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 2018年3月25日(日)
 珍しく前回に続いて韓国ネタを。
 韓国で商品を買うと、当然ビニールやプラスチックなどで包装されているのだが、イージー・オープンなどと謳いながら(あるいはそうこちらに思わせながら)、いざ開封しようとなると困難に直面し、思いもかけない仕方で破れてしまうことが非常に多い。

 上や下に掲げた写真はその幾つかの例だが、最初のものはツナの缶詰で、缶切りなしに開けられ、かつフタが柔らかく手を切ったりしない素材で出来ていて、初めて目にした時には「おお、これは便利だ」と思ったものである。しかし何度か試してみたところ、ご覧のようにフタがうまく開けられず、感心したのも束の間でしかなかった。なんとも韓国らしいと言えるかも知れない。

 

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 上の3枚はサラダ用ドレッシングのフタ部分にあるビニール包装で、開封しやすいように点線のような切れ目がつけられているのだが、残念ながらこれまでこの線に沿って綺麗に開けられたことは1度もない。別に力を入れすぎている訳でも、乱雑に開けようとした訳でもなく、非常に丁寧に開封しようとしても、ご覧のように点線とは関係ない部分まで破れてしまい、フタを開けられるように包装ビニールを剥がすのに悪戦苦闘することになる。

 

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 上の2枚は、2本の牛乳パックを同梱したビニール袋で、この袋は粘着シールで閉じられている。牛乳パックを取り出すためにこのシールを剥がそうとすると、粘着シールの粘着度が強すぎて上記のようにめちゃくちゃに破れてしまう。

 もしかしたらこの商品はもともとシールを剥がすのではなく、ハサミか何かを使って袋を切るように設計されているのかも知れないのだが、しかし同じような粘着シールは別の商品(例えば私が最近よく買っている「ナドナット」(나도 낫토=私も納豆)という納豆→下の写真)にも使われていて、こちらはまず間違いなくこのシールを剥がして個別の納豆パックを取り出すようになっているはずなのだが、やはり粘着度が強すぎて大抵袋が破れてしまうか、一旦シールをうまく剥がすことが出来ても、再びこのシールで袋を閉じようとしても、粘着シールが変な具合にくっついてしまって、これを剥がすのがまた厄介である。

 

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 つまり、個別の納豆パックが乾燥したりしないように、何度も気軽に開けたり閉めたりするために使われているはずの粘着シールが、強度が強すぎて開閉するのにひどく不便なのである。密閉出来るのはいいが(もっとも大抵変な具合にくっついてしまうので、密閉出来ないこともしばしばである)、開閉に苦労するという、なんとも本末転倒な商品なのである。


 むろん日本の商品にもこうした不具合はあるだろうし、醤油の袋など、どこでも切れると書いてありながら切れない場所があったり、切れ目が入れてあるのに切れなかったりすることがあるに違いない。

 しかしそうした頻度は個人的な経験からして明らかに韓国の商品の方が遙かに多く、ポテトチップスなどの袋がなかなか簡単に開封できないことなどを含めて(結局ハサミを使うことになったりする)、日常的に不便(イライラ)を覚えることがしょっちゅうある。何度もしつこいかも知れないが、こうしたテキトーさに接するたびに、ひねくれ者の私などは「やっぱりこれがいつもながらの韓国だよなあ」と思って嘆息(安心?)するしかないのである。

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 この間に読んだ本は、

・ミシェル・ビュッシ(Michel Bussi)「時は殺人者(Le Temps est assassin)」(POCKET版)

 (私は直接手に取ったことはないが、その後、集英社文庫から平岡敦による日本語訳が上下巻で刊行された)
 先月から参加し始めた(実際は私が頼み込んだのだが)フランス語のフリー・トーキングの集まりを主催してくれているフランス人から勧められた、600ページ以上ある分厚い小説で、内容的にはサスペンスと恋愛、多少のミステリー的要素の入ったエンターテインメント小説である。
 作者のミシェル・ビュッシはフランスでは大変な人気作家のようで、日本でも「黒い睡蓮」と「彼女のいない飛行機」の2作品が翻訳されている。27年前にコルシカ島で起きた自動車事故で家族4人のうち、ただ一人生き残った女主人公Clotildeは、事故の後でコルシカを離れて以来、初めて故郷に帰省するのだが、その自動車事故に関して新たな事実が浮かび上がり、家族の命を奪った「真犯人」を探ろうとする。同時にかつて互いに思慕を寄せ合いながら、事故のせいで離れ離れになった年上の男性と再会し、ひと夏の「アヴァンチュール」を過ごすことになる。
 コルシカの聞き慣れない固有名詞や、私の全く知らなかったコルシカの歴史、次々と登場する数多くの登場人物、自分自身の不勉強による見知らぬ単語の数々、そして何よりも600ページという分量に苦しまされ、20日近くを費やして何とか読了するに至った。正直、人から勧められなければ決して読まなかっただろう類いの作品である。

