2020年2月11日(火)

 今日は亡き愛犬の誕生日である。生きていれば今日で16歳。最後は体力もなくなってしまい、あれ以上長生きしても苦しむだけだっただろうから、もっと長生きして欲しかったとまでは思わないものの、もっと安らかに逝って欲しかったと今でもしきりに思う。RIP.

 

 本題ではなく閑話からまず始めるとするなら、新型コロナウイルスによる肺炎に関して、感染者が発生したクルーズ船で乗客や乗務員を2週間、隔離状態に置くという措置のことを聞き、欧米語で「検疫」を意味する「quarantine」や「quarantaine」という言葉のことを思い起こした。

 仏語やイタリア語をかじったことのある人ならばすぐにピンと来るだろうが、これらは「40日間」を意味する言葉である。もともとかつてのラグサ共和国(現在のクロアチア共和国ドゥブロヴニク)で、ペストが流行している地域からやって来た船舶からの感染を防ぐため、離島に40日間(1ヶ月間という記述もある)停泊させたことに基づくらしく、「quarantine」や「quarantaine」という言葉自体は、すぐさま同様のシステムを採り入れたヴェネツィアの方言に由来するそうである。

《後日追記→フランスでは新型コロナウイルス感染阻止のための「隔離」について、40(日)を意味する上記の「quarantaine」という言葉に代わって、14(日)=quatorzeから派生した「quatorzaine」という言葉が使われるようになったそうである→https://twitter.com/futsugopon/status/1309106558492573697

 

 今回の新型コロナウイルスの潜伏期間が最大2週間であることから、隔離期間は40日間ではなく2週間に設定されているようだが、同じ場所に隔離された人たちが時間を置いて連鎖的に感染した場合、当然のことながら2週間経ったから安心ということにはならない。素人考えでしかないものの、そうした二次感染、三次感染の可能性を想定するなら、今では検疫そのものを意味するようになったこの言葉の持つ歴史的重みをも考慮しつつ、感染リスクのある集団を最低40日間は隔離した方がより確実なのではないかと安易に考えてしまうのである。

 もっとも40日どころか2週間でも耐えがたいので早く出して欲しいと訴える乗客の声があちこちで報道されるなど、感染が疑われる人たちを隔離措置することすら一部では問題視されているようで、今の世の中は人権だの何だのとやたらやかましく、全く別件ではあるものの、殺された被害者よりも殺した加害者の人権の方が重視されるなど、厄介な時代になったものだと思うしかない。

 むろん今回の感染者や感染の疑いのある人たちは「被害者」の方なのだが、誰も彼もが自分だけの都合や権利を声高に主張して、人権だの差別だのと騒ぎたてるような昨今の流れに、私のような古臭い人間はなかなか馴染めない。集団のために常に自分の欲求や意見を抑えろとまでは言わないものの、社会がより大きなリスクを抑えるために安全策を取るのは当然なことであり、社会に帰属して大なり小なりその恩恵を享受している以上、多少の協力や辛抱はやむをえないとも思うのである。

 そしてそれは何も今回のような事例のみに関わることではなく、声の大きい人間だけが得をしたり義務を免れるような不公正を一旦許してしまうと、社会や集団というもの自体が成り立たなくなるだけだろう。そうでなくとも社会や集団から出来るだけ距離を置いて生きようとしている私のような人間でもがこんな風に思っているにもかかわらず、昨今ではどうやら自分の利益のために声高に権利を主張し、不満があると差別だなんだと周囲の環境のせいにする風潮が強まる一方のようである。ますます私のような「古臭い」オッサンには住みづらい世の中になりつつあるのだ。

 

 「quarantaine(検疫)」と言えば、フランスの作家ル・クレジオにこの言葉をタイトルに掲げた「La Quarantaine」という長編小説があり(邦題は「隔離の島」。上の写真)、私もいずれ読もうと手元に置いてあるのだが、なにせ500ページ近い分厚い作品である上、内容的にも以前かなり苦労しながら読んだ同じル・クレジオの「黄金探索者」と重なる部分が結構あるらしく、なかなか読もうという気になれないでいる。

 今回の新型コロナウイルスの流行で、アルベール・カミュやダニエル・デフォーの「ペスト」や、スティーヴン・ソダーバーグの「コンテイジョン」(2011年)という映画などが注目を浴びているらしいのだが、私もそうした流れに乗っかって、積ん読になったこの小説に手をつけてみようかと思っているところである(もっとも手元に置いて積ん読になっている本だけでも数十冊はゆうにあるのだが・・・・・・)。

