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 2019年2月17日(日)
 またまた訃報だが、スイス人俳優のブルーノ・ガンツが亡くなった(16日死去、享年満77歳)。
 初めてこの俳優の名前をはっきりと記憶に留めたのは、ご多分に漏れずヴィム・ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」(1987年、写真3枚目)だったが、しかし初めて彼の演技を見たのはどの映画でだったろうか。テレビで放映されているのを偶然見たアラン・タネールの「白い町で」(1983年、写真1枚目)だったか、そもそも「ベルリン・天使の詩」を先に見たのか、「アメリカの友人」(1977年、写真2枚目)の方が先だったのかももはや定かではない。ともあれ、私にとってはブルーノ・ガンツという俳優の名前は、小津安二郎やアンドレイ・タルコフスキー、そして刑事コロンボことピーター・フォークなどと共に、ひとりの「天使」として記憶に刻み込まれることになった。
 むろん彼の出演作は他にも何作も見てきた。彼が出ていたことすらすっかり忘れていた作品もあるものの、例えばロメールの「O侯爵夫人」(1976年)、「ブラジルから来た少年」(1978年)、ヴェルナー・ヘルツォークの「ノスフェラトゥ」(1979年)、「ベルリン・天使の詩」の続編である「時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!」(1993年)、テオ・アンゲロプロスの「永遠と一日」(1998年)、「ヒトラー~最期の12日間~」(2004年、写真4枚目)、ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」を映画化した「愛を読むひと」(2008年)などなどである。
 中でも「ベルリン・天使の詩」に10代の私はすっかり惚れ込み、公開時だけで少なくとも3回、その後まもなく滞在したパリでも2度は劇場に足を運んで見たのを覚えているし、ブルーノ・ガンツが朗読するペーター・ハントケの詩(あるいは詩的な台詞)を含むサウンドトラックCDも長く愛聴したものである。にもかかわらず、4年半もいたロンドン滞在中もとうとうベルリンという「聖地」を訪れてみなかったのはまさに一生の痛恨事と言っていい。

 この映画に関してはひとつ苦い(?)思い出があり、ある時、ロンドンで一緒に働いていたドイツ人の同僚に今作のDVDを貸したことがあった。ドイツ映画で好きなものということで、真っ先に思い浮かんだのがこの作品だったからだが、しかし数日してDVDを返しに来たこの同僚は、驚くほどはっきりした口調で、こういう映画は嫌いだと言ったのだった。その同僚は決してエンタテインメント映画ばかり好むようなタイプではなく、文学書なども幅広く読んでいるようだったから、詩人ペーター・ハントケの美しいドイツ語(だと思う)の台詞によるこの作品を、たとえ絶讃することがないとしてもそれなりに評価してくれると思っていたのだが、実際にはそれ以上ないような激しい酷評が返って来た訳だ。私はしばし言葉を失い、ただ意味もなく微笑を浮かべながらDVDを受け取ったのだが、「こういう映画」という言葉の意味を詳しく訊いておくのだったと今更ながら後悔している。
 確かにこの映画の結末はひどく甘ったるいし、頭が禿げかかって見た目のパッとしない中年男(天使)と、やはりそれほど美人とも思えない中年にさしかかった女性(ソルヴェーグ・ドマルタン。彼女はもう10年以上も前に45歳という若さで亡くなってしまった)との、ほとんど運命的な恋の描写は、この映画をこよなく愛する私にとってもかなり気恥ずかしく、どちらかと言えば「余計」な部分ですらある。むしろ私は、人間の内心の声が聞こえてしまう天使たちや、彼らが口ずさむ哲学的かつ詩的な言葉、そしてベルリンの図書館でぶつぶつと過去の追憶を語る老詩人ホメロスの声、映画撮影でベルリンを訪れていたコロンボ(ピーター・フォーク)が思わず口にする意外な言葉、天使たちが戦勝記念塔などから見下ろすベルリンの街並み、自ら人間となることを選んだ天使が「世界」の事物に直接触れて感動する場面などに惹かれたのだったが、あるいはこの同僚はそうしたものよりも、後半部の甘ったるい恋愛話に辟易したのかも知れなかった。しかし私は自分の愛好する映画を嫌いだと言われても少しも不快な気分は覚えず、しばらく放心するように押し黙った後で、その同僚のきっぱりとした物言いに思わず笑い出しそうになったことを覚えている。

 ブルーノ・ガンツの出演作には、ペーター・ハントケが自ら監督した「左利きの女」(1978年)や、テオ・アンゲロプロスの遺作である「エレニの帰郷」(原題:The Dust of Time)、ビレ・アウグストの「リスボンに誘われて」(2013年)、アトム・エゴヤンの「手紙は憶えている」(2015年)、ラース・フォン・トリアーの「ザ・ハウス・ザット・ジャック・ビルト」(2018年)など、私が見ていないものがまだいくつも残されている。見たことはあるものの、すっかり内容を忘れてしまっている作品も含めて、この「天使」の姿を再び目に焼き付けるために、少しずつ彼の出演作を見ていきたいと思っている。

