2019年8月24日(土)

 さて、連日ただ無駄にやかましいだけの韓国の政治ネタには自分でもすっかり食傷気味なので、今回は映画の話を。

 

 ただその前にやはり、昨日、韓国の大統領府「青瓦台」が行ったという会見についてちょっとだけ触れておきたい(以下は日本語の「聯合ニュース」の「GSOMIA破棄の背景に日本の不誠実な態度 韓国大統領府が説明」という記事を参考にした。アドレスは→https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190823004500882?section=politics/index)。

 

 なんでも昨日、国家安保室第2部長の金鉉宗(キム・ヒョンジョン)なる人物が会見を開いて、今回の日韓間のGSOMIA破棄を決めた理由なるものを説明したらしい(実はチラッとテレビでも見たのだが、アホらしくてすぐに見るのをやめてしまった)。長ったらしいので要点だけ簡単にまとめれば、

 

・韓国側は7月以降、時には日本に特使を派遣してまで対話や協議を呼びかけてきたが、日本側は一切応じようとしなかった。

・8月15日の光復節(解放記念日)には大統領が演説の中で日本に対話の手を差し伸べ、その内容についてわざわざ事前に日本に通知すらしたにもかかわらず、日本側は何の反応も見せず、ありがたいという言及さえなかった。

・こうした日本側の対応は、単純な拒否を超え、「国家的自尊心」を喪失させるほどの無視だと言って良く、外交的な礼儀を欠いている。

 

 ということだそうである(もっともこうした表向きの理由以上に、大統領様が任命した法務部長官=法務大臣の候補者に娘の不正入学や自身の不正投資等の疑惑が次々と発覚したため、その問題から世論の注意をそらすためにわざわざこの日にGSOMIA破棄を決めたのだろうという観測も、野党や保守メディアを中心に為されている。しかし結局このスキャンダルのせいで現政権の支持率は下がり、この週末には大学等で反対デモが行われるそうである)。

 この中では、大統領様自らが「対話の手を差し伸べ」て呼びかけたにもかかわらず、日本側からは「ありがたいという言及さえなかった」というのがなんと言っても「ケッサク」だろう。やはりかの国では「大統領様」は、北の首領様同様、相当に「エライ」存在らしい。

 そもそも日本などより遙かに軍事的脅威であるはずの北朝鮮から、ここ数週間だけでも日本海(と韓国では言ってはいけないらしい。アホらし)に向けて新型ミサイルを何発も飛ばされ、「エライ」上に北の首領より「年長」(これは韓国では絶対的な上位を意味する)でもある「われらが大統領様」が激しい罵詈雑言を浴びせられ続けたというのに、韓国政府(ほぼ大統領府のこと。以下同じ)は、表向きでは一応批判してみせはするものの、実際のところただ看過しているだけである。

 

 一方の日本政府はと言えば(私が勝手に、多少「好意的に」推察するに)、韓国側が文字通り「現実的」な対案を示すのを待っているだけで、「無視」するというより「静観」&「待機」しているだけなのだろうと思うが(むろん内心では大いに腹を立てて馬鹿にしているだろうし、それを韓国政府が本能的に察したことも十分ありうることだが)、そうして「冷静」に「待機中」の日本政府への韓国政府の対応は、挑発的でちっとも「冷静」ではない北朝鮮に対する時とは大違いの、露骨なまでに感情的で居丈高なものでしかない(もっとも、自分が勝手に激して昂奮している人間に限って、相手が冷静でいることに余計腹を立てて更に昂奮したりするものではあるが)。

 

 むろん北朝鮮との宥和を最優先させたい韓国政府としては、たとえ日米の不興を買うことになろうとも、間違ってもかの国の「首領様」の怒りや反撥だけは招きたくないところなのだろう。そして言うまでもなく、北朝鮮は「腐っても」同じ民族同士であり、「永遠の憎っくき敵=日本」と同じ扱いなどしようという気は端からないに違いない。

 だがそれよりなにより、東アジアにおける安保情勢を大きく左右しかねない今回のような重大決定を下すことになった理由なるものが、要するにこの人たちの「自尊心」の問題でしかないというところが、如何にも人間的に(むろんそれ以上に政治家として)余りに「ちっちゃい」。ちっちゃ過ぎて、他人事だというのに余りに情けなくなって来て、思わず涙がチョチョ切れるのである。まさか(想像はしていたものの)こんなにも○○だったとは、と……。

