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  2017年7月22日(土)
 なぜ今頃になってこうした記事が書かれたのか理由は判然としないものの(文中にもあるように、単に「最初にパーティをぶち壊したくない」と、発表する時期を待っていただけかも知れないが)、昨年のマン・ブッカー国際賞(★)を受賞した、デボラ・スミスによる韓江(ハン・ガン)の「菜食主義者」の英訳に関する記事が、Korea Exposéという英文ネットメディアに掲載された(https://koreaexpose.com/deborah-smith-translation-han-kang-novel-vegetarian/)。

(他にも関連記事を以下のアドレスで

日本語の記事

https://www.recordchina.co.jp/b186307-s0-c30-d0065.html

ガーディアン

https://www.theguardian.com/books/booksblog/2018/jan/15/lost-in-mistranslation-english-take-on-korean-novel-has-critics-up-in-arms

New Yorker

https://www.newyorker.com/magazine/2018/01/15/han-kang-and-the-complexity-of-translation)

《★本年度の受賞者はイスラエルの作家、デイヴィッド・グロスマンに決まったが、マン・ブッカー賞を世界3大文学賞と持ち上げた韓国メディア(そもそもマン・ブッカー賞の本賞のことをそう呼ぶ人がいるだけで、当の国際賞は本賞から派生した別部門でしかないのだが)でもほとんど話題にならず、日本では受賞を報じた記事すら皆無に近い有様である。》


 詳細は原文にあたってもらいたいが、かねてより韓国内で議論になっていたらしい「菜食主義者」の英訳における誤訳や改変についての記事である。マン・ブッカー国際賞受賞に関しては、韓江(ハン・ガン)の原作よりも、むしろデボラ・スミスによる訳文の巧妙さ(以下の記事によれば「リリカルで傷つきやすい文体」とのこと)が主要因ではないかと言われても来たが、その巧みなはずの訳文に明らかな誤訳や訳者による創作的な改変が少なくないという議論について検討を加えたものである。
 以下の記事にもある通り、訳者のスミスは「菜食主義者」を訳した時点で韓国語の学習歴がわずか六年であったことも話題になったものだが、学習歴が翻訳の良し悪しに直接に結びつく訳ではないものの、原文と訳文との比較検討の結果、原作の第1部だけでも10.9%の誤訳が見つかり、5.7%の原文が省略されているそうである。さらにスミスは日本語と同様に省略されることの多い主語の取り違えをかなり行っているようで、「テクストの精神に忠実で」ありたいというスミスの言葉もこうした明らかな間違いには適用できないと、記事の書き手は厳しく指摘している。
 また記事の書き手は、どれだけ優れた翻訳家にも誤訳は見られるとしながら、スミスの誤訳の多さは通常のプロの翻訳家に比べて多いとも述べている。もともと単語ひとつ取っても多様な解釈の可能な文学作品においては、単なる誤解だけでない、言わば「意図的な誤訳」もありえ、細かい誤訳をいちいち指摘して批判するのは悪趣味だとすら言えるものの、しかしこの記事でより重要視されているのは、31.5%に及ぶという訳者による書き直しや装飾である。

