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 2017年8月3日(木)
 ジャンヌ・モローが亡くなった(享年満89歳)。


 私ごときが贅言を弄するまでもなく、シモーヌ・シニョレやカトリーヌ・ドヌーヴなどと共に(★)、現代フランスを代表する女優であり(もっとも下で紹介する新聞記事にもある通り、彼女はフランスと英国のハーフである)、彼女を起用した監督の名を思いつくままに挙げていくだけでも、現代映画界の錚々たる面々が彼女との共同作業を望んだことが分かって壮観である(★★)。

《★知名度で言えば、他にもブリジット・バルドーやイザベル・ユペールを挙げることも出来るだろうが、映画史的な重要度においてはむしろ一時代前のミシェル・モルガンやマリア・カザレスに言及した方がいいかも知れない。

 ★★試みに挙げていけば、ジャック・ベッケル、ルイ・マル、ロジェ・ヴァディム、ミケランジェロ・アントニオーニ、フランソワ・トリュフォー、ジョゼフ・ロージー、オーソン・ウェルズ、ジャック・ドゥミ、ルイス・ブニュエル、ジョン・フランケンハイマー、トニー・リチャードソン、ジャン・ルノワール、マルグリット・デュラス、エリア・カザン、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ヴィム・ヴェンダース、テオ・アンゲロプロス、フランソワ・オゾン、ツァイ・ミンリャン、マノエル・ド・オリヴェイラ……(変わったところでは「バルスーズ」(1974)のベルトラン・ブリエも)。もっともフランソワ・トリュフォーとの縁が深かったためなのか、トリュフォーのライバルであるジャン・リュック・ゴダール作品は、「女は女である」(1961)におけるカメオ出演以外には出演作がなさそうである。》


 私が最初に見た彼女の出演作はご多分に漏れずルイ・マル監督のデビュー作「死刑台のエレベーター」で(★★★)、人を殺して逃げる途中でエレベーターに閉じ込められ約束の時間に現れない愛人を探して、パリの街を必死にさまようジャンヌ・モローの不安と焦燥に駆られた表情や、マイルス・デイヴィスの乾いたトランペットの音が、今でも記憶にありありと甦ってくる程である(いつか再見したいと思いながらも今日に至るまで見返していないのだが、近いうちに手持ちのDVDを見てみたいと思う)。

《★★★細かいことを言えば、これは奇妙な邦題で、まるで死刑台それ自体にエレベーターがついているかのようだが、原題「Ascenseur pour l'échafaud」の意味するところは、言うまでもなく「死刑台に至るエレベーター」の意味である。》


 以来、フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」(1962。作中歌の「つむじ風(Le tourbillon)」の歌声も忘れがたい→https://www.youtube.com/watch?v=GZ41l_LJExg)や「黒衣の花嫁」(1968)、ルイ・マルの「鬼火」(1963)や「恋人たち」(1958)、「オーソン・ウェルズのフォルスタッフ」(1965)や「審判」(1962)、マルグリット・デュラス原作の「雨のしのび逢い」(1960。原題:「モデラート・カンタービレ」)、ミケランジェロ・アントニオーニの「夜」(1961)、ルイス・ブニュエルの「小間使の日記」(1964)、トニー・リチャードソンの「マドモアゼル」(1966)などなど、彼女の演技によって今も私の記憶にふかく刻まれている名作は数知れない。


 もっともこれらの作品のほとんどは私が生まれる前に撮られた作品ばかりで、同時代的に彼女の出演作を見た経験は決して多くない。彼女のフィルモグラフィーを改めて辿り直していくと、出来たての新作で彼女の演技に接したという意味では、フランソワーズ・サガン原作の「厚化粧の女」(1990)やヴィム・ヴェンダースの「夢の涯てまでも」(1991)、テオ・アンゲロプロスの「こうのとり、たちずさんで」(1991)くらいしか思い出すことが出来ず(ナレーションのみの出演ということでは、デュラス原作でジャン・ジャック・アノー監督による「愛人/ラマン」(1992)もある)、公開後しばらく経ってからテレビで放映されているのを見たフランソワ・オゾンの「ぼくを葬る」(2005)が、とりあえず現時点では最も新しい彼女の出演作である(ただし彼女はその後もツァイ・ミンリャンの「ヴィザージュ」(2009)やマノエル・ド・オリヴェイラの「家族の灯り」(2012)などに出演している)。