 


 

 さて、ここ韓国は昨日から、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」がアカデミー賞の主要賞を獲得したことで大騒ぎである。

 もっとも韓国映画がアカデミー賞で候補に上がったこと自体が初めてだった上、昨年も高い評価を受けながら「作品賞」だけは取れなかった「ROMA ローマ」(アルフォンソ・キュアロン監督)を直近例として、これまでどの非「英語」映画も成し得なかった「作品賞」受賞という快挙まで成し遂げたのだから、大騒ぎするのも当然と言っていいだろう。

 アジア系監督が作品賞を取れるかどうか話題になったケースで私がよく覚えているのは、台湾出身のアン・リーが「ブロークバック・マウンテン」(2005年。ただしこれは英語作品である)で主要賞の候補に上がった2006年のアカデミー賞で、結局この時アン・リーは監督賞は受賞したものの、作品賞は「ブロークバック・マウンテン」よりも作品的に劣る(と私の考える)ポール・ハギスの「クラッシュ」に与えられた(「ブロークバック・マウンテン」がカウボーイ同士の同性愛を扱っていたことも作品賞受賞に障壁になったと言われたものだった)。

 それから15年近くたってようやくアジア系監督の作品が作品賞を取った訳だが、正直私はこうしたアジア系だの男女どうこうだのといった観点から、映画や文学、芸術作品を見ることが好きではなく、そうしたことで騒げば騒ぐだけ、かえってアカデミー賞の「権威」を高めて、「非主流」映画がその権威に隷属し、媚を売ることになりかねないと思ってしまうのである(言い換えれば、今回のように一度でも「非主流」の映画がアカデミー賞という「権威」に評価されてしまうと、それで障壁や差別がなくなったかのような安易で一方的な「了解」が形成される危険性があり、さらに意地悪く言うなら、彼ら「権威」の「善行の証し」として便利に消費されてしまうおそれがあるということである)。

 今回のポン・ジュノにしても、つい数ヶ月前には、これまで韓国映画に見向きもしなかったアカデミー賞を「アメリカのローカルな賞」だと切って捨てるように言い放っていたのが、いざ自らが受賞してしまうと無邪気にはしゃいでしまっているのは、既にしてその「権威」に懐柔されてしまっているようで、情けなく思えてしまうのだ。これまた意地悪く言うなら、結局は「白人」や「アメリカ人」に迎え入れられてペコペコお辞儀をしてご機嫌とりをする、伝統的アジア人のイメージを抜け出し得ていないのではないかと思ってしまうのである。

 むろん名だたる映画人を前にした儀礼的なリップサービスという側面もあるだろうが、これまで韓国映画のみならず、数多くの優れた「非英語圏」の映画人たちの作品を、英語作品ではないというだけで「圏外」に置いてきたアカデミー賞の体質について皮肉のひとつでも言い放った方が、投票権を持つ大多数の「英語圏」の映画人たちに「自分たちは公正なことをした」という安易な自己満足を抱かせ、結果的に彼らの優位性をかえって補強してしまうような事態を招来せずに済むに違いない(先程読んだ別の記事で、以前アカデミー賞をアメリカのローカルな賞だと断定した自分の発言をポン・ジュノが反省しているという内容が紹介されており、ますますがっかりさせられた。置かれた立場も抑圧の度合いも比較のしようがないだろうが、例えば黒人監督のスパイク・リーなどであれば、彼らの「改心」がこれ一回きりの「お情け」でないという言質をとるためにも、相当辛辣な言葉を口にしたに違いない)。

 

 

 「パラサイト」という作品に話を戻すなら、ここ数年、ポン・ジュノが外国資本で撮ってきた「スノーピアサー」(2013)と「オクジャ」(2017)は、ポン・ジュノ作品にしては凡作(というより完全な失敗作)だったため、もうポン・ジュノという映画作家は終わってしまったのかと思ったほどなのだが、韓国に戻って自分の撮りたいものを存分に撮りきったことで、本来のポン・ジュノらしさを取り戻したと言っていいのかも知れない(ただし私はまだ当の「パラサイト」を見ていないので、これはあくまで推測でしかない→【追記】その後2021年6月にようやく鑑賞してみたのだが、「スノーピアサー」や「オクジャ」よりはマシだと思ったものの、ポン・ジュノの作品としては凡作としか思えず、ポン・ジュノ作品でなくとも「傑作」とまでは言えず、5点満点でせいぜい3点が良いところだろう)。

