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 2018年7月20日(金)
 日本では連日激しい暑さが続いているようだが、そんな中、黒澤明や野村芳太郎などの監督作品で脚本を担当し、自らも「私は貝になりたい」などを監督した橋本忍氏の訃報が伝わってきた(7月19日逝去、享年満100歳)。
 100歳という年齢、そして同氏の過去の華々しい業績を振り返れば、まさに「大往生」と言っていいだろう。
  
 まず同氏の代表的な脚本作品をあげておくことにしたい(日本版Wikipediaを参照した)。題名、公開年度、監督名の順である。
 ★印がついているのは橋本氏の単独脚本作品。
 最後に*印をつけたものは原作のある作品=脚色作品である。

・羅生門(1950年、黒澤明)*
・生きる(1952年、黒澤明)
・七人の侍(1954年、黒澤明)
・生きものの記録(1955年、黒澤明)
・蜘蛛巣城(1957年、黒澤明)*
★張込み(1958年、野村芳太郎)*
★鰯雲(1958年、成瀬巳喜男)*
・隠し砦の三悪人(1958年、黒澤明)
★黒い画集 あるサラリーマンの証言(1960年、堀川弘通)*
・悪い奴ほどよく眠る(1960年、黒澤明)
・ゼロの焦点(1961年、野村芳太郎)*
★切腹(1962年、小林正樹)*
★白と黒(1963年、堀川弘通)
★仇討(1964年、今井正)
★侍(1965年、岡本喜八)*
★霧の旗(1965年、山田洋次)*
★大菩薩峠(1966年、岡本喜八)*
★白い巨塔(1966年、山本薩夫)*
★上意討ち 拝領妻始末(1967年、小林正樹)*
★日本のいちばん長い日(1967年、岡本喜八)*
・風林火山(1969年、稲垣浩)*
★影の車(1970年、野村芳太郎)*
・どですかでん(1970年、黒澤明)
★日本沈没(1973年、森谷司郎)*
・砂の器(1974年、野村芳太郎)*
★八甲田山(1977年、森谷司郎)*
★八つ墓村(1977年、野村芳太郎)*

 また、監督作品としては、
★私は貝になりたい(1959年)
★幻の湖(1982年)橋本忍自らの原作・脚本
 などがある。

 これを見ても分かる通り、橋本忍という脚本家は、原作を脚色して脚本にすることに長けていた人であり、オリジナル作品を単独で脚本化した作品は、上のリストでは「白と黒」と「仇討」の2作と、自ら監督も務めた最後の2作しかない。むろんそのことは橋本忍という脚本家の才能を貶める訳ではなく、これだけ数多くの名作・傑作に関わっていた実績はほとんど稀有のものだと言っていい。全部で8作に及ぶ、傑作揃いの黒澤明作品の脚本作りに参加していたことだけでも特筆に値するが、松本清張原作の「張込み」や「黒い画集 あるサラリーマンの証言」、主演の仲代達矢の代表作の一つと言っていい「切腹」や、1945年の「終戦」が様々な勢力の攻防の果てに成立した実に危ういものであったことを見事に描ききった「日本のいちばん長い日」など、日本映画を代表すると言っても過言ではない傑作・問題作をものしていることによっても映画史に確固たる軌跡を刻んでいると言えるだろう。

 そんな「名匠」も、鳴り物入りで自らの原作を映画化した「幻の湖」では、(おそらくほとんどの)観客を煙に巻くような奇想天外な物語を展開して歴史的「大コケ」をもたらしてしまった結果、映画製作から退くことになってしまうのだが、それから20年を経た2000年代になってこの作品はDVD化され、一部の映画マニアの間でカルト的な注目(さすがに「人気」とまでは言えないだろうが)を浴び、今となってはこの失点すらも「ご愛嬌」だと笑って済ますことが出来るかも知れない(以前このブログで、いずれこの「幻の湖」の感想をアップするつもりだと書いたのだが、未だに実践できていない上、映画の内容すらすっかり忘れてしまった始末である。しかも正直2度と見直したいとも思わない「トンデモ作品」だと思ったことだけは忘れられずにいる)。