 同時代に接し得た作品が少ないことには、そもそも1980年代以降、彼女の出演作が日本で余り公開されて来なかったことが大きく影響している。上に挙げた作品以外で私の記憶に残っているのは、未見のものを含めて、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの「ケレル」(1982)やリュック・ベッソン「ニキータ」(1990)、友人でもあった作家のマルグリット・デュラス役を演じた「デュラス 愛の最終章」(2001)くらいしかない。

 80年代以降の出演作自体は実際には決して少ない訳ではなく、日本に輸入されるだけの話題性や作品性を持った映画が減ったためだと言ってもいいだろう。そもそも90年代以降、欧州(とりわけフランスの)映画の勢いは急激に衰え、一時期日本の映画界を活性化させた「ミニ・シアター・ブーム」の牽引役となった仏独や欧州の映画作品は、大資本をバックに制作されたハリウッド映画や韓国映画などの蔭にすっかり追いやられてしまった。


 実際私自身も90年代以降となると、英国映画を例外とすれば欧州の映画作品を見る機会は激減し、「パリ、テキサス」や「ベルリン・天使の詩」を見て以来、あらゆる機会を見つけては過去の作品を見て歩いたヴィム・ヴェンダースにしても、「ベルリン・天使の詩」の続編である「時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!」(1993)を最後に、ただの1本も監督作を見て来なかったし、見ようという気さえ起きなかったというのが正直なところである(1999年の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は一応DVDで鑑賞したが、これはむしろキューバ音楽を聴きたいがために見た作品なので例外と言っていいだろう)。もっとも欧州の監督以外でも、やはりミニ・シアター・ブーム時代に好きでよく見たジム・ジャームッシュや陳凱歌、張芸謀などの監督にしても同様で、もはや彼らの作品を見たいとは思わなくなってしまった。

 そうこうしているうちに、「死刑台のエレベーター」を(おそらく)数十年ぶりに見返してみた。

 初見の時には少しの瑕疵もない完璧な作品のように思えたが、改めて見直してみると、主人公(モーリス・ロネ)が殺人現場にロープを忘れて来てしまうのは余りに不自然であるし、冒頭のジャンヌ・モローとモーリス・ロネの電話でのやり取りも不要としか思えないなど、必ずしも終始緊張感の漲った作品であるとも思えないでいる。

 ルイ・マル自身は自らをいわゆる「ヌーヴェル・ヴァーグ」に属するとは考えていなかったようだが、しかしこの作品はトリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959)やゴダールの「勝手にしやがれ」(1960)などに先駆けて、クロード・シャブロルの「美しきセルジュ」(1958)とほぼ同時にフランス映画界に登場した「新たなる流れ」であったことは間違いない。
 この作品におけるジャンヌ・モロー(上の写真の1~3枚目)は文句なしに若く美しいのだが(とりわけ驟雨に打たれたままパリの通りを呆然と歩く姿は圧倒的に美しい)、華々しい成功を収めた実業家の夫人役ということもあって、後の作品群における彼女ならではの個性や強さを持った女性像と比べてしまうと、いささか大人し過ぎる感は否めない。

・「死刑台のエレベーター(1958)」(ルイ・マル監督) 3.5点(IMDb 8.0) 英国版DVD

 最後にいつも通り、英ガーディアンの追悼記事を紹介しておきたい(2つ目は出演映画のスチール写真が並んでいる)。

☆Jeanne Moreau obituary
 https://www.theguardian.com/film/2017/jul/31/jeanne-moreau-obituary

☆Jeanne Moreau: a life in pictures

 https://www.theguardian.com/film/gallery/2017/jul/31/jeanne-moreau-a-life-in-pictures

(後日付記)
 ちなみに韓国でも見られるフランス語放送のTV5Mondeでは、訃報が報じられた当日に早速、ドリュ・ラ・ロシェル原作でルイ・マル監督の「鬼火」(1963年。Le Feu follet)を放映していた(他にもあったかも知れないが、個人的に気がついたのはこの作品のみである)。
 また、週に一度通っている韓国語講習の席で彼女の死を伝えてみたところ、私とほぼ同世代の韓国人講師を除いては彼女のことを誰一人知らず(もっとも生徒は20代から30代ばかりである)、中年の映画ファンとしては慨嘆するよりなかった。嗚呼。
 

