2019年10月27日(日)

 ラグビー・ワールド・カップ準決勝第2戦がウェールズと南アフリカの間で行われた。

 

 後半残り約10分の時点で16対16の大接戦となり、そのまま延長戦突入もありかと思われた時、ウェールズが痛恨の反則をおかしてしまい、南アフリカが着実にゴールを決めて19対16とした。結局そのままノーサイドとなり、昨日決勝進出を決めたイングランドとウェールズによる、初の英国勢同士の夢の決勝戦とはならなかった。

 

 大会当初からひそかにウェールズを応援してきた私としては、わずか3点差での敗退は実に残念でならないのだが、それ以上に(あえて「欲」を言えば)ウェールズが反則をおかした時点で、南アフリカには堅実なペナルティ・ゴール(3点)ではなく、スクラムを選択してトライ(5点、その後にキック=コンバージョンも決めれば計7点)を取って、きっちりした形で勝利を収めて欲しかったというのが正直な気持ちである。

 

 最後まで点数的には拮抗していたものの、総合的には南アフリカが終始主導権を握っていたと言って良く、後半に入って南アフリカが今試合初トライを決めて16対9とした時点で、私はそのまま南アフリカが逃げ切ってしまうのではないかと思ったものだった。

 しかしそのすぐ後に南アフリカが反則を取られると、ウェールズは着実なペナルティ・ゴールではなく、トライとコンバージョンを決めて同点とするべく果敢にスクラムを選択し、見事、同点に追いついた(もちろんこの状況では、負けないためにその選択肢しかなかったとも言えるのだが)。

 

 4年前の英国大会における日本対南アフリカ戦でも、南アフリカが3点リードで迎えたノーサイド直前に、南アフリカによる反則でペナルティ・ゴールの権利を得た日本は、そのままキックを選択して同点で試合を終えることも出来た(当時は強豪・南アフリカ相手に引き分けられるだけでもすごいことだった)。

 しかし今回イングランドを決勝に導いたエディ・ジョーンズHC(監督)率いる当時の日本チームは、同点ではなく勝ちを目指してあえてスクラムを選択、ひとつでもミスをおかしたらその時点で試合終了=敗北というギリギリの状況のなか、粘りに粘った末にトライを決めて劇的な逆転を遂げ、世界中のラグビー・ファンたちの度肝を抜いたのだった(←これは決して日本贔屓の大げさな表現ではない)。

 

 奇しくも今回はその南アフリカが、ノーサイドまであと約10分という時間帯で同点という状況で、ウェールズ相手にペナルティ・ゴールの権利を得た訳なのだが、彼らが選択したのはスクラムではなく堅実なキックだった。むろん4年前とは全く違う条件下であり、今日の状況では至極当然な選択であり、結果的にもこのペナルティ・ゴールの成功が勝敗を決した訳なのだが、個人的にはトライを目指してスクラムを組み、7点差をつけて勝って欲しかったと思う。

 それは上にも書いたように、あくまで「面白い試合」を見たいという単なる1ファン=私の「欲」でしかなく、スクラムを選択した結果、トライもあげられずに延長戦に突入し、南アフリカが破れてしまう展開も十分ありえた訳だから、彼らの選択を批判することなど誰にも出来はしない(むしろ自分たちが同じ立場であれば、ウェールズも迷わずそうしていたに違いないし、彼らの選択はまさに「当然」なものだったのである)。

 

 それでも試合が終わって何時間か経った後でも私の気持ちが今ひとつすっきりしないのは、あれだけの接戦が鮮やかなトライによる決定的勝利でなく、ペナルティ・ゴールという(見方によれば)地味な方法で終わってしまったからに他ならない。反対に(私の応援していた)ウェールズがやはりペナルティ・ゴールで南アフリカに競り勝っていたとしても、やはり私はその勝利を素直には喜べなかっただろうと思うのである。

 しかしくどいようだが、これは欲張りな1ファンの勝手極まりない願いでしかなく、私などより遙かにラグビーに通じている人たちにこんなことを言いでもしたら、「何を馬鹿なことを言っているんだ」と一蹴されるに違いない。

 

 だからそんなないものねだりはこれくらいにして、次の決勝戦ではイングランドと南アフリカ両チームがそれぞれの力を出し尽くし、世界最強を決めるにふさわしいスリリングな試合をしてくれることを祈ることにしたいと思う(個人的にはイングランドを応援してはいるものの、それ以上にラグビーならではの「面白い試合」を見せて、今大会の最後を見事に締めくくって欲しいと思う。それはここ日本でラグビーというスポーツが今後も引き続き支持されていくのに役立つに違いない)。

 

 そして今日惜しくも敗退したウェールズには、決勝戦前日に行われる3位決定戦で、強豪ニュージーランド相手に値千金の勝利をあげて欲しいものである。

 

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 この間に見た映画は、

・「運び屋(2018年) 原題:The Mule」(クリント・イーストウッド監督) 2.0点(IMDb 7.0) Amazon Prime Videoで視聴
 Amazon Prime Videoで100円レンタルしていたので見てみた。

 クリント・イーストウッドの近年の監督作と同じく、今作も実在人物をモデルにしているのだが(改めて過去作品を調べてみると、完全なフィクション作品は2010年の「ヒア アフター」まで遡らなければならないようである)、前回のフリッツ・ラングに続いて、イーストウッドの監督作となれば何でもかんでも無条件に賞讃したがる「信徒」たちの絶讃にもかかわらず、個人的には前作の「15時17分、パリ行き」に劣らぬ凡作としか思えない作品だった。

 冒頭からのモタモタした展開に加え、やたら綺麗なだけで薄っぺらな映像に(撮影技法やカット割りなどにしても、「信徒」たちの賞讃にもかかわらず、私には大したものには思えなかった)、無駄な描写(特に主人公が麻薬王にメキシコに招かれて過ごす乱交パーティなど)も少なくなく、その結果、1時間もあれば十分語り尽くせる内容であるにもかかわらず、上映時間は2時間近くに及び、結果、弛緩しきって間延びした作品になってしまっている。
 極めつけは最後に突然流れてくる、まるで監督自身の心情を歌いあげるかのような陳腐な歌で、これではスポンサーに配慮して作品に全くそぐわない歌を決まって最後に流す下手糞な日本映画と少しも変わりはしない。

 しかも監督の心情なるものにしても、「ああ、あのイーストウッドも最後はこんな風に老醜をさらしてしまうのだな」と身につまされるような、感傷的で自己満足的なものでしかない(もっとも実生活における政治的傾向などからして、この人が作中の主人公のように、時に黒人や移民に対して差別的な言動をして恥じるところがないような、極めて保守的・排他的な人物であることは間違いないのだが、それは映画の良し悪しとは「また別の話」である)。

 クリント・イーストウッドも御年(おんとし)89歳で、今作の主人公のように、もはやこの世に恐れるものなど何もないのかも知れないが、そうした老人の厚顔無恥な言動を映画の中でまで見せられたくないと思わずにいられない。