていたように、主人公の希求する「絶対的な愛」を投影する「対象」としてでしかなかっただろうし、そうした峻厳一途な愛を追求していけばいくだけその対象からも乖離し、孤独に陥らざるをえなくなることも自明である(彼自身も当然そのことは自覚していて、思慕を寄せている友人の妹とも「決定的な関係」を持てぬまま終わることになる)。

 しかし主人公の生来の潔癖や激しい理想主義がそうした愛の突き詰め方を自ずと要請したのであって、最終的に禁欲的孤独の中で消極的な自死とも取れるような危ない手術を受ける「賭け」に挑んだことも主人公にとっては必然であり宿命だったと言ってもいいだろう。所詮人は、たとえそれが拙劣で結局は自分を貶め&否定するだけのものだとしても、ただ自らにふさわしい方法によって生き、死んでいくしかないのである。

 

 

・半村良「石の血脈」(祥伝社文庫Kindle版)    

 確か中学生の時に体育館で行われた「バザー」でこの本(単行本)を見つけ、タダのような値段で買った記憶があるのだが、子供の頃は好きでなかった読書にまださほど慣れていなかったこともあり、結局最初の何ページかを眺めただけで積ん読に終わった(いつしか本もどこかに行ってしまった)。

 それから40数年たってようやく読了したのだが、中学生の時に最後まで目で文字を追ってみたとしてもおそらく十全には理解できなかっただろう(やたら多い性描写もピンと来なかったに違いない)。

 伝奇小説の名作ということで大いに期待して読んだのだが、古代文明や巨石信仰、吸血鬼や狼男伝説などに関する作者の蘊蓄は確かに刺激的で興味深いものの、作品自体は雑誌「ムー」にでも載っていそうな妄想話に「エロ」要素をまぶしたような内容で、暇つぶし用の娯楽作品以上ではなかった。

 

 

 

・ロバート・A・ハインライン「夏への扉」(ハヤカワ文庫Kindle版) 福島正実訳(上の画像は左=1枚目が旧版、右=2枚目が新版。今回の電子版の表紙は後者なのだが、昔から馴染みのある前者により愛着がある)

 昔から気にはなっていたものの(日本にも古い文庫版が置いてある)、結局今まで読まずに来たSF小説の金字塔(?)的存在である。あとがきによれば、今作は本国アメリカのSF好きの間では「ジュヴナイル」的な位置づけで一段低く見られているらしく人気がないらしい。

 とにかく面白くスルスル読め(と言って子供向けのテキトーな内容という訳ではなく、巨匠ロバート・A・ハインラインの名に恥じない結構複雑な作りになっている)、昔から日本のSF好きたちから愛読されて来たことも十分理解できるのだが、ご都合主義的な点が結構あることは措いておくとして、(結末で語り手があれこれ苦しい説明をしてはいるものの)タイムマシンで過去に戻った場合、同時に2人の人間が存在する状況が否応なく生じ、そこからどうやって再びある時点で1人の人間に収斂していくかという根本的な疑念を最後まで払拭しきれず(以下ネタバレ注意。特に今作の場合には、過去に戻った人間がそのまま過去に留まるという設定なので余計そう思うしかない)、もやもやと割り切れない気持ちが残ったことは否定出来ない。

 今作は若い頃に読んでおくべき(年をとってから読んでも楽しめない)作品とよく言われるのだが、50代半ばのオッサンが読んでもそれなりに楽しめたし、上記の「もやもや」は子供の頃に読んだとしてもすんなり納得することは出来なかっただろう。

 前半部で語られる現在の記述(時間移動で戻った過去からすれば将来の記述)によって結末が自ずと読めてしまうのも、タイムマシンで過去に遡っていく形式としては致し方ないのかも知れないが、そうした既視感ただよう「予定調和的」な流れを回避出来なかったのだろうかとも思う(むしろ過去の記述は「伏線」と見做すべきなのだろうか?)。

 それにしても、到底許しがたいような嫌がらせを受けながらも、その人間に対する復讐をあっさり諦めてしまう根っからの善人=主人公の人物造型は非現実的にも思えてしまうのだが、人並み外れた善人だからこそ最終的に幸福をつかめるのだという一種の教訓になっているのだろうか。その意味でも、今作はやはり若い読者向けの道徳的(?)ファンタジーなのかも知れない。

 

 

・「夏への扉 -キミのいる未来へ-(2021年)」(三木孝浩監督) 1.5点(IMDb 6.3) インターネットで視聴

 原作のあらすじをざっくり借り、さらに時間節約のために「ピート」という説明役アンドロイドを追加し、非常な駆け足で作り上げた安直な「テレビ・ドラマ」レベルの作品である。演出や撮影にしても音楽にしても陳腐&月並みで、主題歌がBGMとして流れるクライマックス(ついでにスローモーションの多用)という昨今の日本映画の最も救いがたい凡庸さを集結させた感がある。