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 この間に読み終えた本は、半藤一利の「昭和史」(平凡社)のみ。
 この本に関しては、続編である「昭和史 戦後編」を読み終えてからあわせてコメントしたいと思う。

 映画(テレビ)の方は、

・日テレNNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」 インターネットで視聴(http://www.dailymotion.com/video/x4jpxhx)参考→http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ba7c323938bb4c49f843826f525a69cc
 アマゾンのKindleのセールに清水潔という人の『「南京事件」を調査せよ』という書籍が出ていて興味を覚え、この本のもとになったというテレビ番組をまず見てみることにした(結局本の方は購入しなかった)。
 南京攻略戦に参加した福島歩兵第65連隊の兵士が残した陣中日記や、南京での捕虜殺害を撮影したと思われる写真を、関係者の証言や南京への取材を通して検証していくドキュメンタリーで、45分程の短い番組ゆえの限界はあるとは言え、自分たちに可能な範囲で日記の記述内容や当時の南京の状況に関してクロス・チェックしていく番組制作の姿勢には共感を覚えた。
 そもそも南京事件なるものが歴史上実際に起きたということは、この番組を見るまでもなく、日本政府も「被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています」としながらも、「日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています」と公式に認めている事実であり(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/)、この番組で紹介されている「複数」の陣中日記の記述からも、捕虜や非戦闘員の殺害、略奪行為や強姦などがあったことは間違いないだろう。
 今も繰り返し議論されている、この事件が「(大)虐殺」と呼ぶべきようなものだったのか、どれだけの数の人間が犠牲になったのかということは本質的な問題ではなく、この番組によっても(当然だが)その明確な答えは出されていないのだが(ちなみに上記の写真についても、南京事件の際に撮られたものではないかという示唆はあるものの、断定はされていない)、インターネットを少し覗いてみるだけでも、この番組や南京事件のことを必死に否定・批判しようとするブログなどを多数見つけることが出来る。
 むろん疑問を呈することは歴史の検証において必要なことであり、この番組(上にも述べている通り、時間的な制約もあって、必ずしも完璧な内容ではない)を否定的に捉えることも自由である。しかし結論ありきで、ほとんど信仰にも似た態度で自国を擁護することは、単に見苦しいだけでなく、それ自体が彼らの愛している(らしい?)国家の評価をかえって貶めるだけのものでしかないだろう。
 それが如何に正視に耐えないものであるとしても、我々は如何なる国家の如何なる過去をも、現在の視点から否定したり書き直すことは出来ない。必要なのは先入見を排した冷静かつ非情な姿勢で、過去にあったことの真相(の断面)を検証し、その原因を探り、(望ましくない過去である場合)その再発を如何に阻止できるかということを検討することであるだろう。如何なる感情も感傷も、ましてや愛情もその作業には不要であり、むしろ完全に邪魔なものでしかない。自国だからという理由で特定の国家を擁護しようとすることは、突き詰めれば思考停止の信仰でしかない。そしてそれは往々にして、狂気と同義でしかない(もっとも突き詰めてしまえば、人間のあらゆる思考は所詮は信仰であり狂気だと言えるのかも知れないが)。

・「パニック・イン・スタジアム(1976)Two-Minute Warning」(ラリー・ピアース監督) 3.0点(IMDb 6.1) 日本版DVD
 アメリカンフットボールの大勝負が行われる日に、数万人の観客を集める競技場に潜入した改造ライフルを所持した正体不明の男と、男を阻止しようとする警察やSWATの活躍を描いたパニック映画である。今から見ても決して出来は悪くないし、アメリカンフットボールの試合が盛り上がっていく過程の昂揚感なども味わえて興味深いのだが、あらかじめ想定される結末へと流れていくだけなのでカタルシスはない(もっともその分、実際にこの種の事件が起きた際のパニックに駆られた数万人の観客の行動を想像するだけで空恐ろしくなるし、その意味では極めてリアルな作品になりえている)。
 俳優陣はチャールトン・ヘストン、ジョン・カサヴェテス、(その夫人でもある)ジーナ・ローランズ、マーティン・バルサム、デビッド・ジャンセン、ボー・ブリッジス、ジャック・クラグマンなど豪華な布陣だが、結局これらの俳優たちのうち、誰が最後まで無事で誰が殺されてしまうのかが分かりづらく、また犯人と警察に焦点を当てているため、アメリカンフットボールの試合進行状況も理解しづらく(一応どちらが勝ったのか推測することはできるのだが)、試合と事件の両者を並行して描くことで作品の焦点がぼやけてしまっている点が惜しまれる。
 「マシンガン・パニック」(原題:The Laughing Policeman)などの作品も担当しているCharles Foxが、得体の知れない無名の犯人によってもたらされる不気味さを巧みに表現する音楽を仕上げていて聴き逃せない。