 女主人公たちが「事故」に遭う直前の日記と、27年後の同日の出来事が交互に提示されながら、徐々に複雑な人間関係が明らかになり、またいわゆる「ミスリーディング」があちこちに散りばめられていることで「真犯人」や「真相」が次々と入れ替わるなど、小説的工夫に満ちた作品になっている。
 いかんせん、紋切り型のエンターテインメント作品風展開が延々と続き、その種の「嘘くささ」を寛容に受け入れられない私のようなひねくれ者には容易に楽しむことの出来ない作品で、とりわけ再三繰り返される「真相」の修正と、ひどくくどい描写(しかしフランスのアマゾンなどのレビューを見ると、フランス語ネイティブにとってはサクサク読める文体らしく、改めて自分の仏語力のなさを思い知らされた)とその辟易するような長さ(特に結末部分の執拗なまでの描写)には大いに悩まされた。
 それでも実に久々の仏語での読書はそれなりに刺激的で、これから改めて仏語の作品を少しずつ読み、また会話の方も実践することによって、すっかり錆びついてしまったこの言語の知識を多少なりとも「復活」させたいと思っている。

・ピエール・ド・マリヴォー(Pierre de Marivaux)「Le Jeu de l'amour et du hasard(愛と偶然との戯れ)」Kindle版(仏語)
 やはり上のフランス人に勧められたもので(ちょうど数日前に韓国の某大学の劇団でこの芝居が上演されたらしいのである)、確か学生時代にも原典購読か何かで原書を読まされた記憶があり、その際は学生向けに語釈や注釈、解説のついた文庫版だったため何とか読めたのかも知れないのだが、今回はただKindleにダウンロードした原テキストがあるだけで(後でやはりKindleに英語による注釈が施されたテキストがあるのを発見したが、元の言葉と注釈がリンクしておらず、いちいち検索したりしないと参照できないため途中で諦めた)、現代とは用法や意味の異なる表現や単語、一般に「マリヴォダージュ」と称されるマリヴォーならではの勿体ぶって分かりづらい表現に終始苦しめられた。
 内容的には貴族の娘を結婚させるにあたり、相手の男の品定めや娘との相性を確認するために、娘とその下女を入れ替えさせ、相手の男も男でやはり自分と下男と入れ替わってやって来て、互いにチグハグな人間関係が繰り広げられることになる。もっとも大して長い戯曲ではないこともあって、シェイクスピアの「間違いの喜劇」や「十二夜」、あるいは「フィガロの結婚」などと比べても、その筋の展開は予定調和的かつ単純で、呆気ないほどである。

 おそらくこの芝居の眼目はやはりマリヴォーならではの機知に満ちた会話(文体)にあるのだと思われるが、その文体を十二分に味わい尽くせなかったことから、正直この作品がなぜ現代においても高く評価されているのか、少しも理解することは出来なかった。いずれ岩波文庫などで出ている日本語訳で改めて読み直してみたいと思っている。

 この間に見た映画やドラマは、

・「コーラス(2004年)」(クリストフ・バラティエ監督) 3.0点(IMDb 7.9) テレビ放映を録画したもので視聴
 やはり上記の仏語の会合で話題にのぼった作品で、かなり前に録画していながら見ることなく放置していたものである。
 一言で言えば、問題児揃いでスパルタ教育の横行している孤児院に、新任監督としてやって来たアマチュア作曲家兼教師が、問題児たちを相手に他の教師より多少まともな人間的対応をし、さらに彼らにコーラスを教えることで徐々に信頼を勝ち取り、結果的に問題児たちの更生と孤児院の改革に貢献するというヒューマン・ドラマである。

 とにかく全編これ性善説に基づいた世界観に彩られているので、それを教育の理想的な姿と素直に受け止めるか、あるいは単なる甘ったるい絵空事と見るかで評価は180度異なってくるだろう。この作品で最も見どころ(聞きどころ)のはずのコーラスの場面が少ないのが惜しまれるが、ソロを演ずる実際に歌手らしい少年の声色はなかなかのものである。

