2020年3月9日(月)

 

 今日から発効となった日本政府による中韓両国に対する事実上の入国制限措置と、それに対抗する韓国政府のこれまた事実上の「報復」措置については、あえて何も言わないでおくことにする。むろん両国政府のやり方には色々と思うところがあるのだが、日韓のみならず、どの国も互いに競い合うように自国中心の「政治的」行動に邁進する様を見ていると、国家や国民というものの浅ましさを改めて感じてただただ虚しくなるだけである。

 「人類」などという言葉を取り出して理想論を語るつもりはないものの、一方で日々近くの川べりを散歩しながら、人間に比べれば無知蒙昧ではあるだろうが、しかしそれゆえに泰然とした動物たちのいつもと変わらない姿を見ていると、人間がその中途半端な「知恵」ゆえに、じたばた慌てふためいて右往左往する様が馬鹿らしく思えてくるのも確かである。

 (原文を確認した訳ではないが)かのマルチン・ルターが言ったとされる有名な(そしてすっかり垢にまみれてしまった)言葉に、「たとえ明日世界が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える」といったものがあるが(私はこの言葉を開高健のエッセイで知った)、この言葉は人間よりも動物たちにこそ相応しいものだと言えるだろう(もっとも動物はいつか果実がみのることを願ってリンゴの木を植えたりすることは当然なく、せいぜい食べ残した食べ物をどこかに隠すくらいだろうが・・・・・・)。

 動物たちは明日のことはおろか、今この瞬間のことだけを考え、一瞬先のことすら思念してはいないに違いない。むろん目に見えぬウイルスの存在など知りもしないし、いつものように川の中に上半身を沈めて餌をとったり(上の写真)、草むらに鼻を突っ込んで何か美味しいものはないかと匂いを嗅ぎ続けるだけでしかない。それは(しつこいが)彼らの「無知」ゆえなのではあるが、しかし彼らに比べて遙かに「知恵」を有しているはずの人間たちは、果たして動物たちよりも賢明に、崇高に行動していると言えるだろうか。むしろ今回のように溢れかえる情報に翻弄されたり、ありもしないデマに踊らされて大騒ぎするなど、往々にして動物たちよりも身勝手で醜く、往生際悪い姿を晒してはいないだろうか。

 この前私は、こうした非常時(だとは、正直、個人的には思っていないのだが)にこそ、人間の本質や本音があらわれ、「お里が知れる」ものだと書いたが、いま多くの人間たちが晒している慌てぶりや醜態こそが、動物にはない「知恵」を持ち、「唯一無二の文明」を築き上げて来た「人間」なるものの実態であり、「お里」なのかも知れない。むろんこんなことを書いている私自身、そのひとりでしかないのだが・・・・・・。

 

       映画「楢山節考」(木下惠介版、1958年)

 

 さて、今回の主題はタイトルにあげたように「老害」である。

 もっとも、年代論や世代論などというものは往々にして結論ありきの恣意的なレッテル貼りでしかなく、実際には何の意味もない戯言でしかないだろう。同年齢や同年代であっても所詮は人それぞれで、たとえ人間の言動が多かれ少なかれその時代の影響を被るとしても、どんな影響をどう受けるかは個々人の生まれ育った場所や環境、境遇や性向によって千差万別である(それゆえ以下の文章でも全共闘世代とかベビーブーム世代と言った世代論は避けているつもりである)。

 だから以下に書くことは言うなれば偏見に基づく決めつけであり、こうに違いないという私の勝手な思い込みでしかないかも知れない。しかしそれでもなお、老化による肉体的な衰えが、程度の差はあれ人間の思考や精神の硬化、自身の考えへの固執や柔軟な思考の欠如、ひいては思考停止と自己絶対化といった傾向を助長するだろうことには、幾ばくかの一般性(真実)があると言っても完全な間違いだとまでは言い切れないだろう。

 つまりこれは特定の年齢層や世代についての一方的な決めつけと言うより、いずれ私自身にも否応なく訪れるだろう肉体の衰えと精神的柔軟性の欠如、つまり誰もがいつかは直面することになる「老い」や「成れの果て」に対する、自己嫌悪にも似た反撥や抵抗の表明だと言った方がより正しいかも知れない。