・「女が眠る時(2016)」(ウェイン・ワン監督) 2.5点(IMDb6) インターネットで鑑賞
 スペインの作家ハビエル・マリアス原作(未読)。
 作品を書けなくなった小説家(西島秀俊)と、編集者であるその妻(小山田サユリ)、彼らが休暇で滞在しているホテルで出会う若い女(忽那汐里)とその愛人らしき老年の男(ビートたけし)を巡る謎めいた物語である。小説家はたちまちその若い女に魅了され、彼女と愛人との関係に強い好奇心と激しい嫉妬を覚えて彼らに近づいていくのだが、愛人との会話によって、男が毎晩、その若い愛人がベッドで眠る姿をビデオに撮影し続けていることを知らされる。そして2人が出かける姿を目にしてその後を追っていった小説家は、彼らが住宅街にある怪しげな店に立ち寄るのを目撃してその店に入っていく。店の中には少女時代の女とその両親、そして今では女の愛人となっている老年の男が一緒に写った写真が飾られている。店の店主(リリー・フランキー)もやはり意味不明の謎めいた言葉ばかりを口にし、小説家はいつしか2人(さらにその店主や、いつの間にか老年の男と親しく話を交わすようになっている自分の妻をも含めた4人)の世界へと引き込まれていく。
 川端康成の「眠れる美女」に村上春樹の不可思議な小説世界を合わせたような作風で、終始意味ありげな(しかし実際には何の意味もなさそうな)描写や台詞が繰り返され、最後まで謎は謎として放置されるだけである。その「文学的」な色彩を純粋に楽しめる人にとっては面白い作品だと思えるかも知れないものの、そうでない人間にとってはただ単に退屈で意味不明な苦痛の時間でしかないだろう。

・「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー(2016)」(ギャレス・エドワーズ監督) 4.0点(IMDb 7.9) Amazonビデオで鑑賞
 言わずと知れた「スター・ウォーズ」シリーズのスピンオフ作品であるが、シリーズ本篇の7作品と比べても少しも遜色のない、いや極言すればシリーズ最高作と見なすことすら可能な出色の完成度だと言っていい。
 「スター・ウォーズ」シリーズを見始めたのはまだ小学生だった頃のことで、その後、中学、高校と自分の年齡が増していくにつれて作品全体が幼稚なものにしか思えないようになり、シリーズ3作目(エピソード6「ジェダイの復讐」)の結末の能天気さにはすっかり呆れ果ててしまった。それでも惰性によって一応最新作のエピソード7「フォースの覚醒」まで見続けて来はしたものの、シリーズ全体の出来としては必ずしも映画史に残るようなものだとは思えないでいる(今でも独立した作品としてなんとか「見られる」のは、最初の2作=エピソード4と5くらいだろう)。
 しかし今回の作品からはそうした幼稚さや能天気さはほとんど感じられず、これまでの最高作だと考えてきたシリーズ2作目(エピソード5「帝国の逆襲」)以上に悲劇的な結末によって作品を見終えた後に深い余韻が残り、良い意味での「裏切り」にあったような嬉しさを覚えながら鑑賞することが出来た。
 今作はシリーズ第1作(エピソード4)のプロローグ(字幕)で語られている要塞デス・スターの設計図入手というエピソードに焦点をあて、第1作における最大の問題点(制作者の落ち度)であると言っていい、たった1発の爆撃によって「最終兵器」であるはずの要塞が崩壊してしまうという子供だましのような設定に、なんとか辻褄を合わせるために作られたと言っても良いのだが、「スター・ウォーズ」シリーズであることを忘れて独立した映画作品として見ても、十分見るに値する作品に仕上がっている。

