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 2018年3月11日(日)
 まず今日が「あの日」であることを改めて心に留めつつ、にもかかわらずいつもながらにくだらない記事を書き始めることにしたい。

 わざわざ自分で韓国に住むことにしたにもかかわらず、正直この国に特別な関心を持っている訳でもないことから、このブログでも韓国のことを意識して採り上げようとは思ってはいないのだが、たまには韓国での生活に関して書いてみたいと思う。

 ここ韓国は、自分たちで「配達(ペダル)の国」(これはかつて朝鮮のことを「倍達(ペダル)」と呼んでいたことに由来する言葉遊びである)と自嘲するほど(もっとも自慢することが好きな人たちだから、ひょっとしたらこのことすら自慢しているのかも知れないが)、今では配達(宅配)や店屋物(てんやもの。もはやこうした言葉は日本でも死語だろうか?)の出前を非常に好んで用いている国である。

 特に店屋物はファースト・フードからお寿司、おさしみ、鍋物などまで何でも揃っており、衛生状態に関する問題点や、せっかちな顧客の要求に答えるために一刻も早く食べ物を届けようとする配達員の交通規則を無視した乱暴な運転(大抵はオートバイ)が議論になりはするものの、一般庶民に広く愛用されていると言っていい。


 わが家では、折に触れてメディアで採り上げられる衛生問題や、見知らぬ人間が家に来ることを好まないため、店屋物はほとんど利用したことがないのだが、わが家の入っているアパート(韓国では「ヴィラ」と称する)の他の家庭では、ちいさな子供がいることもあってか、子供たちに人気のあるジャージャー麺(韓国では「チャジャン」麺)などの中華料理の出前サービスをよく利用しているようである。

 

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 それはそれで別段構わないのだが、問題はこうした店屋物を食べ終えた後で、食器をどうやって返却するかで、(最近ではどうか分からないものの)日本では基本的に食べ終わった後の食器は客が洗って返却するのが普通だったはずだが、ここ韓国では食べ終えたそのままの状態で返却することが多い(そのため、配達員の乗っているオートバイには、食べ残した食べ物を入れるゴミ箱が積まれていることが多い)。


 単に食器を洗わないだけならまだいいのだが、食べ残した食べ物の入った食器をそのままアパートの階段脇や踊り場に放置してあることも少なくなく、当然その匂いが屋内に充満することになる。今は冬なので大して気にはならないものの、夏などに食べ物の入った食器が放置されていると、匂いも匂いだが、食べ物に群がる蝿や虫なども大変気になるところである。

 おそらく他の住民から苦情が相次いだせいか、韓国でも最近では飲食店側で黒いビニール袋を用意し(この「黒い」ビニール袋も韓国ならではの色使いと言って良く、他人に買い物の中身を見られたくないからなのか、街の至るところで目にする)、食べ終わった容器をその中に入れて返却してもらうように「誘導」している。上の写真1~2枚目がそれだが、飲食店がそこまで準備しても、依然として食べ残しの入った食器をそのまま返却する人も少なくない(下の2枚)。

 

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 こうした些細なことを採り上げて、韓国と日本の文化や価値観の違い(ましてや優劣)を云々するつもりは毛頭ないのだが、日々生活している上で感ずる違和感のひとつであることは間違いない。

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この間に読み終えた本は、

・シャーロット・ブロンテ「ジェイン・エア」(吉田健一訳、集英社文庫版)
 吉田健一による翻訳は先日読んだ「ハワーズ・エンド」同様やはり読みづらく、果たしてどこまで原文に忠実なのか大いに疑問ではあるのだが、原作自身の読みやすさも手伝ってか、「ハワーズ・エンド」ほどの理解しがたさはなかったと言っていい。
 孤児という主人公の身の上、その不幸な少女時代、決して美人ではない主人公が思いがけない玉の輿に乗るという展開や、その直前での物語の大転回と、波乱万丈の末のハッピーエンディングなど、ディケンズやジェイン・オースティンの小説とともに、昨今の韓流ドラマ(もっとも一つとして見たことはないが)なども含めた現代の通俗エンターテインメント作品の「原型」を作った源流のひとつと言っても過言ではないかも知れない。
 文学的には妹エミリー・ブロンテの「嵐が丘」よりも評価の低い作品だが、個人的には「嵐が丘」よりも面白く読めた(単に私の読解能力や好みが通俗的であるせいかも知れないが)。もっとも現在新潮文庫に収録されている「嵐が丘」(田中西二郎訳ではない方)は翻訳の評判がすこぶる悪く、この「ジェイン・エア」とともに別の訳者による翻訳で改めて読み直してみる必要があるかも知れない。