 

 それにしても一国の大統領府なる(おそらくその国の)最高機関がわざわざ記者会見を開き、その中身たるやこのように感情的で幼稚な内容でしかなく、しかもそれを堂々と述べ立てた上で少しも恥じる様子がないというこうした感性こそ、私などには何よりも理解しがたい。

 (以下、読み返してみたら多少おかしな部分があったため、一部削除)

 この前書いた(余り上等とは言えない)言い方をあえて繰り返すなら、今の韓国政府の、周囲の情勢を全く読めずに(あえて読もうとせずに?)、しみったれた自尊心くらいしか守るべきものがないような稚拙な外交手法は、「ごく普通の」小学生未満(「以下」ではない)のレヴェルだと言っていい。やはり根っからの○○には「つける薬はな」く、結局は「△△なきゃ治らない」のかも知れない。

 

(後日追加)

 ひとつ書き忘れていたのだが、GSOMIA破棄を決定した後で、韓国大統領府はこの破棄について「アメリカも理解」していると強気で発言していたのだが、しばらく経ってからアメリカ政府が、同盟国に対しては異例とも言える厳しいトーンで、「韓国政府の決定には失望した」、「文在寅政権に強い懸念と失望を表明する」と発表するに至って、これが(いつもながらの)嘘であることが判明した。

 かつての大日本帝国などの場合、情報統制により「大本営発表」で国民を騙すことも出来たが、瞬時に情報が世界を駆け巡る今の時代に、どうせすぐにバレるような嘘をなぜ簡単につくのか、ますます私などには到底理解の行かない「世界の七不思議」のひとつと言っていい。


 閑話休題。

 

 

 フランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」(原題: Apocalypse Now)は1979年に公開されて以来、単にベトナム戦争を精妙に描いた作品としてではなく、人間存在の内奥に潜む支配欲や絶対者への志向性を暴き出し、その過程で人間なるものが善悪の観念や道徳、倫理といったものをあっさり飛び越し、暴虐や抑圧、侵略、搾取などの限りを尽くして飽くことがない様を赤裸々に描き出してみせた作品として、公開から時が経てば経つほどむしろ高く評価されてきた作品だと言っていい。

 

 カンボジアの奥地で原住民を支配し、「小さな王国」を築き上げようとした絶対者「カーツ」を、軍の特命をおびて処分(terminate)しにジャングル奥地を遡っていく主人公ウィラードも、しかしその任務の過程で自分がカーツに惹かれているのを知り、そしてかろうじて特命を果たした瞬間、自分もまた絶対的支配者たろうとする衝動に駆られていることを感じつつ、それを振り払うようにしてジャングルを後にするのである。

 そうした人間の内奥にある「本性」をえぐり出しえているからこそ、今作はベトナム戦争の記憶がとうに薄れてしまった今でも引き続き多くの観客を惹きつけ、日々その魅力や奥深さを更新し続けているのだと言っていいだろう。

 

 1979年に劇場公開されたオリジナル版(以下、「劇場公開版」)は実に153分(私の持っている英国PAL版DVDでは約156分となっているし、別のDVDでは147分となっている)という長尺で、翌年日本で公開された時に13歳だった私は、電車に乗って川崎の映画館に出かけて行き、この作品を早速鑑賞したものの、1度見ただけでは何が何やら全く分からず、結局そのまま席を立つことなく2度目の鑑賞を続けたものだった(むろん2度見ても理解できないことに変わりはなかった)。

 内容を十全に(というよりほとんど)理解できなかったにもかかわらず、私は迫力あるリアルな戦場シーンや、時に不穏で時に勇猛なザ・ドアーズやワーグナーの音楽に気圧されたものだった(すぐさまサウンドトラックのLPを買って聞いてみたものの、ザ・ドアーズの「ジ・エンド」が細切れでしか収録されておらず、ひどく失望した記憶がある)。

 しかし、私が今作の凄さを本当に認識するようになったのは、ずっと後になってワーグナーの音楽に心酔するある友人からこの映画を絶賛する評を聞かされてからのことだったと言うべきかも知れない。

 