 訳者による装飾と言えば、評論「裏切られた遺言」を記したミラン・クンデラの事例がよく知られている。自作の「冗談」に関してある評論家から「華麗でバロック的な文体」を指摘された彼は、自ら仏語訳を読んでみて、それが翻訳ではなく改作と言ってもいいような訳文であることを知って衝撃を受け、以来、自著の翻訳(特に仏語訳)に関して神経質とも言えるほど積極的な関与を行ってきた。
 作者の協力のもとに為された仏語訳は「真正」テキストとされ、チェコ語というマイナー言語に習熟した翻訳家の少なさにもよるのだろうが、クンデラは各国語の翻訳に際して、チェコ語原文からではなく、この作者がレヴューした仏語訳を用いて翻訳することを要請しているそうである(このため日本でも以前はチェコ語から翻訳されていた「冗談」や「微笑を誘う愛の物語」(新訳は「可笑しい愛」)、「存在の耐えられない軽さ」に関しては、仏文学者の西永良成による新訳が出されている)。さらにクンデラは「不滅」を最後にチェコ語での小説執筆をやめ(それ以前からも評論に関しては仏語で書き始めていたものの)、「緩やかさ」以降、最新作の「無意味の祝祭」までの小説作品もすべて仏語で書いてきたという徹底ぶりである。
 「裏切られた遺言」において(ただし手元にないため、以下はかなりいい加減な記憶に基づいている)、クンデラと同じくチェコで生まれたフランツ・カフカの文章とその仏語訳とを比較し、カフカの原文においてあえて同じ単語や表現が用いられている部分も、仏語訳では同じ単語や言い回しの反復を嫌う仏語の慣習にもとづいて別の単語や言い回しに変えられていることを指摘し、原文における言葉の反復を尊重した訳文の必要性などを訴えている。


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 話をデボラ・スミス(上の写真左。右は原作者ハン・ガン)訳の「菜食主義者」に戻せば、この記事の執筆者はスミスの誤訳や改作・装飾に関する判断には極めて慎重で、一方的に批判を行うことはしておらず、「腕(パル)」と「脚(バル)」の勘違いという極めて初歩的なミスに関しても、むしろ「No harm, no “fowl.”」だとして、「彼女は脚を伸ばして静かにドアを押して閉めた」という訳文によって、女主人公の大胆な性格を表現する効果がより強くなっていると記すに留めている。物は言いようである。
 より問題とされる装飾行為に関して、スミスはほとんどのページにおいて原文にはない形容詞を付け加え、最上級や強調された言葉を用いているそうである。そうした行為は訳者ひとりの選択によるものではなく、編集者による焚き付けもあっただろうとしながら、抑制的で静かな文体に断片的な単語で終わることの多い韓江の文章とはトーンや文体が異なっていると指摘している。ある批評家の言を引用して、スミスの翻訳には19世紀の印象が漂い、チェーホフ作品を彷彿とさせるとし、極端な言い方をするならディケンズの文体に翻訳されたレイモンド・カーヴァーを想像してみて欲しいとさえ述べている。
 この改変によって登場人物たちの性格も原作とは異なるものになっており、原作では平凡でつまらない、自らの女性への差別意識や偏見にも無自覚な頼りない男として描かれている夫が、英訳では横柄で垢抜けのした、知識を鼻にかけるような人物へと変わってしまっているという。原作がナイフでつけた繊細な線だとすれば、スミスの訳文は鑿(のみ)で掘ったより深い溝のようだと言うのである。

 しかしスミスの改変は、欧米の読者に差し出す商品としては一定の成功を収めていると記事の書き手は記してもいる。韓国文学における主体性のない優柔不断な人物描写は、欧米の読者が韓国文学を読む際に大きな障害となっていると言うのだ。そしてある評論家の言葉を引用して、スミスの「誤った解釈」は「受動的で夢見がちな、韓国の家父長的制度に抑圧された」原作の主人公をより主体的で理性的な人間として描き出しているが、まさに従来の韓国文学における登場人物たちの「被害者」的な造型こそが、欧米の読者にとって近づき難いものだったことを指摘している。欧米の読者は主体的かつ理性的で、障害を乗り越え、自ら行動する登場人物の出て来る作品を好むと言うのである。
 さらに記事の書き手は翻訳を料理に譬えてこう述べている。有能な副料理長(スー・シェフ)がいて、シェフオリジナルのレシピを、自国にはない素材を用いて海外で再現しようとしている。彼女はレシピの方向性を読み誤り、broil(焼く)をboil(茹でる)と読み違え、レモンのかわりにメロンを加えてしまうかも知れない。困り果てた彼女は、元のレシピにはないドレッシングを大胆に振りかけてしまうかも知れない。しかし最終的には彼女は何百万という新たな客が美味しいと評価する見事なヴァージョンを作り出し、それをミシュランの審査員がたまたま味わって三ツ星をつけるかも知れない。
 しかも料理長はそれで満足しており、副料理長にOKを出す(韓江は訳文を読み、スミスによるヴァージョンを全面的に支持しているそうである)。二人の料理長は共に国内外で有名になり、母国の料理に対する関心は世界中に広まり、誰もがその饗宴に招待される結果となり、めでたしめでたしという訳である。
 その一方で、ちょうどソウルに住む欧米人が、「本場の味」と宣伝されているピザにブルーベリーやトウモロコシ、サツマイモなどのあやしいトッピングが載っていることを非難するように、スミスの翻訳は韓国文学本来の「味わい」を伝えるのに失敗していると批判する一部の韓国人たちがいるだろうとも述べている。
 結論として記事の書き手は、スミス訳の「菜食主義者」が翻訳とはかくあるべしという「模範」となってはならないだろうが、スミスの英語の先天的な才能は否定しがたく、原文に対する誠実さや敬意が見られるかぎりにおいて、原作に必ずしも忠実でない翻訳が「裏切り」だとは限らないとしている。何よりもスミスは、この種の文学作品に決して手を伸ばすことのなかった人たちを獲得するという最も重要な任務を果たしたのであり、その点に関してスミスは終始、誠実だったとしてこの記事を終えている。

