2020年4月20日(月)

 その後日本では緊急事態宣言が当初の7都府県から全国へと拡大適用された。しかし国がこの宣言によって目標としている8割の「接触削減」と実態との乖離はまだまだ大きく、感染者増大の勢いもなかなか収まっていないのが実状である。

 国をあげて(?)の「緊急事態」にも、未だに商店街などには人があふれ、通勤電車も時間帯によっては依然すし詰め状態だという報道もあり、今のままでは早晩医療崩壊を招いて欧米のような状況になりかねないという見方もある。

 

 一方ここ韓国では、コロナ対策が評価されて政権与党の圧勝に終わった総選挙の後も、今のところ新規感染者は10人台(昨日はわずか8名と1桁台にまで下がった)と落ち着いており、新型コロナウイルスの感染は「収束」しつつあると言っていい(もっとも私は未だに半信半疑なのだが・・・・・・)。

 しかし政府や自治体ではこのところの市民の緊張感の欠如や、先のキリスト教の復活祭に人の移動が多く見られたことなどから感染拡大「第2波」を警戒しており、「社会的距離の確保」(social distancing。日本では「social」を「社会的」と訳すのは間違いで、「社交的」か、より分かりやすく「互いに距離を置くこと」などと訳すべきという意見もある)を、一部緩和しつつも5月5日まで延長することを決定した。

 ついでに韓国メディアはどうかと言えば、まるで競争でもするかのように日本の感染者数が韓国を上回ったことや、日本政府の失策ぶりを相変わらず嬉々として報じ、自国の「優位性」を誇示し続けている。いつもながらの「お約束」とは言え、まったくやれやれである。やはり○○は・・・・・・(省略)である。

  

 

 近所の河畔はこの週末も全面閉鎖措置が続けられ、そうでなくても川沿いの桜がすっかり散ってしまったこともあり、先週と比べても周辺を散策する人の数はグッと減ってひどく閑散としていた。

 私はいつもの散歩ルートを反対にとってソウル市の南端まで歩いて行き、閉鎖区域外にある場所から川べりの散策路に降り(上の写真)、そこからソウル市内に戻るようにして閉鎖区域の端まで歩いてみることにした。

 私以外にも自転車に乗った親子連れや近所の山に登って来たらしい人たちの姿を見かけたが、そこから歩いて10分もしないうちに閉鎖区域に行き当たってしまい、結局元の道を引き返して来るしかないようだった。

 閉鎖区域の端っこの様子は以下の通り。

 

 「週末 ○○川 お出かけ計画は安全のため少し後回ししてください!―住民皆さんの積極的な協力お願い差し上げます―。《統制区間》〇〇川全区間」(あえて直訳のまま)

  暇そうな監視員。横断幕は上と同じ 

  橋(黄色いテープ)から左側が閉鎖区域。右側にはソウル市の南端へ向かって散策路が伸びている。

  これは閉鎖区域の様子

  こちらも上から少し先の閉鎖区域

 

 私もここから元来た道を戻っていくしかないかと思っていたのだが、下の写真の右端に写っている坂道はいつも通り開放されており、ここを(こちら側に向かって)昇って、さらにその右脇にある通路を再び向こう側に進んでいけば、橋向こうに見えるトンネル(?)の上から対岸に渡って、写真左側の(上下2本あるうちの上の)散策路まで歩いて行けるようになっていた(写真の左端中央部に左右に伸びる生け垣の前がその散策路)。

 


 

 その散策路もすぐにテープで遮られて閉鎖区域になってしまうのだが、その手前の生垣には以前から私もたまに使っている抜け道があり、そこを通っていけば隣接するフラワー・マーケットに出られるようになっている。つまり、元来た道をふたたび引き返すことなく、私の住んでいる界隈近くにほぼそのまま通り抜けられる訳である。


  この写真は上の写真の対岸

  閉鎖区域(左側)と非閉鎖区域(右側)の境目。左端に見えるのがソウル南端へと向かうトンネル

  生垣の途中にある抜け道

  抜け道の反対側(フラワー・マーケットの敷地から川べりの散策路を見ている)