 それから約20年を経た2001年には、「劇場公開版」に53分にわたる未公開フィルムを追加した202分(上記英国PAL版では193分)という長さの「特別完全版」(原題: Apocalypse Now Redux)が公開され、私は改めて映画館に出かけて行ってこの作品と再び対峙することになったのだが、若き兵士たちとプレイメイトとが乳繰り合う場面や、ジャングルの奥に密かに住み続けるフランス人入植者たちを描いた追加シーンはとりたてて魅力的には思えず、何よりもその余りの長さに(映画館の椅子に座り続けなければならない肉体的なものを含めて)苦痛を覚えた程だった。

 

 その後しばらく経って、再びDVDでこの作品を見直そうとしたことがあるのだが、当時レンタルでは長い方の「特別完全版」を借りるしか選択肢がなく、この映画の標準ヴァージョンがもはや「劇場公開版」ではなく、いつしか「特別完全版」に変わっていることに初めて気づいたのだった。

 そして自分が最初に接した「劇場公開版」がどうしても見たいばかりに、その後滞在した英国で新旧両ヴァージョンの収録されている上記PAL版(コレクターズ・エディション)DVDを購入したのだが、ややこしく難解な台詞の多いこの作品を、(当然聞き取れないので)英語字幕を頼りに見ることは私にとってそう容易なことではなく(要は最後まで見終えることが出来なかったのである)、結局この作品を改めて全編通して見ることが出来たのは、その後日本に戻ってテレビ放映されていた「特別完全版」を録画してからのことに過ぎない。

 

 ちなみに日本では今、「特別完全版」だけでなく「劇場公開版」も廉価DVDで購入することが出来るが、主要DVDレンタルでは依然として「特別完全版」を借りるしか選択肢がないままである。

 

 前置きがすっかり長くなってしまったが、公開40周年を迎える今年、この作品の新たなヴァージョンである「地獄の黙示録 ファイナルカット」(原題: Apocalypse Now Final Cut)がニューヨークで初公開され、このほど米国などでは4K Ultra HD BlurayやDVDなどのソフトも発売されることになった(日本語の紹介記事→https://news.militaryblog.jp/web/Apocalypse-Now-Final-Cut-4K-Ultra-HD.html。予告編の動画は→https://www.youtube.com/watch?v=9l-ViOOFH-s。日本版の発売は未定→その後2020年6月に「地獄の黙示録 ファイナル・カット 4K Ultra HD+Blu-ray」が発売された。ただしファイナル・カット版しか収録されていないにもかかわらず価格がバカ高いということで評判は至って悪いようである。画質や音質の程は分からないものの、Amazon Prime Videoでも視聴可能→

https://www.amazon.co.jp/%E5%9C%B0%E7%8D%84%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2-%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88-%E5%AD%97%E5%B9%95%E7%89%88-4K-UHD/dp/B08749XV5N/ref=sr_1_4?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%9C%B0%E7%8D%84%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2+%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88&qid=1600084599&sr=8-4)。

 

 上記の記事によれば、今作は「特別完全版」から20分ほど削除した183分という長さで、オリジナル・ネガフィルムのクリーニング・修復を経て4K画質でデジタル化され、音響面でも最新技術を用いて再編集されているとのことである。

 私が普段利用している英国AmazonでもDVDとBluray版が9月に発売になる予定で(Blurayはコレクターズ・エディションで「劇場公開版」や「特別完全版」も収録される→https://www.amazon.co.uk/Apocalypse-Now-Final-Cut-Collectors/dp/B07SDPY416/ref=tmm_blu_swatch_0?_encoding=UTF8&coliid=I3A2F8T5P8SPQY&colid=24JC2BI2YNV7B&qid=&sr=)、先日予約注文したばかりのザ・ビートルズの「Abbey Road」50周年盤と併せて、この「ファイナルカット版」DVDを追加注文するかどうか迷っているところである。

 もっとも上のPAL版DVDすら最後まで見通せずにいる私が、英語字幕がついているかどうかもはっきりしない(英Amazonのページでは字幕に関する記載がない)ものを慌てて買っても、果たして最後まで見るか(見通せるか)どうかすら分からず、結局はしばらく様子見することになりそうである。

 

 こうしてひとつの作品について幾つもの別ヴァージョンが作られるのは、SF映画の傑作「ブレードランナー」(1982年)などと似た現象だと言えるが、「ブレードランナー」の場合、一般観客を意識し過ぎてハリソン・フォードによる説明調のナレーションが加えられた「劇場公開版」よりも、監督のリドリー・スコットが当初意図した形で再編集された「ディレクターズ・カット(最終版)」の方が明らかに優れており、後には画質向上や矛盾点改善のため更に再々編集された「ファイナル・カット」なるヴァージョンまで作られることになった(いずれのヴァージョンも現在レンタル、セルのいずれでも入手可)。