・谷崎潤一郎「お艶殺し」「金色の死」、「刺青」(いずれもKindle版)
 以前さる在仏の知人から「お艶殺し」に関する話を聞いて興味を覚えたことから、三島由紀夫が評価していたことで知られる「金色の死」とともに収録されているKindle版(同じ内容の中公文庫は持っていて、「金色の死」だけは読んだことがあるのだが、「お艶殺し」は未読のまま、英国を離れる際に他の日本語書籍とともに上記の知人に進呈したようである)を入手して読んでみた次第である。さらに「お艶殺し」は初期の短編「刺青」とともに、増村保造監督の映画「刺青」の原作になっていることもあり、この映画を再見するのとともに原作の「刺青」も改めて手にとってみた。
 「お艶殺し」は極めてエンターテインメント色の強い時代小説といった趣で、谷崎はこうした娯楽性の強い作品においても極めて巧みだったのだということを改めて思い知らされた。むろん彼は芥川龍之介と有名な「小説の筋の芸術性」をめぐって論争をしたことでも知られており、また江戸川乱歩などにも影響を与えた本格的な推理小説をものしてもいて、考えてみれば「盲目物語」や「武州公秘話」などの作品も極めて娯楽色の強い「面白い」作品で、夢中になって読んだ覚えがある。そろそろ谷崎の作品を(未読のものも含めて)まとめて読み直してみるのもいいかも知れないと思ったものである。

 ということで、以下の作品を再見。
・「刺青(1966年)」(増村保造監督) 3.0点(IMDb 7.2) 日本版DVDで再見
 上記の通り、谷崎の「お艶殺し」と「刺青」を新藤兼人が脚色したもので、両家の娘でありながら生来淫乱で、男たちを次々と籠絡する「ファム・ファタール」の「お艶」を若尾文子が色気たっぷりに演じ、お艶の親が経営する店で手代として働きながら、一緒に駆け落ちをしようとお艶に迫られた末、人生を狂わされて最後は共に破滅していく新助(長谷川明男)、お艶をかどわかして刺青を彫らせ芸者として売り飛ばしてしまう権次(須賀不二男)、お艶の背中に蜘蛛の刺青を施し、その怖ろしいまでの美に圧倒されて二度と刺青を彫れなくなってしまう刺青師清吉(山本学)、お艶の魅力に捕らわれたことで身を滅ぼしたり命を危険にさらす陥る男たち(佐藤慶、内田朝雄)などが脇を固めている。
 なによりも宮川一夫の撮影が見事だが、稀代の傑作のはずである蜘蛛の刺青のショボさなど、小説においては迫力をもって描かれている細部の描写が、映像化されることで陳腐化してしまう好例ともなっており、作品全体としては平均以上の作品にはなりえていない。

・三島由紀夫「美しい星」(新潮文庫版)
 前々から興味を抱きながらもなかなか読み通せないまま放置してあったものだが、しばらく前に映画化されたことを機に改めて手にとって読んでみたものである。
 文庫版の解説で文芸評論家の奥野建男は、本作における人類の運命をめぐる議論をドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に比べて、この作品を稀有な議論小説として絶賛しているのだが(もっともこの奥野建男という人は、太宰治でも誰でも、自分の好きな作家をいつでもドストエフスキーと比べて過剰なまでに褒め立てる悪癖がある)、確かに人類滅亡の必然性などをめぐる議論はそれなりに面白くはあったものの、正直そこまで深い思想を持った作品だとも思えなかった。表向きはSF小説的な設定を借りているものの、後に自決する際に自衛隊員を前に演説してみせた現代日本(人)に対する落胆や絶望をほとんど剥き出しのまま述べ立ててみせたものだと言ってもいい。そこにある程度の共感を覚えないではないものの、しかし彼が最後に取った行動そのものにはやはり疑義を覚えざるをえないのも確かである。