 謹んで故人の死を心から悼み、その冥福を祈るのみである。


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(追記)
 ついでで申し訳ないが、映画監督の佐藤純彌も9日に死去したそうである(享年満86歳)。
 私の世代にとっては何と言っても角川映画&森村誠一モノの「人間の証明」(1977年)と「野性の証明」(1978年)の監督として記憶に残っているのだが(いずれも映画としての出来は可もなく不可もないものだが、両作の主題歌ともども、個人的には決して嫌いではない→https://www.youtube.com/watch?v=j8uklD3_ywA
https://www.youtube.com/watch?v=I8xOHAdctoE)、映画作品としての完成度からすれば、むしろその数年前に作られた「新幹線大爆破」(1975年)こそが代表作だと言っていいだろう。
 もっともそれ以前の作品は、中国で大ヒットしたという「君よ憤怒の河を渉れ」(1976年)を含めてひとつも見たことがないし、上記2作品以降にしてもまともに見たことがあるのは「植村直己物語」(1986年)のみで、そこそこ話題になった「敦煌」(1988年)や「おろしや国酔夢譚」(1992年)、「男たちの大和/YAMATO」(2005年)なども見てはいない(おそらくこれからも見ることはないだろう)ため、これはあくまで私の勝手な意見でしかない。
 ともあれ、故人の死を悼み、冥福を祈るのみである。

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 この間に読んだ本は、 

・スティーヴン・キング「シャイニング」(文春文庫版)
 これまでキューブリック版の映画は何度となく見てきたものの、原作を読むのは今回が初めてである。映画版が主人公ジャックの狂気に焦点が置かれているのに対し(有名な「All work and no play makes Jack a dull boy」という諺がタイプされている場面も原作にはない)、原作は「幽霊屋敷」としてのホテルそのものに焦点が置かれており、さらに主人公が幽霊屋敷に操られながらも最後は家族のために自らを犠牲にする場面など、如何にもアメリカ的な「家族愛」が重要なテーマになっている点も映画とは対照的である。
 また映画版では、同じ「かがやき」(★)を持つことで少年ダニーと精神的な交流を持つに至った黒人の料理人ハローランが、危機に陥った親子を助けるべく休暇先のフロリダから遠路はるばる厳冬のホテルへと戻っていきながら、主人公ジャックに呆気なく惨殺されてしまうのだが、原作では一命をとりとめて母子を救い出すのも、この殺伐とした物語において一点の救いとなっていると言っていい。

《★なぜか小説の題名は「シャイニング」となっているのに、日本語訳本文中の「かがやき」には「シャイニング」というルビは振られておらず、英語を知らない読者には不親切である。他にも「かぶとむし」(フォルクスワーゲン・ビートルのこと)など、日本語表記だけでは分かりづらい言葉がこの日本語訳には散見された。》

 最後に家族愛や希望を見出しうる原作を好むか、それとも終始心理的にじわじわと観客を怖がらせることに腐心する映画版を好むかは人それぞれの好みによるだろうが、これだけの長い作品を緊張感とリーダビリティを保ちながら読ませるスティーヴン・キングの文章力はやはり並大抵のものではないと改めて感じ入った(ただしそれでもやはり「長過ぎる」という感想は否めない)。
 また、これは映画を見た時にも思ったことだが、日本語表記で「レッドラム」→「マーダー」程度の分かりづらさがあるならまだしも、アルファベット表記で「REDRUM」→「MURDER」というような単純極まりない連想は、たとえこの言葉を目にして母親にその意味を尋ねるダニー少年がまだ字もろくに読めない設定であるにしても余りに幼稚過ぎ、スティーヴン・キングほどの作家にしては芸がなさすぎると言うしかないだろう(これは横溝正史の「犬神家の一族」における「すけきよ」→「よき(けす)」という謎解きと同じくらい痛々しいと言える)。