・「あゝ、荒野 前篇(2017年)」(岸善幸監督) 3.0点(IMDb 8.5) インターネットで視聴
 寺山修司原作(未読)。
 とにかく勢いだけはある作品で、2時間半近い間、飽きることなく見られはするものの、しかしそれがそのまま映画作品としての出来につながっているとは言えないのが難しいところである。到底ありえない偶然の積み重ねや、演出や撮影の粗さが目立ち、原作にどこまで準拠しているのかは不明だが、物語自体が既に散々使い古されてきた旧時代的なものに思えてしまうのが最大の難点である。また主軸の物語以外のエピソード(とりわけ自殺防止サークルの話)はとってつけた飾り物のようにしか思えず、本筋との有機的なつながりが感じられず、散漫な印象を与える。
 菅田将暉(新次役)はこれまで私が見た出演作と比べても熱演しているが、それ以上に良いのがユースケ・サンタマリアで、でんでんやモロ師岡(彼はやはりボクシング映画である北野武の「キッズ・リターン」で実に印象的な役柄を演じているし、実写版「あしたのジョー」にも出ているらしい)、高橋和也などの脇役陣も良い。女優陣も軒並み好演しており、ベテランの木村多江や映画初演の木下あかりは特に出色である。
 正直、ヤン・イクチュン演ずる健二の立ち位置はよく理解できず(日本人の父親と韓国人の母親の間に生まれ、母が早世したため父親に連れられて日本にやって来たという設定)、ヤン・イクチュンの演技も言葉の壁もあってか(もともと原作者の寺山修司同様に吃音症で、ろくに話が続かないという設定ではあるものの)中途半端な印象が払拭できない。
 しかし上記の通り極めてパワフルな作品であることは間違いなく、後半の展開に期待したいところである。
・「あゝ、荒野 後篇(2017)」(岸善幸監督) 2.0点(IMDb 7.6) インターネットで視聴
 これだけの長編(前後編あわせて300分超)を最後まで少しも弛緩することなく見させることは高く評価してもいいものの、やはり映画にしても小説にしても多くの観客(読者)を十分納得させうるような「結末」をつけることは容易ではなく、この作品も最後の新次と健二の試合場面などはボクシングの場面にしても作劇にしても、正視に耐えないほど凡庸かつ過度に感傷的になってしまって、一人の観客として作り手たちの興奮にすっかり置いてけぼりにされてしまったという印象である。
 そもそも前編の冒頭における爆発テロや、それに関わっているのだろう市民運動(家)の描写や、有機的関連性が感じられない一例として上にも挙げた自殺防止サークルの挿話など、それぞれに連関しない話を無理やりつなげ、311の大地震や貧困問題、高齢化社会の問題など、社会的要素をあれこれまぶして提示することに何の必然性も感じられない。むしろただ単純にボクシングの物語に特化して、今の半分の尺で撮っていれば、遙かに締まりのある作品たりえたのではないかと訝ってしまう。
 ボクシング映画(のつもりはないのかも知れないが)は、試合の場面さえリアルに作ればそれなりに見られてしまうものだが、今作は上記の「キッズ・リターン」や「百円の恋」などと比べるとボクシングの場面にも冗長さや無駄が多く、ひどく感傷的で中途半端に投げ出してしまった挿話(木下あかり演ずる娘と母との関わり)もある上、なによりも現実にはありえないような偶然の連続によって、リアリティが欠如した作品になってしまっている。結局前後編をあわせて一編の作品として見るなら、5点満点で2.5点という平均点(個人的な尺度からすると平均からやや劣る)の作品に終わってしまっていると言うしかない。
 結末近くの試合の描写に漫画「あしたのジョー」の影響を垣間見てしまうのは、原作の寺山修司がこの漫画のアニメ版の主題歌の作詞をし、また主要人物である力石徹のリング上の葬儀を呼びかけた中心人物だったことを知っているせいだろうか。「立つんだ、ジョー」という丹下段平の声が、今作にも鳴り響いているように思えてならなかった。