 苦しい言い訳はこれくらいにしておいて、私の考える「老害」について、卑近な例をあげながら語ることにしたい。

 

 以下の例はあくまで氷山の一角で、他にも似たような事例には全く事欠かないと言っていいのだが、多少(「他生」でも「多生」でもない)の縁がある「義理」からたまに覗いている、ある趣味(道楽)を持った同好の士たちが運営しているウェブサイトがある(ちなみに私はその趣味自体には全く興味がない)。

 そのサイトの管理人(過去に多少面識もあった人である)はその「趣味」に関して一見識持っているらしく、専門家並みの薀蓄を披露したり、「同好の士」の作品を批評したりする一方、日々の所感や感懐をたまに吐露してもいる。最近の話題はもっぱら新型コロナウイルスに関するもので、特に日頃から好ましく思っていないらしい現政権に対する不満や批判が表明されていることが多い(この管理人は現在80代の老人で、かつて某新聞社の記者だった人である)。

 

  映画「楢山節考」(木下惠介版、1958年) 左は田中絹代、右は宮口精二

 

 私がこの管理人の言動を「老害」だとして論難するのは、むろんこの人が現政権に批判的だからなどではなく(私自身、現政権を支持するつもりなどこれっぽちもないし、ついでに書いておくなら、これまで一度として票を投じたこともない)、その無思慮で自己中心的な言動ゆえにである。

 その言動とは例えば、新型コロナウイルスの拡散防止を理由に、現政権が「不要不急の外出は控えて欲しい」と要請したこと対して、この管理人はその「日々の感懐」の中で、ほとんど感情的に反撥し、不要不急かどうかを決めるのはあくまで自分(各個人)であると主張する。むろんそうした考え自体に私も異論はない。しかしこの人は続けて、まさに(自身の嫌悪する)現政権が不要不急の外出を控えてほしいと要請したがゆえに、自ら「不要不急の最たるもの」だと認めるある集会に「だからこそ出かけた」と、堂々と表明しているのである。どうやら自らの行動に対して誇らしさすら覚えているらしいのだ。
 

 この「不要不急ではない」集まりには、結果的に実に1,000人近い人が参集したらしいのだが、日本の神話に関する文化講座という内容からして、出席者の多くは老人たちであるに違いない(←もっともこれは単なる私の決めつけであり、この講座自体の意義まで否定するつもりはない。あくまで重要なのは、この管理人がこの講座を「不要不急の最たるもの」だと自認していることである)。

 現今の状況下にもかかわらず、不特定多数の人間が集う(管理人の言葉によれば「ホールにぎっしり3時間以上缶詰になる」そうである)場所に管理人が「あえて」出かけて行ったのは、この講座に対する知的興味以上に、現政権が要請(管理人的には「強要」)するようなことには従いたくないという、単にへそ曲がりで無思慮な一時的感情からでしかない(だから感染を恐れてこの集会に行くことをやめただろう人たちも、管理人にかかると「お上の言うことに従順にしたがう癖のついた老人たち」にされてしまう)。そして何よりもそこには、自分自身がウイルスに感染する危険性はもちろん、他者に病気を移してしまうおそれに対する危惧すら微塵もないのである。

 自慢する訳ではないが、私自身、へそ曲がりなことでは人後に落ちないつもりだが、この人の言動はそんな私の目から見ても余りに稚拙でひとりよがりなものでしかなく、要は自分が「反権力」だの「反体制」だのと思うことに「酔い」、「意気がっている」だけでしかない。今どき(? もはやほぼ死語?)の言い方にならうなら、「中二病」に他ならない。こうした幼稚な老人たちを見ると、人間が老いるにつれて幼児退行するという説もあながち間違いではないのかも知れないと思いたくなる。
 いくら幼稚であろうと愚かであろうと、それでもそれが思想信条の領域に留まっているならまだ良いだろう。しかし今回のように、伝染病の感染拡大という現実的状況におけるこうした自己中心的な行動は、まさに「百害」以外のなにものでもなく、公共の利益(と不利益)を顧みない身勝手で迷惑千万な害悪に他ならないだろう(などと書くと「公共」や「利益」という言葉に即座に噛み付いてくる人がいるだろうが、「(出来るだけ多くの)生命を守ること」とでも言えば、強権だの全体主義だのを持ち出して否定しようとする良識派だか進歩派だかも少しは沈黙するかも知れない)。