 

 今も興奮して大騒ぎしている韓国メディアは、いつもながらに今回の受賞を、韓国映画界のみならず、韓国人や韓国文化全体の快挙と見做したくてたまらないようで、中には韓国映画が世界の辺境から「中心」に躍り出たとか、韓国近現代史において一二を争う文化的成果だとか、韓国人が韓国語で話す映画がオスカーのトロフィーを取るのはノーベル文学賞の受賞よりも難しいことだなどと書き散らしていて、相変わらず韓国らしいその子供じみた大言壮語ぶりには失笑するしかない(それにしても端から同列に論ずることなど出来ないアカデミー賞とノーベル文学賞を比較するとは、一体韓国メディアのノーベル賞に対する劣等感はどこまで根深く癒しがたいのだろうか?)。

 

 そもそもポン・ジュノの才能は長編デビュー作の「ほえる犬は噛まない」(2000年。原題は「フランダースの犬」)の時から突出していたし、第2作の「殺人の追憶」(2003年)で一気に世界水準の監督として存在感を示した数十年に一度の「天才」であり、何よりも子供の時から世界の映画を見て学んで来たバリバリの「映画オタク」であって(Criterionというレーベルから出ているDVDの中から映画人に好きなものを選ばせるという以下の動画を見れば、そのことの一端が見て取れるだろう→https://www.youtube.com/watch?v=qBgZQCkUp7E ★)、韓国映画という「枠」など、とうに飛び越えていた存在なのである。

(★此処で一言付け加えておくなら、昨今の日本の一部メディアには「反日」という視点から韓国人の言動を判断しようとする傾向があるが、優れた映画や芸術であればどこの国のものだろうと支持するポン・ジュノの姿勢はこの動画からも明らかで、そうした見方の愚かしさや偏狭さが分かるだろう。もっとも韓国人からすればごく自然な言動が、日本から見れば「反日」的に映ることも十分ありうるのだが、その是非を云々する際にも日韓間の歴史的・社会的背景を勘案する必要があるだろう。此方の常識は彼方の常識ではないのである。もっとも、だからと言って私は韓国的な思考を全面的に支持している訳ではなく、とりわけ彼の国の愛国主義的、民族主義的な言動には、それが「反日」的だからという理由からではなく、諸悪の根源は過度な愛国心や自己愛にあると考える私の信条から、私には到底与し得ないものが多い。)

 

 むしろ今回変わったと言えるのはアカデミー賞の側で、近年のPC(ポリティカル・コレクトネス)の流れもあって(今回も女性候補が少ないと授賞式前から激しい批判を浴びせられていた)、「白人・男性・英語」といった既成枠からの脱却を迫られていたことが大きいだろう。

 むろんそれを打ち破るだけの決定的な推進力が「パラサイト」という作品にあったことが最も大きい要素ではあるだろうが、上記の通り、果たしてアカデミー賞やハリウッドの「変化」が、これからも継続するかどうかは未知数と言うしかない(実際にはこの後、アカデミー賞は映画そのもの出来不出来とは直接関係ないような、ポリティカル・コレクトネス的な方向に、良くも悪くも邁進していくようになり、ある意味で私の懸念は払拭されたとも言えるのだが、同時にそうした時代におもねるような姿勢に、私はある種の「幼稚さ」を見てしまいもするのである)。

 

 上に書いたように私は今作品を未見なので何も言う資格がないのだが、カンヌ映画祭とアカデミー賞という、これまで全く別方向を向いて来た2つの映画賞において主要賞を獲得した「パラサイト」という作品には、良い意味で大衆性(娯楽性)とジャンル映画の要素(芸術性)がバランス良く共存しているのだろうと想像することが出来る。

 同時に、ジャンル映画にどっぷり浸かってきたカンヌ映画祭が徐々に大衆映画寄りになって来た一方、アカデミー賞も少しずつジャンル映画に近づいて来たという双方の歩み寄りも少なからず影響しているに違いない。

 今回のアカデミー賞で有力視されていた「ジョーカー」(これまた私は未見)にしても、コミックを原作とするような作品がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞(最高賞)を受賞している訳で、従来のハリウッド的なエンターテインメント作品とは一線を画した作品だと言えるだろう(そしてカンヌ映画祭同様、ヴェネツィア映画祭もまた少しずつ大衆映画寄りになって来ていると言えるのだろう)。

 