 それに対して「地獄の黙示録 特別完全版」は、上記の通り、劇場公開時には削除されていた(無駄な)シーンを修復したことでかえって冗長になってしまったとも言え、その意味ではやはり画質や音響面での改善は見られはするものの、単にオリジナル版(158分)に削除シーンが加えられて長くなっただけと言っていい「アマデウス」(1984年)の「ディレクターズ・カット」(180分)に近いと言えるだろう。

 今回の「ファイナルカット版」は、上述のように「特別完全版」よりも20分ほど短めになっているため多少なりとも冗長さが緩和されているかも知れないが、フランス人植民者のシーンなどは今作でもそのまま残されているらしく、何と言っても依然として3時間超の長尺である。

 やはりまずは上記英国PAL版を鑑賞してみて、英語字幕だけで最後まで見通せるかどうかを確認した上で購入の有無を決めた方が良さそうである(そもそも私の持っているオンボロDVDプレイヤーでは言うまでもなく4K Blurayは視聴すらできず、我が家でも再生可能なDVD版を買ってみても映像的なメリットはほとんど得られないに違いない)。

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 この間に見た映画は、

・「花筐/HANAGATAMI(2017年)」(大林宣彦監督) 2.0点(IMDb 6.9) インターネットで視聴
 檀一雄原作(未読)。
 ある時期からこの監督が撮る作品で、わざとらしく稚拙な演技、粗雑な画面の切り替え、(太鼓のような)おどけて奇矯な効果音(そして過剰なまでの音楽)、稚拙なCG処理などが多用されるようになり、すっかり見る気が失せてしまった。実際、今作以前の作品で私の見た一番新しい大林作品は、もともとテレビ・ドラマとして作られた2004年の「理由」で、その直前も1992年の「青春デンデケデケデケ」まで遡らなければならない。

 つまりこの27年間で大林作品は2本しか見ていないことになる。先日もブログで触れた「わが人生の1本」の「転校生」を撮った監督に対して、これは余りに冷たい仕打ちだと言えるだろうが、しかし実際のところ、「青春デンデケデケデケ」を最後に、時間とお金をはたいてまで見たいと思わせる作品は皆無だったと言うしかないのだ。

 それはちょうど、もうひとつの「わが人生の1本」である「ベルリン・天使の詩」(1987年)を撮ったヴィム・ヴェンダースの場合と似ている。1974年の「都会のアリス」から「ベルリン・天使の詩」に至るまでの作品はほとんど鑑賞し/かつ高く評価していたにもかかわらず、それ以降現在までの32年間で見た作品は「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」などわずか数本しかない(しかもその記憶すらほとんど曖昧である)。つまりこの2人の監督は、私にとってはそのピークをとうに過ぎた、完全に過去の人でしかないのだ。

 今作も上記の演出手法はほとんど同じままで、あたかも黒澤明の晩年の作品(特に「夢」や「まあだだよ」)を見てしまった時の当惑にも似て、見たこと自体を記憶から消し去ってしまいたくなる程なのである。

 特に今作では俳優たちのわざとらしい台詞回しや、(檀一雄の原作にはないらしい)薄っぺらな反戦メッセージ、まるで下手な素人が担当したようなCG合成場面、出鱈目な遠近法などなど、どうして此処まで奇を衒った演出が必要なのか、私にはさっぱり理解できない(なにか無理やり初期作品のような実験を試みているように見えるのだが、さすがにこの歳になると痛々しいだけである)。

 その他、とても高校生には見えない年を食った男性俳優陣の起用や、メイン・キャストを演ずる女優2人が身につける肌襦袢のようなものの奇妙さ(別にヌードを見せろと言う気はないが、あんな変なものをつけさせてまで裸のシーンを撮る必要があるのだろうか)、ただダラダラと長い(168分!)だけの弛緩した演出、謡曲とはとても思えない歌唱法と調子っ外れの音程で歌われる聞くに耐えない「花筐」の場面など、監督が末期癌に冒されて今作が遺作になるかも知れない(今度新作が公開されるらしいので、今となっては「なるかも知れなかった」)からと言って、こんなものを無理やり高く評価してしまう日本映画界なるものが、私にはやはりただただ痛ましく思えるだけである。