 

 それでもまだこの人が、新型コロナウイルスを致死率の比較的低い、インフルエンザに毛のはえた程度のものだと捉え、仮に自分が感染したとしても取るに足らないとでも考えているのであれば、こうした行動にもまだ理解を示すことが出来るかも知れない(ただしあくまで「可能性」の問題で、個人的には理解しようとも思わないが・・・・・・)。

 しかしこの人は別の日の所感の中で、この未知のウイルスの感染拡大を危惧し、東京オリンピックなどは即刻中止すべきだと再三にわたって主張してもいるのである。

 要するにこの人にとっては、新型コロナウイルスにしてもオリンピックにしても、単に気に食わない政治家や政党を批判し貶めるための道具に過ぎず、自らのちっぽけな(思想的?)満足を最優先させ、自分だけでなく無関係な人たちも「未知のウイルス」に感染させてしまう危険性すら等閑する行動を「あえて」犯している訳である。

 (ちなみにこのブログでも一再ならず書いて来たように、私は元々オリンピックなるものに全く興味がなく、むしろ嫌いだと言っていい位なので、今回のオリンピックが中止になろうがなるまいが、正直どうでも良いと思っている。もっとも本当に中止になった場合、この大会を目標に掲げて血の出るような努力をしてきただろう多くの運動選手たちには誠に気の毒だとも思うし、中止による経済的な損失についても全く無関心という訳にもいかない)

 

  映画「楢山節考」(木下惠介版、1958年) 左は田中絹代、右は望月優子

 

 「勇躍」出かけて行ったこの集会でもしウイルスに感染したら、果たしてこの人はそれを「自業自得」だと観念し、最悪の場合、自己の死すら従容と受け容れるだろうか(ある意味で、気に喰わない政治家に反撥しての死であれば「名誉の死」と言ってもいいだろう)。あるいはその場合でも、何もかもは憎っくき政治家や政権の悪しき政策によって結果的にもたらされたことだと、死ぬまで恨み言を言い続けようとするだけだろうか。

 さらに自分のみならず、この未知のウイルスを家族や見知らぬ人たちに伝染させ、やはり最悪の場合、死者まで出た場合、この人はどうやってその責任を取ると言うのだろうか。

 

 思想信条がどうであれ、現今の状況下で何が最も喫緊かつ重要かという「本質」(今回であれば「如何にして未然に感染拡大を防ぐか」)からあえて目を背けているとしか思えない、ひとりよがりではた迷惑なこうした言動は、社会にとって害悪以外の何ものでもなく、少しでもまともな社会の構成員であれば(もっと言えば少しでも「物心」ついた子供程度の常識と良識を持っているなら)自ずと慎むべきものだろう。
 そしてそうした言動をむしろ誇って省みないようなこうした人物が、かつて「社会の木鐸」(笑)であるはずの新聞記者として偉そうに「物申していた」のかと思うと、韓国だろうが日本だろうが、やはりジャーナリストなどというもの(の多く)はロクなものではないと思いたくなってしまうのである。

 このような無思慮で身勝手な人間(特に老人)はごく一握りで、ほとんどの人間(老人)は不要不急な外出は控え、おとなしくしていると言う異論や反論もあるだろう。しかし他のブログやSNSなどを覗いていても、この管理人と似たような迷惑行為をしながら少しも悪びれず、むしろ得々としている中高年者が如何に多いかを、私は日々目の当たりにしてもいるのである。

 

       映画「楢山節考」(今村昌平版、1983年)

 