・車谷長吉「鹽壺の匙」(新潮文庫)
 著者の作品はこれまでにもかなり多く読んで来たつもりだが、このデビュー作だけはずっと未読のままだった。その最大の理由はおそらくこの本に収録されている最初の何編か(「なんまんだあ絵」や「白桃」、「愚か者」)がたまたま私の好みに合致しなかったためだろうと思うのだが、実際今回全編を通読してみても、これら3編は後半の作品とはかなり趣が異なり、正直今も掴みどころがないままである。
 一方で後半の3編(「萬蔵の場合」、「吃りの父が歌った軍歌」、「鹽壺の匙」)は後の車谷長吉の作風を既に予見させるもので、むしろその濃縮されたエキスそのものが垣間見れると言っていい。また車谷の言う「私小説」が基本的に事実に基づいているものだと仮定するならば、この作家の持つ強烈なまでのプライド(とその反射物としての劣等感)や、ひとたびそれが傷つけられた際に彼が示すほとんど動物的とも言える暴力性が、他者や社会に対する遠慮が見られない幼年期において、むしろより一層苛烈で容赦ないものだったことが分かり、衝撃的ですらある。
 しかし車谷作品の魅力はそうした露悪的な描写にあるのではなく、おそらく若くしてドイツ文学やニーチェの哲学などに親しんだことによる鋭利なまでの思想性・哲学性と、それとはどこか相容れないような透みきった叙情性にあると言っていい(そして反対に言えば、文学や哲学との出会いがなければ、この人は間違いなく凶悪な犯罪者になっていただろう)。さらに極めて精密かつ冷徹な視線・記憶による幼時のなにげない風景や草花の描写も、あるいはそれらは実際には後に「創作」されたものであるかも知れないが、文章に深い陰影とリアリティとをもたらしていてしばしばハッとさせられる。
 ちなみに新潮文庫版の225ページ(「吃りの父が歌った軍歌」)で語り手の母親の「得意」話として語られる「天邪鬼の鴉」の話は、韓国の昔話にある「青蛙」(今ではこの言葉が「天邪鬼」の意味で用いられている程である)の話にそっくりなのだが、インターネットで検索してみても同種の(日本の)昔話に触れたページを見つけることは出来なかった。あるいは彼の母親はどこかで韓国の昔話を聴いて覚えていたのだろうか。

 映画やドラマは、

・「シャイニング(1997年)」(ミック・ギャリス監督) 3.0点(IMDb 6.1) 日本版DVDで視聴
 原作者のスティーヴン・キングがキューブリック版の映画に大いに不満を覚え、自ら脚本を書いて製作したテレビドラマ版ということもあって、今作は原作にかなり忠実な内容となっている。
 しかしその分、ホテルの庭にある動物を形どった植木が主人公たちを襲う場面などは、中途半端に映像化するとひどく陳腐になってしまい、作者の意図とは反対に作品のリアリティを損なう結果になってしまっている(おそらくだからこそキューブリックはそうした場面をバッサリ削除してしまったのだろう。そしてこのことは後の「IT」の映像化などでも同様で、悪の権化である怪物が具体的に映像化されてしまうと如何にも陳腐化して見ている側は白けてしまうだけなのである)。
 そしてこのドラマ版も完全に原作通りという訳ではなく、暴力シーンなどが減らされている半面、「家族愛」については原作以上に強調されていて、如何にもアメリカ的な作風になっている。それを良しとするかどうかは、やはり見る側の好みによるだろうが、途中まではかなり細かく原作を再現しているにもかかわらず、時間や気力でも不足したせいか結末部分がやや駆け足気味な点も惜しまれる。

 また、先日読んだロアルド・ダールの「Fantastic Mr.Fox」の映画版を再見してみた。
・「ファンタスティック Mr.Fox(2009年)」(ウェス・アンダーソン監督) 3.5点(IMDb 7.9) 英国版DVDで再見
 極めてシンプルな作りの原作をかなり脚色して膨らませ、ウェス・アンダーソンらしいウィットとアイロニーのきいた作品に巧みに仕上げている。ストップ・アニメーションのぎこちない動きを逆手にとって各キャラクターに滑稽さを醸し出させ、いつもながら絶妙な音楽(既存曲の選曲も含めて)でテンポ良く物語を進めていき、観客に途中で息つく暇も与えない。いささか都合の良い話の展開は原作譲りだと言っていいが、それを不自然さを感じさせずに自家薬籠中のものに仕立て上げる手腕はさすがで、ウェス・アンダーソンのアニメーション作品としては、先日見た「犬ケ島」よりも今作の方が遙かに優れていると言える。

 その他、過去に何度も見ている映画を何作か(特に理由もなく)見直してみた。


・「ガープの世界(1982年)」(ジョージ・ロイ・ヒル監督) 4.0点(IMDb 7.2) 日本版DVDで再見
 かなり甘めだが、4点を献上。主題歌がザ・ビートルズの「When I'm Sixty-Four」であることを突き止めるためにあれこれ探し回ったことを含め(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502038134.html)、初めて見たときから今作は私にとって極めて思い入れのある作品であり、(映画より遙かに優れている)原作ともども、最も好きな映画・小説作品のひとつだと言っていい。