 私がこの記事に関心を覚えたのは、つい先頃、今年の韓国文学新人賞(韓国文学翻訳院主催)の結果が発表され、またしても落選の憂き目を見たことが多少は影響しているかも知れない。今年の日本語の応募者数は80名で(ちなみに英語は60名、仏語13名、独語10名、スペイン語10名、ロシア語17名、中国語34名)、新人賞受賞者は英語の2名以外は各国語につき1名というのは例年通りである(これは毎回思うことなのだが、英語への翻訳が様々な意味合いにおいて最も重要であることは理解できるものの、他言語に比べて圧倒的に応募者数の多い日本語においても、せめて受賞者を2名にして欲しいものである)。
 これまたいつも通り、審査過程については具体的な内容は一切公表されないため、応募者数が30名を越える場合あらかじめ選抜される10名の優秀者に自分の翻訳が入っているのかどうかすら知ることが出来ず、自分の訳文の出来に何の見当もつかず(要するにそこそこの出来なのか、まったく箸にも棒にもかからないのか)、翌年も継続して応募しようという士気が上がらないのも問題点の一つである(あるいはそれこそが、応募者数を抑えたいという主催者側の狙いなのかも知れないが……)。


 それはそれとして(要するに私には誰の目にも明らかな翻訳の才能はないということに過ぎない)、私がふと思ったのは、デボラ・スミスがこの新人賞に応募したとしたら、果たして彼女が受賞できたかどうかということである。おそらくその誤訳と改変の多さ故に、彼女の翻訳は最終審査のために選抜される10名の優秀者の中にすら選ばれなかったに違いない。そのことの是非を私はどうこう言うつもりはないが、個人的な考えでは、翻訳においては語学的な正しさは大前提で(つまり出発点でしかなく)、翻訳者の良し悪しはむしろそれ以降の作業、具体的には外国語で書かれた原作を如何に対象言語に自然に置き換えていくかという点にあると思っている。その意味においては、今回のデボラ・スミスの翻訳は(あくまで上の記事を参考にしての意見でしかないが)その大前提の時点で既に躓いている(原作を裏切っている)ということになる。