 これまた別の縁でたまに覗いている某文学系同人サイトの管理人の例だが(元教育関係者で70代)、定期的に開かれる会合への参加を同人たちに呼びかけながら、「(会合参加によるウィルス感染の蓋然性は)極めて低い。満員電車やスーパーなどでの接触の方が感染する危険性は高く、普通に歩いたり自転車に乗ったりしている時など、常に"もしか"の事態はありうる」と、何の科学的根拠も挙げずに会合の安全性を主張している。

 さらに「(当の集まりは)特定少数の会合で、通勤ラッシュで不特定多数が密室状態にあるのとは異なる。街なかや電車内であれば誰が感染しているかも分からない。スーパーなど日常の場はまさに不特定の集まりで心配だが、感染者が全国で数百人という現状からしても、報道されている程ひどい状態ではない」と続けている。

 会合に参加するために不特定多数の人間が行き来する駅に赴き、満員電車に乗ることになるかも知れないこと、同人の中に無症状の感染者が既に存在するかも知れないといったことは、どうやらこの人の念頭からすっぽり抜け落ちているらしい。そもそも歩いていても自転車に乗っていても常に危険はあるのだから、といった「理屈」は、仮に会合で感染したとしても運が悪かったと諦めるしかないとでも言いたげですらある(★)。

 会合翌日にアップされたコメントはさらに「ケッサク」で、「昨日は暖かい日差しでウイルスは死滅。その後の雨でウイルスは流され、街は健康になった」と言うのである。自分だけは大丈夫だという何の根拠もない妄想から生じた「ファンタジー」と言うしかない。上の元新聞記者同様、こんな人間がかつて子供や若者を「教育」する仕事にたずさわり、偉そうに訓戒を垂れたりしていたのだと思うと、深く嘆息するしかない。

(★最初に挙げた80代の「管理人」も同じようなことを書いている。他の引用同様、原文を尊重しつつもざっくり要約すれば、《ウイルスのために不要不急の外出は避けよといった行動の制限は全く不要で、そんなことをしても意味がない。生きて行くには家に閉じこもってばかりはいられない。どこで感染するか全く分からないのだから、移る時には移る。外出しなくとも郵便物や新聞などには触れたり、宅急便や勧誘などで訪れる人間とも言葉を交わすし、外界との接触を一切遮断することは出来ない。感染する時には感染するのだ》ということである。

 そしてこの人は続けて今の「自粛ムード」をかつての大政翼賛運動や226事件と結びつけて警戒を呼びかけるのだが、これは左派メディアや評論家がよく用いる「常套」である。私自身どちらかと言えば「左」寄りなので、時代を支配する「空気」や「同調圧力」を警戒すること自体は肝要だと思うものの、そうした警戒心を持つことと上のような軽率で身勝手な行動を取ることとは全く別の話である。)

 

  映画「楢山節考」(今村昌平版、1983年) 緒形拳と坂本スミ子

 

 最後に「老害」のもうひとつの例を挙げて、この偏見と個人的な決めつけに満ちたこの項目を終えたいと思う。

 以下は、神奈川新聞の3月7日付「濃厚接触は1,406人 発症後ジム利用、横浜の70代男性」と題する記事である(https://www.kanaloco.jp/article/entry-292105.html)。

 《横浜市は7日、新型コロナウイルスへの感染が5日に確認された市内に住む70代の無職男性について、発症後に計5日間通ったスポーツジムを同じ日に利用した人は少なくとも計1,406人だったと発表した。男性が利用した時間帯だけでなく、この5日間で利用した全員を濃厚接触者とした。
 市によると、男性は発症後、2月25~27日、29日、3月1日に同市港北区の商業施設「トレッサ横浜」内のスポーツジム「セントラルウェルネスクラブトレッサ(大倉山)」を利用した。ジムは現在休業している。》

 

 おそらくこの70代の男性の意識にあったのも、上に挙げた人たちと似たりよったりの、自分だけは大丈夫だという根拠なき自信、あるいは「移る時には移る」という投げやりで無責任な「思考停止」だったと思われる。そしてたったひとりの無思慮な行動が1,400人もの人間を巻き込み、彼らの検査や隔離のために膨大な医療資源を浪費させることになった訳である。