 あえて難を挙げれば、導入部に出てくる聞きなれない名前や名称が分かりづらく、作品の内容を把握するまでに多少の時間を要することと、ドニー・イェンによるカンフー+座頭市のような殺陣はさすがに悪ノリのし過ぎだろうということくらいで(このシリーズ初のメインキャストに選ばれたアジア人俳優ドニー・イェンと姜文のキャスティング自体は素晴らしく、ドニー・イェンのアイディアによるらしい「盲人」の設定それ自体は決して悪くない)、シリーズ第1作制作当時の(つまり今のテクノロジーからすれば時代遅れだと言ってもいいような)映像やキャラクターの質感をあえてそのまま(あるいはそれに近く)再現した製作陣のこだわりにも好感が持てる(後になって作られたシリーズ第4-6作が、第1-3作よりも技術的には向上しているにもかかわらず、かえって安っぽく見えてしまうのとは対照的である)。
 シリーズ第1作(エピソード4)に登場したターキン総督(ピーター・カッシング)とレイア姫(キャリー・フィッシャー)の役をCG合成によって再現しようとしてはいるものの、現代のCG技術をもってしてもなお違和感の残る画面(特に明るい場所でアップになるレイア姫の顔の動き)もまた惜しまれる点だが、しかし全く別の俳優を起用して撮影するよりは、違和感の度合いは少なかったと言えるかも知れない。
 ジョン・ウィリアムズのスコアを用いながら作品の悲劇性を巧みに表現しえているマイケル・ジアッキーノによる音楽も悪くない。
 特筆すべきは、核爆発を思わせる白くまばゆい爆発光を背景に、自分たちがまもなく死ぬことを自覚しながらも「大義」を全うしえたことに対する満足しつつ見つめ合う主人公2人を映し出した場面の美しさである。極言するなら、この場面を見るだけでもこの作品を見る価値があると言ってもいい。

・「風花(2000)」(相米慎二監督) 2.5点(IMDb 6.8) インターネットで鑑賞
 相米慎二の遺作。失墜したエリート官僚(浅野忠信)と風俗嬢(小泉今日子)との北海道への「道行き」を描いた作品であるが、物語に起伏がない上、登場人物に個性的な魅力がなく、終始盛り上がりのないまま話が進んでいく。浅野忠信にしても小泉今日子にしても少しもエリート官僚や風俗嬢に見えず、彼らの抱えているはずの絶望や孤独、自暴自棄などが描き出せておらず、最後の展開にも説得力がない。結末近くの小泉今日子のパントマイム(?)も意味不明かつ唐突で(「道行き」からの連想で、浄瑠璃や歌舞伎の世界を描こうとしたのか?)、彼ら2人が取り戻すかすかな希望らしきものも図式的でリアリティを感じられない。

・「母べえ(2007)」(山田洋次監督) 2.5点(IMDb 7.6) インターネットで鑑賞
 黒澤明作品のスクリプターとして知られる野上照代の自伝的エッセイが原作(ただし父親の転向などに関してエッセイと映画とでは異同があるらしい)。たまたま上記の通り半藤一利の「昭和史」を読んでいるところで、まさにこの映画の主要な時代背景となっている昭和15年から16年(1940~41年)にかけての記述を読んだばかりなので、その点でも興味深く見ることが出来た。
 自伝作品が元になっているため物語的展開には乏しいが、父親が思想犯の嫌疑を受けて逮捕された一家で、母(この家では名前に「べえ」をつけて呼ぶ習わしがあり、父親は「父べえ」、母親は「母べえ」となる)と2人の娘、父親の教え子の1人で、父親が官憲に検挙されてしまった後も一家を支援し続ける山崎という若者などの生き様を通じて、あれよあれよと戦争に突入し、多大な犠牲を払いながら敗戦へと至っていく日本の姿を描き出している。
 淡々と戦時の生活を描いていく手法は堅実であるが、時として挿入されるコミカルな人物(特に笑福亭鶴瓶演ずるおじさん)やシーンが重苦しい戦時下を描く単調な作品にアクセントを加えている点は、極めて山田洋次らしい演出となっている。しかしそれも結末における極めて感傷的な「号泣」の場面ですっかり台無しになり、この前見た「母と暮せば」同様、最後に何かのメッセージや主張をしないではいられない山田洋次の欠点が露骨に表に出てしまった悪例だと言っていい。それまでの落ち着いたトーンを維持しつつ最後まで描ききっていれば、戦闘場面の一切ない、「銃後」だけを描いた戦争映画の佳作となりえたのにと、残念でならない。
 せいぜい30代半ばだろう母親役に、実際には60歳を過ぎている吉永小百合を起用したことによる連鎖反応(?)なのか、ほとんどの俳優が実年齢よりも遥かに若い役柄を演じており(吉永小百合ほどではないにせよ、「父べえ」役の坂東三津五郎も、山崎役の浅野忠信や「父べえ」の妹役の檀れいも、10歳から20歳程度若い役柄を演じている)、最も極端な例は、実年齢では吉永小百合より年上の倍賞千恵子が、死ぬ直前の「母べえ」(吉永小百合)の「娘」役を演じていることである。所詮は作り物の映画だとは言え、年齡(容貌)の余りの不自然さには違和感しか覚えることが出来なかった。