・「ひみつの花園(1997年)」(矢口史靖監督) 2.5点(IMDb 7.1) インターネットで視聴
 「ウォーターボーイズ」や「ハッピーフライト」(いずれも未見)、「スウィングガールズ」の矢口史靖監督の初期作品として甚だ評判がよろしく、たまたまインターネットに挙がっていたので見てみたのだが、正直なところわが道を行く「不思議ちゃん」を主人公に据えた軽めのコメディ以上のものではなく、やはり「不思議ちゃん」映画であるジャン・ピエール・ジュネの「アメリ」などに顕著な特異な個性やキッチュさもなく、極めて凡庸な出来である。せいぜい主演の西田尚美の出世作としての意味合いを認めることが出来るくらいだろうか。

・「反撥(1965年)」(ロマン・ポランスキー監督) 2.5点(IMDb 7.8) テレビ放映を録画したものを視聴
 これまで何度も最後まで見ようと思いつつ、いつも途中で挫折してきた作品で、今回も最後まで見通すのに甚だ苦労させられた。ロンドンのフラットに姉と一緒に住むフランス人の少女(というほどには若くはないのだが……。カトリーヌ・ドゥヌーヴ)が、自分を慕う男や姉の愛人などの男たちに対してフロイト的な性的コンプレックスとでも言うべき男性嫌悪をつのらせていき、徐々に精神的におかしくなっていく。姉が愛人と共にイタリア旅行に出かけてしまうと、夏のロンドンに取り残された彼女はもはや外界との接触すら厭うようになり、部屋に閉じこもってじゃがいもやウサギの肉(食用で料理する直前のもの)が腐り、悪臭を放って蝿がたかるのも気にせず、ただじっと宙を眺めている。
 そこまでは単に退屈な心理映画だと言っていいのだが、そこから一気にホラー映画的な展開に移行し(少女の妄想ではあるが、鏡の中に幽霊らしき男まであらわれる)、彼女が想像のなかで見知らぬ男に犯されたり、家の壁に不気味な音を立てて罅が入ったり、そして挙げ句には(これは妄想ではなく現実なのだが)彼女に恋慕する男がフラットを訪ねてきて無理やり室内に押し入ってくると、その男を自分に対する脅威と見なして呆気なく殺害してしまうのである。
 とにかく全体に動きが乏しく、薄い光で暗く見づらい映像とけだるい音楽、陳腐な効果音などが相まって、雰囲気だけは何やら真面目な心理映画のようではあるのだが、もともとこうした作品は決して嫌いではないにもかかわらず、一言で言って大したことの起こらない退屈で冗長な作品となっており(しかしこうしたなにやら「深い意味がありそう」な作品は映画マニアや批評家には大いに受けるのである)、同じ人間の恐怖ひとつ扱うにしても、ポランスキーが数年後に撮った「ローズマリーの赤ちゃん」の方が、出来の良い原作があるからか、遙かに「見られる」作品になっている。

・「四月物語(1998年)」(岩井俊二監督) 2.5点(IMDb 7.2) インターネットで視聴
 長さ1時間余りの、ミュージック・ビデオのような小品。主演の松たか子が実に若く初々しいのが印象的であり、彼女が如何にも可憐で純情そうに描かれているのが(オッサンの視点からすれば)新鮮だと言えば言えるかも知れないし、ほとんどおとぎ話のような(あるいはオッサンの妄想のような)非現実世界だと切り捨てることも出来る。北海道から上京して大学に入学した一女子の姿を、ほとんど物語らしい物語もなく淡々と描いていくだけなのだが、「謎解き」とも言える結末も別段取るに足るような内容ではなく、とにかくなにもかもが可も不可もない。言い換えれば、松たか子という若き女優を愛でる作品であり、そのことに興味のない人間にとってはこの作品を鑑賞することは、ただの時間の浪費でしかないに違いない。

・「シッコ(2007年)」(マイケル・ムーア監督) 3.5点(IMDb 8.0) 日本版DVDで視聴
 しばらく前から参加している英語のフリー・トーキングの会合で、各国における医療制度を議論する機会があり、アメリカの医療制度について話している時に思い出したのがこの作品だった。ざっと流すように見たことはあるのだが、改めて真面目に見直してみると、意外にも全編にわたって「感動的」な作品だとも言え、たとえ監督マイケル・ムーアの主張が(いつもながらに)その出発点からしてひどく偏っていようと、フランスや英国、キューバの医療制度に対する評価が一方的で過大に過ぎるものでしかなかろうと、過去の監督作品に比べ、今作からは、監督マイケル・ムーアの「誠実さ」や「真摯さ」、そしてアメリカに対する期待や愛情とも言えるものが自然と滲み出ているようで意外でならなかった。
 アメリカの医療制度は、その後のいわゆる「オバマ・ケア」の導入と、次期大統領ドナルド・トランプによる同制度の廃止の試みなど、製作当時とは大いに変化しているのだが、一部の大保険会社が事実上アメリカの医療制度を牛耳っている状況は今でも変わってはおらず、今作が訴えかけている問題は未だに有効だと言えるだろう。