 ポン・ジュノは受賞後の会見で、次回作としてソウルとロンドンを舞台とする2つの新作を構想中であることを明らかにしたそうなのだが、外国資本で撮った過去の凡作2作の二の舞を演ずることなく(そしてすっかりハリウッドに浸りきって凡作を連発しているアン・リーの轍を踏まないように)、出来れば自国韓国で自分の撮りたい「ローカル」な作品を思う存分撮り続けて行って欲しいと願うのみである。

 個人的にはそれ以前に、これまでポン・ジュノの最高作であり続けて来た「殺人の追憶」という高い壁を、果たして今回の「パラサイト」という作品が超え得ているのかどうか、自分の目で確かめてみたいと思っているところである(もっともひねくれ者の私がこの作品を実際に見るのは、今回の騒ぎがすっかり収まった後になるだろうが)。

 

 ともあれ、今回の快挙に際しては、「パラサイト」を作ったポン・ジュノ監督やスタッフに対して心から祝福の言葉を手向けたいと思う(ただし、間違っても○○な韓国メディアに対してではないので、勘違いするなと釘をさしておきたい)。

 

 またもやついでのようで何だが、訃報を2つ(敬称略)。

 


 

 初めはアメリカの俳優カーク・ダグラス氏(5日死去。享年満103歳。上の写真)。

 代表作はキューブリックの「突撃」(1957)や「スパルタカス」(1960)、「探偵物語」(1951)、「悪人と美女」(1952、未見)、「OK牧場の決斗」(1957。未見)などになるのだろうが、私が最初にこの俳優の存在を明確に意識したのは「ファイナル・カウントダウン」(1980)という、お世辞にも名作や傑作とは言い難い安っぽいタイム・スリップものであり(上の写真)、キューブリックやウィリアム・ワイラー監督の作品を見たのはかなり後になってからのことである(「スパルタカス」などは昨年になってようやく見たくらいである)。

 従ってどうしても私の中でカーク・ダグラスという俳優にはこのB級映画の印象が付きまとってしまうのだが、おまけに演技云々よりも、ハリウッドで最も長生きした俳優というイメージをこれからも持ち続けることになるかも知れない(さらについでに、かのマイケル・ダグラスの父親として・・・・・・)。

 そんな見方を覆すべく、何よりも故人を追悼する意味で、未見の「炎の人ゴッホ」(1956)や「パリは燃えているか」(1966)、「大脱獄」(1970)などの作品を近いうちに見てみたいと思っている。

 

 相変わらず詳細な、英紙「ガーディアン」による訃報は以下の通り

 https://www.theguardian.com/film/2020/feb/06/kirk-douglas-hollywood-legend-and-star-of-spartacus-dies-aged-103

 冒頭の「Square-jawed star」(真四角な顎を持つスター)という表現がおかしい。

 

 

 2人目はソプラノ歌手のミレッラ・フレーニ(8日死去、享年満84歳)。

 決して彼女の歌唱に親しいとは言えないものの、カラヤンの指揮の下、同郷出身で幼馴染のパヴァロッティ(上の写真)と共演した「蝶々夫人」(①https://www.youtube.com/watch?v=YAT22yt8fxY←その後リンク切れ②https://www.youtube.com/watch?v=abIgSHdxEjQ ③https://www.youtube.com/watch?v=oiuBNRyiRNQ)や、同じカラヤンの指揮にジャン・ピエール・ポネルの演出で、ドミンゴやクリスタ・ルートヴィヒと共演した奇妙な映像版「蝶々夫人」(英語字幕付きで以下で視聴可能→https://www.youtube.com/watch?v=Xh6EgYzMXIk←その後リンク切れ)での歌声は何度も聴いたものである(むしろ彼女が本領を発揮したレパートリーは「ラ・ボエーム」やヴェルディのオペラだったようだが・・・・・・)。記憶が曖昧で何なのだが、私がニューヨークに滞在していた20数年前(1996~1999年)にも彼女はまだ現役で、その実演に接したことまではなかったにせよ、テレビなどで彼女の歌う姿を何度か見たような気がする。

 

 他にも幾つか彼女が歌っている動画のアドレスを貼り付けておく。

 1988年の日本公演の模様

 https://www.youtube.com/watch?v=rAbN5NW5eR0←その後リンク切れ

 プッチーニの「ラ・ボエーム」から「私の名はミミ」。

 https://www.youtube.com/watch?v=GI5TovjByB0

 プッチーニ「ジャンニ・スキッキ」から「私のお父さん」

 https://www.youtube.com/watch?v=ow1niq0mOwE

 プッチーニの「ラ・ボエーム」から「愛らしい乙女よ」(パヴァロッティと)

 https://www.youtube.com/watch?v=DPrtJ4VoND4

 