 上記の作品のうち、私が同時代に劇場で見た作品は1977年の「八つ墓村」だけなのだが、これは金田一耕助を「寅さん」渥美清が演ずるという異色作(しかも金田一耕助はほとんど登場せず、事件の解決にあたっても大した活躍をしていない)だったが、芥川也寸志の哀愁をおびた音楽や、ホラー映画ばりのおどろおどろしい演出、そして当時10歳のガキだった私の目にも山本陽子や中野良子といった女性陣の美しさはひときわ印象的で、横溝正史の金田一耕助シリーズの映画化作品としては、前年の1976年に封切られた「犬神家の一族」や、同じ1977年公開の「悪魔の手毬唄」などと共に大好きな1本である。

 ありきたりな言い方だが、これでまた日本映画史の巨星のひとつが堕ちたと言っていい淋しいニュースであり、故人の冥福を心より祈るのみである。

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 この間に読んだ本は、
 

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・ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」全4巻(集英社文庫)
 今年の6月16日にいわゆる「ブルームズ・デイ」について簡単に触れたことをきっかけに、改めて20世紀を代表する小説のひとつと称されるこの作品に挑戦してみた。確かこれが同じ訳者たちによる旧訳版(河出書房新社版)を含めて3度目の挑戦であるが、今回ようやく最後まで通読することが出来た。
 前回挑戦時と同様、丹治愛氏とともに旧訳のチェックを担当したという結城英雄氏による「『ユリシーズ』の謎を歩く」を参照しながらの読書だったのだが、加えて今回は、出来るだけダブリン市内の地図を詳細に参照しながら、登場人物たちの行動を地理的にも追うことにして読み進めていった(前回はこの作業が面倒に思えて端から実践しなかったのだが、結果的に通りの名前などが出てくるたびに煩しく感じられるようになってしまい、読書自体を放棄する一因になってしまったような気がしている)。
 通読したとは言っても、集英社文庫版の第3巻に収録されている「第14挿話 太陽神の牛」と「第15挿話 キルケ」にはかなり難渋させられ、特に前者は私自身の古文読解能力の欠如によって、内容を追うことすら困難な箇所が幾つもあった。原文が古代の英語から現代の話し言葉に至るまでの文体のパロディになっているらしいのを、やはり日本の古代から近代までの作品の文体を模した訳文に仕立てている丸谷才一氏の面目躍如たる素晴らしい翻訳に違いないのだが、しかし自分自身の無知や無能を顧みずにあえて言うならば、この翻訳の仕方は正直やりすぎとしか思えず、かなりの読者が私同様、英語ではなく他ならぬ日本語の壁によって本作を十全に理解できない結果を招いてしまっている。
 一旦通読しはしたものの、作品のより良い理解のために、現在ざっくりとではあるが、改めて全体を最初から読み直しているところで、特にこの「太陽神の牛」と「キルケ」だけは詳細に読み直さなければならないと思っている。


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 今作は、もうひとつの20世紀を代表する作品だと言われるプルーストの「失われた時を求めて」とは趣を全く異にしてはいるものの、やはり作者自身の過去の「記憶」を、より偏執狂的かつ百科事典的な徹底した方法によって再構築しようとする試みだと言ってしまっていいだろう。バルザックによるいわゆる「人物再登場法」を更に突き詰め、わずか1日という時間の枠組みの中に、作中人物たちの現在と過去を縦横に交錯させ、他の追随を許さないような複雑で緻密な「群像劇」を作り上げていて(しかも空間的・時間的には単に「ユリシーズ」にとどまらず、過去の作品である「ダブリン市民」や「若き芸術家の肖像」とも密接に連関している)、まさにいくら掘り下げて行っても尽きることのない宝庫のような作品になっていると言っていい。
 プルーストの「失われた時を求めて」を読んだ時にも思ったことだが、20世紀を代表するこれらの作品に登場する人物たちは、それ以前の文学作品に登場する人物たちに比べて、如何にも卑小かつ惨めったらしく、今作に出てくるレオポルド・ブルームなどは、海岸で若い娘の体を遠目に眺めながら自慰行為に至るなど、卑小なる登場人物の最たるものだと言っていいだろう。それもまた20世紀(の初頭)という時代をこれらの作者たちが冷徹に見つめた結果なのかも知れないが、これらの作品を「名作」や「傑作」だと称して大っぴらに人に勧めづらいというのも、如何にも20世紀らしいと言っていいかも知れない。
 ともあれ個人的には、その文体や人物の視点の多様な移り変わりなどから作品世界により広がりの感じられる今作の方が、プルーストの「失われた時を求めて」などよりも遙かに「面白く」読めたことは確かで、今作(あるいはジェイムズ・ジョイスという作家)に取り憑かれてしまう研究者の気持ちが理解できないでもない。願わくは、いつしか念願の「ダブリン詣で」を実現させ、スティーヴン・デダラス(なぜ訳者たちがあえて「ディーダラス」という表記に固執したのか理解できない)やレオポルド・ブルームがさまよった通りや海岸、飲食店などを、自分の足で訪ね歩いてみたいものである。