・「キャピタリズム〜マネーは踊る〜(2009年)」(マイケル・ムーア監督) 3.5点(IMDb 7.4) 日本版DVDで視聴
 続けて未見だったマイケル・ムーア作品を鑑賞。2018年の今この映画を見ると、実に複雑な気持ちにならざるをえない。今作はちょうどバラク・オバマ大統領が「誕生」し、まだ人々の間にアメリカの「変化」とそれに対する「希望」とでもいった雰囲気が濃厚に漂っていた頃のエピソードで終わっているのだが、その後オバマ政権は結果的にこれと言った成果をあげられず、当時は誰一人予想していなかっただろうドナルド・トランプが大統領に選出されるという事態に至ってしまった。そして米国国内のみならず、一気に緊張を迎えた東アジア情勢や、米国第一主義を押し立てたトランプによる海外からの輸入品への関税強化など、波乱に満ちみちた一年が過ぎた(そして未だに波乱を迎えつつある)今、当時感じられていたその希望とでも言ったものが、情勢の急展開によって見事に粉砕されてしまったと思わざるをえない。富裕層とその他大勢の貧富差はますます大きくなり、自国中心主義の大きな流れがアメリカのみならず、欧米やアジアなどにも伝播しつつあり、資本主義の抱える問題は大きくなりこそすれ、決して今作製作当時から改善されてはいない。
 いつもながらにマイケル・ムーアは確信犯的に偏った視点から資本主義批判に向かい、善悪を明瞭化するために細かい論点はすっ飛ばして、その対抗案としての民主社会主義に希望を見出そうとしたりし、またNY株式取引所や大手銀行の建物を「犯罪現場、立入禁止」の黄色いテープで包囲したりという、ほとんど子供じみた悪戯としか思えない行動に出たりもするのだが、その手法自体を笑い飛ばすだけの余裕を持ちながら見さえすれば、現代社会の問題点に疑義を投げつけながら、相変わらずその真面目な題材にもかかわらず、観客を退屈させることのない「エンターテインメント」性の強いドキュメンタリー作品を作りえていると言えるだろう。
 単純に驚かされたのは、米国の大企業が従業員本人も承知しない間に会社受け取りの生命保険をかけているという事実で、言うなれば会社が従業員の死によって利益を得、究極的には利益を上げるために従業員の死を望みすらする状態になってしまっている。日本でも従業員が会社から融資を受ける際などに、あくまで本人の承諾の上で生命保険をかける例はあるものの、アメリカでは本人の承知や同意なしでも企業が勝手に生命保険をかけられるということが意外に思えてならなかった。

・「ナミヤ雑貨店の奇蹟(2017年)」(廣木隆一監督) 3.5点(IMDb 7.0) インターネットで視聴
 東野圭吾原作(未読)で、同作を始めとする東野作品は、ここ韓国で村上春樹以上に人気があるらしい。
 韓国映画「イルマーレ」の設定をざっくりと借り、これでもかという程にお涙頂戴のエピソードを盛り込んで、30年の時間を行き来する「感動」物語である。ひねくれ者の私はもともとこうした映画は大いに苦手なはずなのだが、どういう訳か(別に個人的な思い出などはないくせに、孤児院という設定がどういう訳か心に響いたのかも知れない)最後までかなり面白く見られ、そのお涙頂戴色すらも許せるような気になった。
 ただし、門脇麦演ずる女子高生が口にする歯に浮くような台詞や、どういう設定なのか最後までよく分からない(その描写の必要性は更に理解不可能)成海璃子演ずる孤児院の創設者の役柄は、この映画の決定的な欠点(不要点)として挙げておくべきだろう。
 アイドル歌手であるらしい山田涼介など若い俳優たちの演技は、最初は耐え難いほど不自然で下手くそだったのだが、映画の進行とともに、ひょっとしたら演技はなかなか達者なのではないかと思うようにまでなった(単に彼らの演技に「慣れた」だけなのかも知れないが)。そして(映画の出来そのものには余り関係ないものの)出色だと思われたのは門脇麦が作中で歌う主題歌で、これは映画の最後に流れる作曲者・山下達郎自身が歌うヴァージョンよりも格段に良かった。