 こうした硬直的な思考(あるいは思考そのものの欠如)には、老いによる肉体的な衰えが多少なりとも影響していることは否めないだろう。そして上にも書いた通り、私もいずれ(今以上に)肉体も精神も衰え、思考力を失った彼らと同じように身勝手な言動をしないとも限らない。だから私が彼らを「老害」呼ばわりすることは、過去のブログで私自身が批判してきた、「天に唾する」行為だと言っていいだろう。

 にもかかわらず私が執拗にこの偏見に満ちた「老害」という言葉を使うのは、いずれ自分自身も撒き散らしかねない「害悪」の自分勝手さをよく認識し、決して同じ轍を踏むまいという思いからである。私はこうした無思慮でひとりよがりな老人たち(の言動)を「反面教師」や「他山の石」とし、もし運悪く70や80になるまで生き恥を晒すことになるとしても、出来るだけ人に迷惑をかけることなくひっそりと生き、死んでいきたいと思っている。むろんそうした老醜を晒す年齢になる前にポックリ死ねれば一番良いのだが・・・・・・。

 

 (最後と言いながら、もうひとつだけ付け加えておくなら、上に映画「楢山節考」の写真を用いたのは、某元記者&キャスター(80代の男性)があるテレビ番組で、新型コロナウイルスに関して「姥捨て山」のような議論(?)が起きていることは許しがたいと述べていたからである。

 むろんかつての「姥捨て山」のように高齢者を「切り捨て」ても構わないというような風潮が実際に存在するとすれば論外で許しがたいとは思うものの、一方でもし私自身がこの人と同じく80過ぎの人間だとしたら、不治の病や難病、事故などで死んで行った数多くの子供や若者などのことを思い、あるいは戦争で死んで行った自分と同世代の者たちのことを思って、少しでも長生きしようと固執したりはしないだろうとも思う。それとも歳をとればとるだけ、人間は若い時以上に残り少ない生に執着し、一瞬でも長く生きたいと思うようになるのだろうか。やはり私の目には、何も言わず静かに死を受け入れて死んでいく動物たちの方が、自分を含めた人間たちより崇高で美しいと思えてならないのである。)

 

 

 またまたついでだが、訃報を2つ。

 まずはアメリカのジャズ・ピアニスト、マッコイ・タイナー(6日死去。享年満81歳。上の写真左。右はジョン・コルトレーン)。

 マッコイ・タイナーと言えば、何と言ってもジョン・コルトレーンとのカルテット時代の演奏が真っ先に思い浮かび、特に「至上の愛」(https://www.youtube.com/watch?v=ll3CMgiUPuU)や「バラード」(https://www.youtube.com/watch?v=3dKmQGJ7bw4 ただし1、2曲目の順番が逆)、「My Favorite Things」(https://www.youtube.com/watch?v=UlFNy9iWrpE)などの代表的アルバムにおける流麗なピアノは、コルトレーンのサックス演奏と共にいつまでも繰り返し聴き続けることになるに違いない。

 

 

 2人目は、アメリカの俳優兼脚本家兼演出家で、「アクターズ・スタジオ」の幹部としても知られるジェームズ・リプトン(2日死去。享年満93歳。上の写真左、右はブラッド・ピット)。
 私が仕事でアメリカに滞在していた時、リプトン氏が司会を務め、有名俳優たちに演技の秘訣を尋ねる「アクターズ・スタジオ・インタビュー」が繰り返し放送されていて、英語の勉強を兼ねてよく見たものである(正直、どこまで英語が理解できていたか疑問ではあるのだが)。そもそも「アクターズ・スタジオ」の存在や「メソッド演技法」なるものを知ったのもこの番組のおかげで、その後、アメリカ映画やドラマでの俳優の演技を見る目が変わったと言っても決して過言ではない(むろん「アクターズ・スタジオ」派の俳優に対して賛否両論あることも承知している)。

 

 この2人の死を悼み、冥福を祈りたい。