・「タクシードライバー(1976年)」(マーティン・スコセッシ監督) 4.0点(IMDb 8.3) テレビ録画したものを再見
 20年ほど前、そこから歩いてわずか数分の場所にあるアパートに住み、毎日のようにその前を歩いて通勤していたにもかかわらず、今作に出て来るパランタイン上院議員の選挙事務所や演説場所が、セントラル・パーク南端に位置するコロンバス・サークルであることに今回初めて気付いた。それほど長い間見返していなかったというだけかも知れないが、今作の舞台であることを知りながらコロンバス・サークルに立ってみたかったと今更ながら後悔(?)しているところである。


・「セルピコ(1973年)」(シドニー・ルメット監督) 3.0点(IMDb 7.8) 日本版DVDで再見
 一時期アル・パチーノという俳優が好きで出演作をあれこれ見てみたことがあったのだが、今作は「狼たちの午後」や「ジャスティス」などと共にお気に入りの一本だった。アル・パチーノの終始当惑したような表情は印象的だし、トニー・ロバーツやジョン・ランドルフなどの脇役も良い味を出しているのだが、今見直すと映画としては全体に盛り上がりに欠け、主人公のセルピコが銃弾を受ける場面の意味合いも曖昧で、警察機構の腐敗を糾弾する内容にしてはどこか中途半端な印象を抱いてしまった。


・「幸福の黄色いハンカチ(1977年)」(山田洋次監督) 4.0点(IMDb 7.5) 日本版DVDで再見
 甘すぎるとは知りつつ(私の中ではほぼ最高点と言っていい←実際は4.5点が最高点であり、5点をつけることはまずありえない)4点を献上。
 演出はベタだし、佐藤勝の音楽もひどくありきたりだったりするものの、やはり今作は日本版ロードムーヴィーとして決して外せない名作である。主演が高倉健だからこそ成立する物語であり、脇役の武田鉄矢のわざとらしさや、観客に迎合した予定調和的であからさまな展開に違和感を覚えないでもないし、演出的にも傑出したものがある訳ではないのだが(とは言え凡百の人間には山田洋次以上に巧みに撮ることもまた出来ないだろう)、それでも今回もまんまと涙腺を幾度となくゆるまさせられてしまった。
 そして今作における夕張の炭鉱街を映したなにげない場面などは、日本の古い街並みや炭鉱で働く人々の生活をフィルムに焼き付けたものとして、今となっては貴重な記録であるに違いない。


・「遙かなる山の呼び声(1980年)」(山田洋次監督) 4.0点(IMDb 7.9) 日本版DVDで再見
 山田洋次が脚本に参加している「砂の器」などと同じ安易な字幕の多用や、高倉健のプロモーション・ヴィデオまがいのスローモーション場面を除けば、ほとんど間然するところのない傑作である。おそらく今作は山田洋次のキャリアにおいて最高作に位置すると言っても決して間違いではないだろう。北海道の自然を映し出した高羽哲夫の美しい映像も素晴らしいが、あえて人物の表情を写さなかったり、別ショットを会話などの途中で挿入するなど、画面作りにも細密な気配りと考慮がなされていることが見て取れる。

 通俗かつ下品な人物として描かれるハナ肇が、最後の最後で(意図的ではあるだろうが演技自体はひどくクサイ)一気に「株を上げる」逆転劇も痛快である。佐藤勝の音楽も感情を前面に押し出さず、前作に比べて格段に良い。高倉健の不器用な演技も(これは前作でも良かったのだが)今作には実によく合っており、端役ではあるが、兄役の鈴木瑞穂や護送役の下川辰平、前作でも警官を演じていた笠井一彦などの何気ない脇役もさりげなく光っている。

・「ビートルズ/イエロー・サブマリン(1968年)」(ジョージ・ダニング監督) 3.5点(IMDb 7.4) 日本版DVDで視聴
 今からすれば余りにベタで直接的なメッセージに満ちみちた作品であるにもかかわらず、それでも最後になぜか感動させられてしまうのは、単に私がザ・ビートルズ好きだからなのか、それとも当時はまだそうしたメッセージにそれなりの説得力や真実味があったからなのかよく分からないままなのだが、おそらく今作の独特な色彩感覚や絵柄、そして(言うまでもなく)音楽が素晴らしいからであることは間違いない。そしてそれらが絶妙に合わさって一種の魔法(幻覚?)にかけられ、今となっては陳腐であるはずのメッセージさえもが私のすさんだ心にもちょっとだけ「響いて来る」のである。この作品の音楽が、孤独のうちにひっそりと死んでいく人間の悲哀に彩られた「Eleanor Rigby」から始まり、「それでは皆さん御一緒に」という脳天気な「All Together Now」で締めくくられるのも、その魔法を作り出すのに一役買っている。