・「早春(1970) 原題:Deep End」(イエジー・スコリモフスキ監督) 3.0点(IMDb 7.3) 英国版DVD
 アンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキー、クシシュトフ・キェシロフスキなどと並んでポーランドを代表する映画監督のイエジー・スコリモフスキがドイツと英国で撮ったカルト作品。主演はかつてポール・マッカートニーのフィアンセとしても知られていたジェーン・アッシャーと、美少年俳優として鳴らしたジョン・モルダー・ブラウン。音楽は「ハロルドとモード 少年は虹を渡る」でも特徴的なボーカルで映画全編を彩っていたキャット・スティーヴンスとドイツのバンドCAN。
 今回は2011年に発売されたリマスター版DVD(Blurayとのセット)で鑑賞したのだが、映像は1970年の作品とは思えないほど綺麗に再現され、ジェーン・アッシャーが着ている原色のコートなど、60年代のいわゆるスウィンギング・ロンドンを象徴する鮮やかな色彩感覚が目を惹く(もっともこの作品のほとんどは英国ではなくドイツで撮影されている)。
 わずか15歳のマイク(ジョン・モルダー・ブラウン)は学校を中退して公共浴場で勤め始めるが、そこで同僚のスーザン(ジェーン・アッシャー)と知り合う。マイクより10歳ほど年上の彼女は決まった婚約者がいながら、マイクの学校時代の体育教師とも肉体関係を持つなど、奔放な生活を送っている。公共浴場での仕事を通じて、やがてマイクはスーザンに恋するようになり、彼女の恋人たちに激しい嫉妬を抱き、彼らの仲を邪魔しようとする。スーザンも初めのうちは自分を思慕するマイクのことを面白がっているのだが、嫉妬によって徐々にエスカレートしてくるマイクの行動に辟易し始めてつれない態度を取るようになり、最終的に悲劇的な結末へと至ってしまう。
 思春期の若者を扱った内容自体は特別目新しいものではないものの、ほとんどが手持ちのカメラで撮影されている映像や音楽、美術、衣装などが今から見ても実に洒落ており、悲劇的な結末へと至る展開は、同時期のアメリカン・ニュー・シネマを想起させるものでもある。そして何と言っても、若き日のジェーン・アッシャーの蠱惑的な魅力が全編に横溢していると言っていい。
 歓楽街ソーホーで主人公のマイクが何度もホットドッグを注文する屋台の主人を、「ピンク・パンサー」シリーズにおけるクルーゾー警部の弟子(?)「ケイトー」役で有名なバート・クウォークが演じているのも、見ていてひどく懐かしかった。
 特典映像にはジェーン・アッシャー主演の短編映画「Careless Love」(1976)の他、撮影以来初めて再会したというジェーン・アッシャーとジョン・モルダー・ブラウンによる対談を含むメイキングなどが含まれていて興味深い。