 上記の「やりすぎ」を除けば、翻訳に関しては文句のつけようがないのだが、編集上の問題点をあげておくなら、巻末の訳注において、既出の人物等に関して「第○挿話参照」や「前出」といった記述があるだけで、具体的にどのページなのかという記載がなく、ただでさえ訳注の量は多く、該当部分を探そうにも膨大な時間がかかってしまい、ひどく不親切に感じざるをえなかった(私は結局、途中で過去の訳注を参照すること自体を諦めてしまった)。
 また文庫版の第1巻の巻末には登場人物一覧が掲載されているのだが、2巻以降に進むといちいち第1巻を参照しなければならず、これまた不便この上なかった。多少ページ数はかさんでも、この一覧を全巻につけるか、当該の巻に登場する人物だけでも別途まとめて載せて欲しかったものである。

 今作は過去にも何種類かの日本語訳が出ているが、現在手軽に手に取れるのはこの集英社文庫版と、惜しくも訳者の逝去によって途中で中断してしまった柳瀬尚紀氏の個人訳(12挿話まで。残りの挿話についても一部は草稿などが別途、出版されている)しかない。正直、訳注の一切ない柳瀬尚紀氏の翻訳は、その意図は理解できなくはないものの、実際に素人の読者が読み進めていくには大いに困難を伴うものであり、今回の通読にあたってお世話になった結城英雄氏による個人全訳の刊行を大いに期待したいところである。

・羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」(文藝春秋)
 これまた、日本人の知人から譲ってもらった本の中に含まれていた芥川賞受賞作だが、主題、文体、プロット、ユーモア、結末のいずれを取っても堅実で決して悪くはない。介護のドロドロした描写はあえて極力抑え、絶えず「死にたい」と繰り言のように口にしながら、実際には誰よりも生にしがみついている(戦争中の過去について巧みに嘘まで交えて自己肯定や自己神話化を怠らないなど念入りこの上ない)祖父と、「賢く巧みに生きる」ための方法論や祖父のような最期を迎えないための効果的で前向きな筋力トレーニング術など、マニュアル本やネットから情報収集して実践することに血道をあげ、小賢しいまでに現実的な生き方に拘泥しながらも、その実は限りなく脆くあやういその日暮らしの生を生きている主人公の生を対比させる方法論もあざといまでに巧みである。
 しかし文学というものには、もう少し不器用ではあっても、より突き抜けて人間存在の深奥に迫るような嫌らしさやくどさ、体臭などが必要なのではないかとも思わせられる作品である。そのため、平均点は十分に超えてはいるものの、優等生の書いた模範的作品という範疇から抜け出せられないという印象を拭いきれなかった。

 映画やドラマは、

・「新感染 ファイナル・エクスプレス(2016年)原題:釜山行」(ヨン・サンホ監督) 3.0点(IMDb 6.6) Amazon Prime Videoで視聴(日本語字幕付き)
 Amazonで週末限定100円というので視聴してみた。
 以前からゾンビ好きの間ではひどく評判が良く、それなりに期待して視聴したのだが(もっとも私はゾンビ好きでもなんでもない)、実際に見てみるととりたてて特筆すべき点はなく、平均的な出来だと言うしかない。何よりもゾンビが(なぜか)少しも怖くなく、せっかく高速鉄道「KTX」(変テコな邦題は「新幹線」と「感染」を引っ掛けたダジャレになっている)を舞台にしているにもかかわらずスピード感がほとんど感じられず、同じことは物語の展開の仕方にも言えて、全体にノロノロとした展開で、スリルやサスペンスが全く感じられないのである。
 また細かいことを言えば、主人公のワイシャツなどに付着した血の色が、昔の映画に出てくる不出来な血糊のようでひどく不自然だったり、感染から発症までの時間が人によって(要するに映画の展開にあわせたように)ひどくばらつきがあるなど、説得力に欠ける点が多いのも気になってしまった。
 また、韓国映画らしいと言えば言えるのだが、極めて情緒的でウェットな展開が少なくなく、ゾンビ映画として見ると少々やりすぎの感は否めず、鼻白む場面が多かった点も残念である。