 「世界初」の映画化とうたいながら結果的に最悪と言っていい成果物が出来上がっただけで、せっかくの名作にとっては恥ずべき汚点でしかないだろう。主人公役に美男美女を配したのも興行的には仕方ないかも知れないが、原作のややしょぼくれた登場人物像とは大いに乖離していて、駄目な日本映画らしい甘々で見るに耐えない恋愛映画となってしまっている。

 

 

・筒井康隆「大いなる助走」(文春文庫Kindle版)

 再読。確か最初に読んだきっかけは、大岡昇平が「成城だより」で今作を評価していたからで(大岡は文庫版の解説も書いているがKindle版には収録されておらず、またその内容も全く覚えていない)、当時は余りに戯画的な筆致や内容に違和感を覚えたものの(そのくせもっと戯画的な筒井康隆のショートショートや短編などは愛読していたのだが)、面白く読んだことは確かである

 今回Kindle版がセールで安くなっているのを機に数十年ぶりに再読してみたが、初読時に覚えたような違和感は感ずることなく、しばらく前に映画を見直したことも手伝い、面白く一気に読み通してしまった。

 今作で描かれている文学系の同人誌文化はとうに衰退し、今や60~70代くらいのかつての文学少年/文学少女たちを中心にかろうじて続けられているだけで、今では漫画やアニメの同人誌が似たような末期的状況を迎えているところかも知れない(もっとも今作で戯画化されている自慰的なディレッタンティズムのようなものは漫画やアニメ界には存在しないだろう、と思う)。

 

 

・「文学賞殺人事件 大いなる助走(1989年)」(鈴木則文監督) 3.0点(IMDb 6.2) 日本版DVDで再見

 原作を読み直してから改めて映画も見直してみた。

 映画向けに改変してある箇所もあるにはあるもののおおむね忠実な映画化で、原作にも劣らない痛快さに満ちたドタバタのブラック・コメディになっていて、鈴木則文らしいお色気シーンもそれなりにあるが(中島はるみや泉じゅん、当時は新人モデルで今ではなんと高中正義夫人となっている甲斐えつ子など)、決して下品には堕していない。

 若かった佐藤浩市を、汚れ役も辞さない梅津栄や小松方正、石橋蓮司らの個性あふれる名優・迷優たちがしっかり脇固めをしている(原作者の筒井康隆の他、作家の胡桃沢耕史や団鬼六もカメオ出演している)。
 

 

・吉村昭「密会」(講談社文庫Kindle版)        

 中平康監督による映画「密会」(1959年)の原作を含む短編小説集。

 表題作は映画と比較しても極めて短く、筆致も淡々としていて呆気ない。表題作以外の作品にもこれと言った特徴はなく、結末らしい結末のないものすらあるのだが、余韻や余白があるとも、物足りないとも言えるものである。初期作品ということもあり、今村昌平監督の映画「うなぎ」(1997年)の原作を含む「海馬」などと比べると作品としての密度や強度が低く、突出するもののない凡庸な短編集と言うしかない。

 

 

・高木彬光「白昼の死角」(光文社文庫Kindle版)

 昔テレビ・ドラマ版や映画版を見て結構好きな作品だったのだが、その後買い求めた分厚い原作本は途中で頓挫したまま、数十年が過ぎてしまった。

 今回ようやく通読してはみたものの、エピソードが次々と羅列されているだけでドラマや映画以上の出来とも思えず、「ピカレスク・ロマン」的な面白さはあるものの、戦後まもない混沌たる時代が産み出した「悪」の本質が巧みに描出されているとまでは思えなかった。

 今作同様「光クラブ」をモデルとする三島由紀夫の「青の時代」も積ん読のままなので、日本に帰省したら今作と比較しつつ読んでみたいと思っている。

 

 

・「白昼の死角(1979年)」(村川透監督) 2.5点(IMDb 6.9) 日本版DVDで再見

 原作読了後に映画版も見直してみたのだが、「尺」の関係か、「前日譚」の「太陽クラブ」に関する挿話がかなりバッサリ割愛されていて、クラブ代表者・隅田光一役の岸田森が冒頭部にちょっとと、最後の「ちんどん屋」の場面に他の「死者」たちと再登場するだけなのも、この怪優の使い方としては実にもったいない。

 テレビ業界出身の村川透の限界か、千葉真一軍団(?)の登場場面などで演技や音楽等がひどく安っぽいテレビ・ドラマのようになってしまっていて、せっかく面白い題材もすっかり台無しである。

 どうでも良いことだが、主演の夏八木勲は仏文出身(ただし中退)にもかかわらず、劇中で口ずさむシャンソン「Sous les toits de Paris」は発音が余りに下手くそで聞けたものではなく、英語はかなり達者らしいものの、仏語の方は大学でちゃんと勉強しなかったようである。

 

 

・ジェローム・K・ジェローム「ボートの三人男~もちろん犬も~」(光文社古典新訳文庫Kindle版、小山太一訳)

 世評の高い丸谷才一訳(中公文庫版)はきっと名訳ではあるのだろうが、これまで何度も挑戦しながら途中で挫折してしまった。今回この新訳で読んでみてようやく最後まで読了できたのだが、特に最初の方は個人的な思い入れもあるテムズ河が舞台となっていることもあって、英国らしいユーモア小説として面白く読める。