 同じく「ガーディアン」の訃報は以下の通り(上の写真は同記事から拝借した)。

 https://www.theguardian.com/music/2020/feb/10/mirella-freni-obituary

 

 ありきたりではあるが、この2人の死を悼み、冥福を祈りたい。 


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 この間に見た映画は、

 

・「天使の入江(1963年)」(ジャック・ドゥミ監督) 3.5点(IMDb 7.3) 日本版DVDで視聴
 デビュー作の「ローラ」(1961)に続くジャック・ドゥミの長編第2作。

 生来ひどい小心者なこともあって、賭博に関する話はいつ見てもハラハラさせられてしまう。最後まで勝ち逃げられる者など誰も存在せず、常に敗北と破滅が待っているだけだからである。今作では主人公たちは最後のギリギリで何とか持ちこたえるものの、そのため結末はほとんどおとぎ話のようで、近い将来の主人公2人の破滅があらかじめ織り込まれているとしか思えない。特にギャンブルで得た大金をすぐに使い果たして一文無しになり、再びギャンブルを繰り返すだけの年上の女(ジャンヌ・モロー)に翻弄されて身を滅ぼすしかない若者の運命はほろ苦く憐れでしかない。
 白と黒の画面と、明滅する光と影の繊細でありながら鮮やかな対照が印象深い。その対照をフィルムの上に捉えた撮影と美術には、数々のフランス映画の名作に関わったジャン・ラビエとベルナール・エヴァンが担当しており、衣装はピエール・カルダン、音楽はミシェル・ルグランと、贅沢この上ないスタッフが集結している。小品ではあるものの、デビュー作「ローラ」に引き続き、初期のジャック・ドゥミ作品には、他の監督作品にも、そしてドゥミ自身の後の作品にも見られない独特な魅力と魔力とが横溢している。

・「完全な遊戯 (1958年)」(舛田利雄監督) 3.5点(IMDb 7.6) 日本版DVDで視聴
 石原慎太郎の原作(未読)は、発表当時、その不道徳的な内容から非難轟々だったようだが、今作は映画向けに内容をかなりソフトに改変した結果、あらゆる倫理観や思考と無縁な若者たちの姿が中途半端なものになってしまっており、勧善懲悪的な結末も陳腐だと言っていい。

 しかし小林旭や梅野泰靖、岡田真澄、芦川いづみ、白木マリなどの若い俳優たちの瑞々しい演技や、粗くはあっても躍動する映像は魅力的で、投げやりになった若者たちが唐突にダンスを踊り出す場面などはこちらの意表をつき、深く印象に残る。


・「イカとクジラ (2005年)(ノア・ボームバック監督) 3.0点(IMDb 7.3) 日本版DVDで視聴
 私は未見だが、今回のアカデミー賞でも前評判の高かった「マリッジ・ストーリー(2019年)」を撮ったノア・ボームバック監督の旧作である今作をたまたま鑑賞。

 高学歴を持つ作家同士の、双方ともにインテリではあるが身勝手で俗物的な両親から生まれ、人並み以上にひねくれつつも、かろうじて純粋さと繊細さを保ってきた兄弟が、両親に翻弄されながら自己を確立しようともがく「成長小説」的映画である。駄目親を演ずるジェフ・ダニエルズとローラ・リニーがうまく、息子役のジェシー・アイゼンバーグは当時既に、観る者を惹き付けずにはいない特異なまでの居心地の悪さを全身に漂わせている。

・「愛する時と死する時(1958年)」(ダグラス・サーク監督) 3.5点(IMDb 7.7) 日本版DVDで視聴
 「西部戦線異状なし」や「凱旋門」のエリッヒ・マリア・レマルクの小説が原作。
 題名から結末がどうなるかあらかじめ見当がついてしまうし、その結末にしても「西部戦線異状なし」の二番煎じといったところで、主人公の男女2人の描写はダグラス・サーク作品らしくメロドラマチック過ぎるものの、敵国ドイツの兵士や一般人を、決して非難や否定一方に偏らない視点から描いた点で貴重な作品だと言える。父親が収容所送りになって肩身の狭い状況で生きるヒロイン役のリロ・プルファー(御年90歳で、まだ健在のようである)の人物像が肯定的に造型されており、全体的に重苦しい雰囲気に満ち、悲劇的な結末を迎える今作に、束の間の明るさをもたらしている。