  散策路から抜け道を通り抜けたところ(黄色いテープが少し見えるのが上の抜け道)

  この細い道を抜けていくとフラワー・マーケットの敷地に出る

 

 結局この日はこのままフラワー・マーケットに出、近所のスーパーで食料品を買って家に戻ったのだが、川べりが開放されている平日と比べると距離にして半分ほどの散歩だった。「社会的距離置き」の一部緩和によって川べりの閉鎖の取り扱いはどうなるのか、今週末にまた川べり周辺を偵察(散策)して確かめてみたいと思っているところである。

 

 いつもながらついでで何だが、訃報を1件。

 

 

 アメリカの俳優ブライアン・デネヒー(15日死去。享年満81歳)。

 主演級の俳優ではないものの、一度目にしたらなかなか忘れられないコワモテと演技とで、正直今回の訃報に接しても名前もうろ覚えで、一体どの映画やドラマに出ていたかもすぐに思いつかなかったのだが、その顔だけははっきり記憶していた。

 有名どころでは映画「ランボー」(原題:First Blood。1982年)や「コクーン」(1985年)、「ロミオ+ジュリエット」(1996年)などに出演しているらしいのだが、私はいずれの映画もまともに見ておらず、一番よく覚えているのはこの人が珍しく(?)主役を演じた、奇才ピーター・グリナウェイ監督の「建築家の腹」(1987年)である(もっとも30年以上前に劇場で一度見ただけなので、映画の記憶はかなり薄れてしまっているのだが・・・・・・。どういう訳かピーター・グリナウェイ作品はDVDなどもソフトも高値のままでレンタルの対象にもならず、なかなか再見する機会がないのである)。

 故人の死を悼み、冥福を祈りたい。

 (参考)英ガーディアンの追悼記事→https://www.theguardian.com/film/2020/apr/16/brian-dennehy-actor-dies-aged-81

 

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 この間に読んだ本は、

 

・村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(全3巻、新潮文庫版)再読

 当初この作品は第2部までが一遍に刊行され、当時はそれで完結とされていた(はずである)。

 しかし刊行後すぐに第3部が出るという噂が流れ、1年数ヶ月後には本当に第3部が出版となり、今度こそ最終的に完結した訳だが、当初は作者も第2部で終わりと考えていたそうで、作中に提示される「謎」をほとんど解決せぬまま放置して終わらせる趣向は作者の意図したものだったそうである。

 このあたりの経緯については作者本人による「メイキング・オブ・『ねじまき鳥クロニクル』」という文章が文芸誌『新潮』の1995年11月号に掲載されており、以下のサイトでその内容を読むことが出来るので、興味ある方は参照されたい(http://tsfc501.blog66.fc2.com/blog-entry-2695.html 記事の上下にある「Next」部分を押して次ページに進むと続きが読めます)。 

 

 刊行後すぐこの作品を読んだ時にもそう思ったものだが、今回改めて読み直してみても、もし第2部で完結だとすると何とも中途半端な内容で、作品をまともに評価すること自体を躊躇しただろう。戦時の満蒙国境を舞台とする間宮中尉のエピソードや、主人公が迷い込む路地や井戸の描写などは、村上作品の中でも傑出したものだと言っていいが、しかしそれはあくまでも作品のパーツでしかなく、そのまま全体の評価には結びつきはしない。

 むしろ冒頭の猫の失踪を手始めとして、語り手の「岡田亨」を次々と見舞う不可思議な出来事の数々、予知能力を持つ老人・本田さんやマルタにクレタというふざけた名前を持つ加納姉妹、路地で出会った女子高生・笠原メイなど、謎めいた登場人物たちの出自や正体もほとんど明らかにされず、そうして謎を謎のまま放置するのがたとえ作者の意図だったとしても、そうした曖昧な結末を「開かれたもの」として肯定的に捉えることは難しく、大風呂敷を広げて収拾がつかなくなったゆえの未完成品だという印象を抱かざるをえなかった(第2部の最後で語り手の妻に関する謎がひとつだけ明かされはするのだが、最初に読んだ時も「これだけの枚数を費やして明かされるのはたったこれだけか?」と愕然としたのを覚えている(そのこともあって、なぜ誰の目にも中途半端としか思えない第2部で作者が今作を完結したと「思えた」のかがむしろ知りたくなった程である)。