・ドラマ「あにいもうと」山田洋次脚本 インターネットで視聴
 室生犀星原作。過去にも何度も映画化やドラマ化されたことがある作品で(映画だけで3度も作られている。しかも戦前の木村荘十二という人はよく知らないものの、戦後は成瀬巳喜男と今井正という大家2人による映画化である)、私も渥美清と倍賞千恵子が兄妹を演じたドラマ版を見たことがある(もっとも全く記憶に残ってはいない)。
 正直、何故に多くの作り手たちの興味を惹くのか分からない平凡な内容なのだが(原作の冒頭部もKindleの試し読みで読んでみたものの、今となっては時代を感じさせる古めかしい作品といった印象である)、このドラマ版は設定といい演出といい、原作以上に時代錯誤と言っていいほど古めかしく、説得力を欠いた面白みのない作品に終わってしまっている。
 特に主人公たちの人物造型が原作以上に古風で(原作では、長男と長女はいずれも遙かに奔放で遊び人として描かれている)、まるで昭和30年代のドラマや映画を見ているような錯覚すら覚えてしまうほどである。
 特に太賀という俳優は全く青白いインテリに見えず、完全なミス・キャスティングであり、宮崎あおいもすれっからしの女には全く見えず、大泉洋も余りに人が良すぎる造型となっており、結末の「甘さ」がこうしたキャスティングからもあらかじめ透けて見えてしまっている。

・「あにいもうと(1953年)」(成瀬巳喜男監督) 3.0点(IMDb 8.0) インターネットで視聴
 上のドラマ版の前半部に当たる部分のみの内容で、おそらくこれが原作に近いのかも知れない。兄役の森雅之は正直はまり役とは言えないものの、その苛烈な性格や行動において上のドラマ版を遥かに凌ぎ、妹に対するほとんど近親相姦的な愛情とその反動としての憎悪もうまく表現されている(しかしあえて自分が悪役を買って出てやっているのだと告白してしまうところは全く男らしくなく、少しも共感を覚えない)。
 妹役の京マチ子も前半部の初心(うぶ)だった時の出で立ちと、すれっからしになった後半部の面立ちは、別人かと思うほど大違いで、溝口健二の「楊貴妃」においてと同じく汗まみれになって、実家でゴロゴロ寝転んでいる姿からは、その汗の匂いや体臭までもが生々しく臭ってきそうなほどで、そのリアルさには説得力があった。
 小津安二郎の「早春」同様、おでん屋を営む母親役を演じている浦辺粂子が実に良く、今更ながら稀有な存在感を持つ女優だったことを改めて感じさせられた。

・「岸和田少年愚連隊(1996年)」(井筒和幸監督) 3.0点(IMDb 5.9) テレビ放映を録画したものを視聴
 全体に「中核」となる物語がなく、終始ひどく散漫な印象の残る作品ではあるが、しかしその散漫さこそが今作の最大の魅力であると言えるかも知れない。些細なことではあるが、俳優たちが中学生にはとても見えず、なぜ高校生以降の設定にしなかったのか不明でならない(おそらく原作の設定によるのだろうが)。
 主演の矢部浩之と岡村隆史は予想以上の好演で、他のお笑い芸人たちが素人素人しているなか、ほとんど違和感なく役柄を演じきっている。だらしない男たちばかりのなかで、秋野暢子と大河内奈々子の女性2人が力強く個性的な魅力を発揮しているのが印象的であり、今作は男たちを描いた映画というよりは、むしろ愚かな男たちの間で嘆息しながらも自分らしく生きている彼女たちを描いた作品だと言うことが出来るかも知れない。
 後の韓国映画「友へ チング」の一部を思い出させるような場面があったことも、国境を超えた「不良たち」に共通する描写として面白かった。

・「メーキング・オブ・『タンポポ』」(伊丹十三監督) インターネットで視聴
 文字通り、伊丹十三監督の映画「タンポポ」のメーキングである。
 「タンポポ」撮影直後に自殺したという大友柳太朗氏のことは今回初めて知り、人間の心の闇の深さを改めて思い知らされる思いがした(そうでなくとも、常に他者を演じ続ける俳優という存在にあっては、その表面と内面との隔たりは一般人以上だと言っていいだろう)。そして今作で彼の自死のことを極めて冷静に見つめている伊丹十三自身が、後に自死を遂げていることもまた、何かの皮肉というか、因縁のようなものに感じられてならなかった。