 ということでこの作品の映画化である以下の作品も鑑賞してみた。
・「美しい星(2016年)」(吉田大八監督) 2.5点(IMDb 6.1) インターネットで視聴
 時代設定を現代に変えたことで、原作が取り扱っている原水爆や人類の滅亡という問題は、より危機感の乏しい地球温暖化の話に変えられてしまっており、登場人物たちの造型や台詞も自ずと薄っぺらなものに堕してしまっており、日本の未来を憂えていた三島やその失望を体現していたはずの主人公自体が、軽薄で陳腐な存在になってしまっている。もともとこの吉田大八という監督とはかねがね相性が悪いと思い続けてきたのだが、その印象は今作においても少しも覆ることはなく、安っぽいテレビ・ドラマのような演出や映像、演技などにはウンザリさせられるしかなかった。

 この間に鑑賞した映画は(長くなるので個別の感想は割愛する)、

 まず、現在仏語で読んでいる小説や、その小説を紹介してくれた南仏の港街Sète生まれのフランス人に関連して、以下の4作品を鑑賞。
・「ビートルジュース(1988年)」(ティム・バートン監督) 2.5点(IMDb 7.5) 日本版DVDで視聴
・「La Pointe-Courte(1955年)」(アニエス・ヴァルダ監督) 3.0点(IMDb 7.2) 英国版DVDで視聴 今作は以下の2作品とともに上記Sèteが舞台となっている。
・「アニエスの浜辺(2008年)」(アニエス・ヴァルダ監督) 3.5点(IMDb 8.0) 英国版DVDで視聴 
・「クスクス粒の秘密(2007年)原題は「La Graine et le Mulet」(粒とボラ)」(アブデラティフ・ケシシュ監督) 3.0点(IMDb 7.4) 英国版DVDで視聴
 
・「犬神家の一族(1976年)」(市川崑監督) 4.0点(IMDb 7.3) 日本版DVDで再見
・「父と暮せば(2004年)」(黒木和雄監督) 3.0点(IMDb 7.2) 日本のテレビを録画したものを視聴
・「君の名は。(2016年)」(新海誠監督) 4.0点(IMDb 8.5) 韓国のケーブルテレビで再見
・「赤い橋の下のぬるい水(2001年)」(今村昌平監督) 2.0点(IMDb 6.9) 韓国のケーブルテレビで再見
・「パディントン(2014年)」(ポール・キング監督) 3.5点(IMDb 7.2) 韓国のケーブルテレビで視聴
・「二十四の瞳(1954年)」(木下惠介監督) 3.0点(IMDb 8.1) 韓国のケーブルテレビで視聴
・「王になろうとした男(1975年)」(ジョン・ヒューストン監督) 3.0点(IMDb 7.9) 日本版DVDで視聴
・「亀は意外と速く泳ぐ(2005年)」(三木聡監督) 3.5点(IMDb 6.6) 韓国のケーブルテレビで再見
・「不意打ち(1964年)原題:Lady in a Cage」(ウォルター・グローマン監督) 3.0点(IMDb 6.9) 日本版DVDで視聴

 また、インターネットにほとんど瞬間的にアップされていた「トラック野郎」シリーズ(全10作のうち8作)もざっと視聴してみた(個別の作品に関してはっきりした記憶は残っていないのだが、このうち何作かは、今は亡き祖父とともに正月に映画を見に行くことが恒例行事となっていた当時に見た記憶があり、おそらく再見である)。晩年にはすっかり日本映画界を代表する「名優」の一人のような存在となっていた菅原文太が、かつてこうした(良くも悪くも)くだらない作品に出ていたのだと思うと、感慨ひとしお(?)である。暇つぶしのために見るには決して悪い作品ではないものの(もっとも今では絶対に公開できないような下品な内容も満載である)、あえて時間をかけて見直す必要もないような作品でもある。
・「トラック野郎 御意見無用(1975年)」(鈴木則文監督) 3.0点(IMDb 6.4)
・「トラック野郎 爆走一番星(1975年)」(鈴木則文監督) 2.5点(IMDb 4.4)
・「トラック野郎 望郷一番星(1976年)」(鈴木則文監督) 2.0点(IMDb 7.2)
・「トラック野郎 天下御免(1976年)」(鈴木則文監督) 3.0点(IMDb 6.5)
・「トラック野郎 度胸一番星(1977年)」(鈴木則文監督) 2.5点(IMDb 5.7)
・「トラック野郎 突撃一番星(1978年)」(鈴木則文監督) 2.5点(IMDb 7.2)
・「トラック野郎 熱風5000キロ(1979年)」(鈴木則文監督) 2.5点(IMDb 7.0)
・「トラック野郎 故郷特急便(1979年)」(鈴木則文監督) 3.0点(IMDb 6.5)