 

 もっとも第3部を読み終えた後も、作中の謎が完全に解明される訳ではなく、それまでバラバラに描かれた挿話や人物、時空間の間に何らかの相互関係がある(らしい)ことが暗示されるだけだと言っていい。にもかかわらず、後に「1Q84」にも再登場することになる「牛河」なる醜悪で不気味な(しかし同時に読み手に嫌悪感を催させる程生々しい)人物の登場が、戦場の場面などを除けば不出来なファンタジー作品のように非現実的で説得力を欠いていたこの作品に、ある種のリアリティ(人間臭さ)が加わったことは間違いなく、全体的に冗長であることは否定できないものの、今作に村上春樹の代表作とするに足るだけの奥行きや深みをもたらす上で大きな役目を果たしたことは間違いない(反対に言えば、第3部なくしては今作はただの失敗した実験作として終わっていただろう)。

 

 泉鏡花や安部公房(あるいは漱石や内田百閒の一部の作品)などを例外として、長らくリアリズム重視で来た日本近現代文学の伝統から、「羊をめぐる冒険」以降の村上春樹のファンタスティックな作風には未だに拒絶反応を持つ読者も少なくないようだが、今作は作者が「ノルウェイの森」などで追求したリアリズムと、現実と非現実の境界が不分明な(「羊をめぐる冒険」などの)作品群とが巧みに融合し、人間存在の底知れぬ闇や悪への示唆にも満ちた複合的な内容となっている(その意味では作者が目指しているという「綜合小説」に最も近づき得た作品だと言っていいだろう)。

 しかもキャロルの「アリス」以来の、「落下」によって異界に入り込んでしまう冒頭部から、第3部の終わりに至るまで、まさに巻を措く能わずのリーダビリティも備えており、(第2部までの)刊行当時には中途半端な失敗作だと決めつけて再読することもなかった本作は、しかしその「完成形」を改めて通読してみると、村上春樹の代表作とするに躊躇しない豊饒さを備えていると言っていい(一方で、コアなファンからの評価が極めて高い「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は、佳作ではあると思うものの私はさほど評価していない)。

 

(後日追記)

 書き忘れたのだが、今作には「人は島嶼(トウショ)にあらず」という言葉が何度か引用される。この言葉が誰のものかという説明が作中にあったかどうかは不確かなのだが、今作を読み終えてすぐに、たまたまヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」を手にとる機会があり(もっとも未だにこの作品は未読のままである)、そのエピグラフにまさにこの一節を含むジョン・ダンの詩が掲げられていた。これぞユングの「シンクロニシティ」かと思ったものだが、ともあれこの言葉の出典元が偶然にして分かった訳である。

 ちなみに「誰がために鐘は鳴る」での引用を全文掲げておくと、

《なんぴとも一島嶼(とうしょ)にてはあらず

 なんぴともみずからにして全きはなし

 ひとはみな大陸(くが)の一塊(ひとくれ)

 本土のひとひら そのひとひらの土塊(つちくれ)を

 波のきたりて洗いゆけば

 洗われしだけ欧州の土の失(う)せるは

 さながらに岬(みさき)の失せるなり

 汝(な)が友どちや汝(なれ)みずからの荘園(その)の失せるなり

 なんぴとのみまかりゆくもこれに似て

 みずからを殺(そ)ぐにひとし

 そはわれもまた人類の一部なれば

 ゆえに問うなかれ

 誰(た)がために鐘は鳴るやと

 そは汝(な)がために鳴るなれば》

  
 また今作にはモーツァルトのオペラ「魔笛」への言及があるが、私が村上春樹の作品を読んでいてこのオペラを思い浮かべたのは後の「1Q84」であり、既に今作を書いている時点で、村上春樹は自分なりの「魔笛」をいつか書こうと考えていたのかも知れないと(今更ながら)思ったものである。

 

 この間に見た映画は、

 