 しかしロンドン中心部を外れるあたりからユーモアのパターンがマンネリ化しだし、訳者の解説によれば、もともと作者のジェローム・K・ジェロームはユーモア小説を書くつもりはなく、テムズ河の景観と歴史に関する真面目な作品を書こうとしていたそうで、テムズ河畔の風景等を描いた美文調の文章が相当部分を占めていたらしい。

 最終的に編集者の英断でその大半が削除されたそうなのだが、装飾過多な文章は現行版にもかなり残っていて、文体的に凝ってはいるものの所詮レトリックの域を出ない冗漫な描写はただただ退屈でしかない。

 小山太一の訳文は自然で読みやすく、丸谷訳と比較してどちらが良いかは個人の好みの問題でしかなさそうなのだが、宮殿の「Hampton Court」を「ハムトン・コート」と表記するのなどはただ奇を衒っているように思えなくもない。実際、英国でも「ハンプトン・コート」と「P」音を発音する人も少なくなく(むしろアメリカ人の方が「P」音を省略する傾向があるようである)、日本で一般に流布して来た「ハンプトン・コート」で良かったのではないだろうか(ただし「犬は勘定に入れません」という副題が厳密には誤訳であることなどが解説されている点など、新たに訳されただけの意義はあるだろう)。

 犬好きとしては「モンモランシー」がほとんど話の添え物でしかなく、大して活躍しない点も残念でならない。

 

 

・ジュール・ヴェルヌ「八十日間世界一周」(角川文庫版)

 特に理由もなく未読のジュール・ヴェルヌ作品を読んでみた(いずれ近いうちに「海底二万里」も再読予定)。

 おそらく最も有名なヴェルヌ作品のひとつだが、正直なところ可もなく不可もなしと言うしかない。わずか80日間で世界一周旅行をなし遂げると宣言し、社交クラブの会員相手に全財産2万ポンドを賭けてロンドンを旅立った謎の英国人紳士フィリアス・フォッグが、雇ったばかりの下男パスパルトゥーを連れて次々と起きるトラブルを切り抜けて行くという内容で、フォッグの過去の行状に疑惑を抱くロンドン警視庁のフィックスが執拗に彼らのあとをつけ、その旅程を邪魔しようとする。

 結末にはちょっとした「どんでん返し」が用意されてもいて、昔ながらの単純明快な冒険譚として読めばそれなりに楽しめるものの、主人公のフォッグが途中で寄港する土地土地の文化や歴史に端から興味も持たず、単に限られた時間内に世界一周を成し遂げることだけに固執するのも、せっかくの旅行小説なのにひどく味気ない。

 読了後、1956年公開の映画版(マイケル・アンダーソン監督)も少しだけ見てみたのだが、パスパルトゥーが怪しいスペイン人に変更されてしまっているなど、原作のイメージとかなり乖離していて楽しめず早々に挫折した(そんな作品が「ジャイアンツ」等を抑えてアカデミー作品賞や脚色賞を受賞しており(有名な主題曲だけはもはやスタンダードでさすがに悪くないが→https://www.youtube.com/watch?v=EALCI-DK7Ow)、やはり映画賞などは全く当てにならないという思いを強くしただけである。

 

 

・シルヴィア・プラス「ベル・ジャー」(河出書房新社)

 アメリカの閨秀詩人シルヴィア・プラス唯一の小説で、今作完成後の翌年に幼い子供2人を残してオーヴンに首を突っ込んで自殺してしまったことで、むしろ死後に大きな注目を浴びるようになった作品である(今では学校の教科書にも採用されているそうである)。

 自伝的な小説であり、若くして文学的才能を開花させて注目を浴び始めるのと並行し、もともと不安定だった彼女の精神は徐々に病み始め、結局自殺を試みて危うく死にかける(地下室の隙間に倒れたまま瀕死状態に陥った彼女は、その後1週間ほど発見されなかったものの、何とか助かった)。

 やむなく精神病院に入院させられるのだが、当時としては珍しくなかったショック療法やロボトミー術が行われていることを知ると、自ら実験例になるのを怖れて拒否し続けるものの、症状に改善が見られないことから、最終的には信頼を寄せている女医に説得されてショック療法を受けることになる。

 文学的才能に恵まれた若者らしい傲慢さや残酷さも率直に記される一方、友人の医学生に無理やり頼みこんで解剖遺体や胎児の標本などを見て回る場面などもあり、かなり早い時期からわざわざ自分を傷つけたり精神的に追い込むような傾向があったのではないかとも思われ、読んでいて痛々しいだけである。

 長年にわたって精神的葛藤に苦しみ、症状改善に大して役立つことのなかった入院生活や治療に明け暮れたあげく、必然的終着点だったかのように自ら命を断つ結末に至ったことを思うと、読後感もただただ重苦しくやり切れない。

 

 と、今日もここで息切れしてしまったため、続きは月をまたいで次回以降に。