・「三度目の殺人(2017年)」(是枝裕和監督) 3.5点(IMDb 6.9) インターネットで視聴
 演出、演技、撮影、ルドヴィコ・エイナウディという未知の作曲家による音楽、セット(美術)など、技術的には極めてクオリティの高い作品であるし、安直な結論に至らない物語にも説得力があり、最後まで見せる。しかし福山雅治演ずる弁護士と役所広司演ずる被告との類似性を強調する場面は過剰かつ凡庸で、福山が繰り返し見る夢の描写もしつこく説明的に過ぎる。また真相が最後まで明らかにならないことで、事実以上の「意味」を付与されてしまうことには作為性ともったいぶりとを覚えてしまうが、同時にそれこそが現実世界のあり方でもあると言えない訳でもない。
 題名である「三度目」の殺人というのが何を示すのかにも観客それぞれに解釈が可能だろうが、「法廷では誰も本当のことを言わない」という広瀬すずの台詞にもあるように、法廷や世界のシステムにおいて、真実や人間(個人)というものがないがしろにされ、一種の「死」を強いられていることの隠喩だという解釈は余りに深読みに過ぎるだろうか(実際には、役所広司の「死刑」や、彼が自分を「殺して」広瀬すずを救う自己犠牲としての死、あるいは実際の犯人は広瀬すずで、彼女がどこまで意図したかしなかったにかかわらず、結果的に役所広司を「殺す」ことになるといった意味合いなのだろうが)。

 以下の2作は映画ではなくテレビ・ドラマである。
・「パンとスープとネコ日和(2013年)」(松本佳奈監督) 3.5点(IMDb 7.7) インターネットで視聴
 映画「かもめ食堂」や「めがね」、「プール」などの流れを引き継いだ、特に劇中では何も起こらず、ほのぼのとした日常を描くドラマ作品である。韓国のケーブルテレビで第1話だけ無料視聴できたため、ついでに残りもインターネットで視聴してみることにした。
 作中に出てくる食べ物はいつもながらにフード・スタイリストの飯島奈美が監修しているだけに、どれもこれも実に美味しそうなのだが(特にパンがとても香ばしく美味しそうに撮られている)、主人公(小林聡美)が経営する、サンドイッチとスープのセットだけを扱う店の価格設定は1,200円とかなりお高く、実際にこんな店があってもケチな私が通うことは決してないに違いない(ではどれくらいの値段であればいいのかと言えば、よく通う常連の店であれば600円、たまに行く店であれば800円程度が個人的な限界だろう)。
 全体の雰囲気はホンワカしていて見飽きることはないのだが、時折口にされる人生教訓的な台詞はいささか鼻につき、特に岸恵子演ずる「先生」なる作家の存在そのものは、ドラマ全体にむしろ邪魔になってしまっているように思う(とは言え、群ようこの原作にもとづいているドラマなので、原作を読んでいない私には原作の設定がどれくらい引き継がれているかは分からない)。
 ともあれ、これといった内容がなくても、登場人物たちの魅力によっていつまでも見続けていたいような作品には仕上がっていて、わずか全4話で終わってしまっているのは惜しまれる。もっとも主要人物が少ないため、「深夜食堂」のように長く続けていくには限界があるのかも知れない(単に原作がそこで終わっているというだけかも知れないが)。
 主要人物の一人を演ずる塩見三省は、このドラマ出演の翌年に脳出血で倒れて暫く療養に専念、その後復帰したものの、今も体に麻痺が残るなどのハンディキャップを抱えながら俳優業を続けている。そのことを思うと、元気そのものの姿を見せてくれているこのドラマを見るのが少し辛かったのも確かである。

・「すいか(2003年」 3.0点(IMDb 8.1) インターネットで視聴
 小林聡美に市川実日子、もたいまさこ、片桐はいりといった、上記の「パンとスープとネコ日和」や「かもめ食堂」などと似たようなキャスティングで(むしろその源流的な作品と言ってもいいだろう)、風変わりな設定とロケーション、個性的な俳優たちだけでドラマを1本作ってしまったというもので、この(ほどんどなにも起きない)内容で全10話のドラマを作ろうとしただけでも大きな英断(?)だったと言っていいかも知れない。そのせいか、見終えた後も特に何かが残る作品ではなく、ただ空気や水を吸ったり飲んだりするように見る作品である。