・「われに撃つ用意あり READY TO SHOOT(1990)」(若松孝二監督) 1.5点(IMDb 5.8) 日本版DVD
 全共闘世代の感傷で塗り固められた似非ハードボイルド作品。これが1990年ではなく、10年早い1980年に作られた作品であれば、まだ多少は見られた(許せた)かも知れないが、主演の原田芳雄が50歳(今の自分と同い年だとはとても思えない格好良さだが)、その同世代を演ずる桃井かおりや西岡徳馬、小倉一郎、山口美也子らの30代終わりから40代始めという年齡を考えると、内容的に如何にも青臭く惨めったらし過ぎて正視に耐えない。
 彼らが命を賭してまでベトナム人のメイラン(ルー・シュウリン)を救おうとするのは、かつて新宿騒乱(10.21)においてベトナム戦争反対を叫んだ過去の行動ゆえなのか、正直、私にはうまく理解できないし、たとえ彼らの行動に十分な理由があったとしても、物語自体が極めて陳腐かつ紋切り型で、原田芳雄と桃井かおりが命がけでヤクザ相手に乗り込んでいく結末の展開も余りに呆気なく予定調和に過ぎる。
 どうでも良いことだが、バブル真っ只中の1990年に撮影された新宿という街の安っぽさと醜悪さもまた、今の私には正視に耐えないものとしか思えなかった。

・「君の名は。(2016)」(新海誠) 3.0点(IMDb 8.5) インターネットで鑑賞
 「シン・ゴジラ」や「この世界の片隅に」とともに昨年の日本映画界を席捲したと言っていいアニメ作品。
 おそらく制作にあたっては大林宣彦の「転校生」や「時をかける少女」(そして細田守版の「時をかける少女」も)を参照しているに違いないが、所詮はSFやファンタジーに類する作り物であるにしても、何もかもが物語の都合に良いように展開していく上、男女の入れ替わりや時空間のずれなどの設定に杜撰なところがあり説得力を欠いてしまっている点が惜しまれる。

 また過去の作品でもそうだったように、まるでミュージック・ビデオのような過剰かつ稚拙な音楽の使用も、たとえそれが確信犯的なものであるとしても、作品世界を台無しにしてしまっているとしか言えない。特に冒頭部の、まるで映画の予告編のような部分は全く不要としか思えず、公開前に削除すべきだっただろう。
 にもかかわらず、監督の個人的な思い入れと感傷による力技で、観客を最後まで惹きつける力を持っていることは確かで、言ってしまえば2人の男女の極めて自己満足的かつ自己閉塞的な状況での物語を、311を彷彿させる、とある地方都市を襲った災厄という設定によって普遍化しえていることは否定できない。

 むろんそうしたひとりよがりな妄想に311を利用したという批判があることも理解できなくはないが、それでもこの作品には一大ブームを巻き起こしただけの俗受けするセンチメンタリズムとロマンチシズム、物語性が込められていることは間違いない。それを全面的に支持する訳ではなく、むしろ当惑と反撥を覚えることも多かったのだが、それでも完全否定する気にはなれない魅力があることは認めざるをえない。
 作画、特に風景描写や街の描写は、これまで同様に極めて実写に近い(あるいは実写以上の)リアルな感触を持ちながらも、しかしそのリアルさ故にかえって深みのない薄っぺらな画面になってしまっているものの、作品の主要な舞台となっている糸守という地方都市の造型や、彗星が地球に落下していく場面などの描写は、この監督にしか描きえないような個性的な触感と色彩感覚に溢れていると言える。
 
・「麻雀放浪記(1984)」(和田誠監督) 3.0点(IMDb 7.0) 日本版DVD
 阿佐田哲也原作(未読)。

 イラストレーターの和田誠の第1回監督作品で、モノクロの映像を通して戦後まもない日本を賭博(麻雀)の世界を通して描き出した人情噺である。演出は登場人物に過度に感情移入することなく、物語にも大きな盛り上がりはないものの、賭博に取り憑かれた人々の生き様を淡々と描くことで、人間存在の滑稽さや悲しさを浮かび上がらせることに成功している。高品格や名古屋章などのベテラン陣の存在感がとりわけ圧巻で、鹿賀丈史や加藤健一ら演技巧者がその脇を巧みに固めている。
 残念なのは、前半における最重要人物の一人である加賀まりこが物語の途中で不意に消えてしまい、全体的な存在感が希薄になってしまっていることである。もう一人のヒロインである大竹しのぶが(登場する時間は決して多くないものの)その個性をしっかりと画面に刻みこんでいるだけに、加賀まりこの行く末についてもきっちりと描いて欲しかったものである。