・「七年目の浮気 (1955年) 原題:The Seven Year Itch」(ビリー・ワイルダー監督) 2.5点(IMDb 7.1) 日本版DVDで再見

 アメリカ版「男はつらいよ」。能天気なまでに開けすけで無邪気なモンローは相変わらず魅力的だが、物語はひどく単純/単調で、主人公の中年妄想男を演ずるトム・イーウェルの、どこが面白いのだかちっとも理解できないわざとらしい演技にも辟易させられるだけである。

 

・「ディボース・ショウ(2003年) 原題:Intolerable Cruelty」(ジョエル・コーエン監督) 3.5点(IMDb 6.2) 日本版DVDで視聴

 軽妙洒脱なアメリカン・コメディ。コーエン作品にしては物足りなさもあるものの、肩の力を抜いて気楽に見るにはそれなりに面白い。

 

・「火事だよ! カワイ子ちゃん(1967年) 原題:Hoří, má panenko(火事だ、お嬢さん)」(ミロス・フォアマン監督) 3.0点(IMDb 7.5) 日本版DVDで視聴

 後に「カッコーの巣の上で」(1975年)や「アマデウス」(1984年)といった傑作をモノすることになるミロス・フォアマンの初期作品で、卑猥で融通のきかない老人だらけのチェコの消防団が(なぜか)主催する「ミス・コンテスト」(しかもその選考過程からして実にいい加減で、結局候補者たちは逃げ出してしまうだけである)を舞台とした、素朴で独特な味わいのあるドタバタ喜劇である。低予算で作られた軽いコメディかと思いきや、最後に題名通りに発生する火事の場面はなかなかの壮観で、それまでのバカバカしさを一気に昇華(消火ではない)せしめる峻厳さすら備わった佳作である。

 どうでも良いことだが、ザ・ビートルズ好きとしては、コンテスト会場で楽団が演奏するスローなワルツ風の曲が「From Me to You」であることに気づいて(結構分かりづらい編曲ぶりなのである)思わずニヤついてしまったことを書き添えておきたい。

 

・「グッバイ、サマー(2015年) 原題:Microbe et Gasoil(チビとガソリン)」(ミシェル・ゴンドリー監督) 2.5点(IMDb 6.7) 日本版DVDで視聴

 私はもともとロード・ムービーにはひどく甘いのだが、音楽や効果音が陳腐極まりないせいか、あるいは年若い主人公たちに魅力が乏しいせいか(単に私が彼らより年をとりすぎて感情移入出来ないだけか)、今作には全く惹かれなかった。

 

・「記憶にございません!(2019年)」(三谷幸喜監督) 3.5点(IMDb 6.5) インターネットで視聴

 一般的な評価は余り良くないようだが、もともと相性の良くない三谷幸喜作品では珍しく面白いと感じた。内容はよくある記憶喪失モノだし、記憶喪失後の首相(中井貴一)の言動が余りに理想主義的で白ける点もあるものの、それなりに笑わせながら今の政治に対する揶揄や批判をそれとなく散りばめている点も悪くない。こんな「善意」に満ちた政治家は現実には存在するはずがないが、映画の中で理想の政治家像を夢見ても決して悪くはないだろう。

 

・「祭りの準備(1975年)」(黒木和雄監督) 3.5点(IMDb 7.5) 日本版DVDで視聴

 とことん暗く惨めったらしい挿話の連続にもかかわらず、要所要所で思わず笑ってしまうのは黒木和雄の演出の妙か。似たような系統の作品には中上健次の小説や、映画であれば根岸吉太郎の「遠雷」(1981年)や山下敦弘の「松ヶ根乱射事件」(2007年)などがあるが、むしろ本作がそれらの原点と言えるかも知れない(もっとも本作の原点にしても今村昌平作品などにあるのかも知れないのだが)。

 本作が脚本を担当した中島丈博の自伝的な内容らしいことに、日本という国の闇(奥?)の深さを思い知らされるようで、今更2番煎じ、3番煎じかも知れないものの、こうした土俗的(?)な部分(闇?)をもっと掘り下げていけば、まだまだ映画や小説にも可能性が残されているような気がしないでもない。執拗に繰り返される松村禎三の音楽も良い。