 だが、原作者がその「裏切り」を積極的に支持し、なおかつ国際的な賞まで受賞してしまった今回のケースは、そうした「一般的」な翻訳に対する考えを覆してしまったと言ってもいいかも知れない。もし今回の原作者がミラン・クンデラだったらどうだっただろうかと、私は現実にはありえないし、そうした空想をしても何の意味もない「もし……」を妄想してもみる。おそらくクンデラであったならば、自ら書いたものと乖離した翻訳によって得られた賞を、毅然として拒否していたかも知れない。しかし果たしてそれが原作者として、ただひとつの「正しい」態度なのだろうか。
 Traduttore, traditore(翻訳は裏切りである)という言葉にあるように、所詮、翻訳という行為は原作に対する裏切りに過ぎないと考えるならば、あらゆる翻訳はもはや原作とは異なる、まったくの別物だと考えることも出来る。実際、同じ作品でも、翻訳家の違いによって驚くほど異なった相貌を示すことを私たちはいくらでも経験しているだろう。裏切りという宿命を背負った翻訳について、どこまでが誠実な(許容しうる)裏切りで、どこからが許しがたい裏切りなのか。結局それは原作者の考えひとつでしかないと言っていいに違いない。


 さらに原作者が自らチェックしえない(原作者にとって)未知の言語についてはどうしたらいいだろう。映画監督のスタンリー・キューブリックは自らの監督作品の外国語字幕を、改めて別の翻訳者を雇って英語に訳し直させてチェックしていたと言われているが、それは彼ほどの有名監督だからこそ出来たことで、ほとんどが自転車操業である小説家にそんなことをする余裕は(経済的にも時間的にも)ないだろう。つまり、原作者は自らの作品の翻訳を許可した時点で、もはや自分の作品がどのような文体でどれだけ原作の意図を汲んだ仕方で訳されるかを、翻訳者に任せるしかないのである。
 結局のところ、もはや最後は翻訳者の良心や誠実さ(自らの語学力に対する評価を含めて)に期待するしかないという訳である。だからこそ上の記事でも、筆者は最後には訳者のデボラ・スミスの誠実さを(あくまで一面においてだが)擁護しているのである。もしデボラ・スミスが自らの語学力の評価という点でも誠実であるならば、これから増補や改訂がなされるたびに、主語の取り違えなどの明らかな誤訳について訂正を加えていくに違いなく、翻訳家として更に発展を遂げていくことに期待するしかないだろう(もっとも私が彼女の英語訳を読む機会はまずないだろうし、仮に読んでみたところで細かいニュアンスなどの違いに気づくことは出来ないだろうから、所詮私にとってはどうでも良い話なのだが)。

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 この間に読み終えた本はなし。

 映画の方は、

・「この世界の片隅に(2016)」(片渕須直監督) 3.5点(IMDb 8.1) インターネットで鑑賞
 原作は漫画という形式を十全に生かしつつ、ごく平凡な一人の女性を通して戦争下に生きる庶民の生を描ききった傑作であるが、基本的に原作に忠実でありながら、アニメーションという形式によって漫画の二次元世界を見事に三次元に昇華させ(主人公の婚家である山あいの家から呉の港を見下ろす描写における視野の奥行きの広さは特に圧巻である)、単なる原作の動画化(それだけでも十分成功は約束されていたと思うが)に終わらない「進化=深化」を遂げた作品となっている。
 正直、初めは主人公・すずを演じたのんという女優の声に馴染めずにいたのだが、物語が進展するにつれて作品に集中していくことで徐々に違和感は消えていった(とは言え、果たしてこの女優の起用が最善の選択だったかどうか疑問ではある)。
 原爆を巡る描写や終戦当日の描写は微妙に原作とは異なり、特にすずの夫・周作と娼婦・凛との関係は割愛され、また終戦の玉音放送を聞いた後のすずの台詞も原作とは異なっている(とりわけ遠く呉の街に朝鮮の独立旗があがり、すずが口にする「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね」という言葉が、映画では「ああ、海の向こうから来たお米……大豆……そんなもんでできとるんじゃなあ、うちは。じゃけえ、暴力にも屈せんとならんのかね」に変えられているのは惜しまれる(原作においてはこの台詞と、その前の敗戦を悔しがるすずの言葉によって、彼らが加害者でもある日本という国家に属していたことを示唆してもいて、今の今まで敗戦を悔しがっていたすずが、たちまち自分自身の立場を相対化しえていることを示している)。→原作が手元にないので、これらの台詞の違いについては以下の記事を参照した(https://www.sankei.com/article/20161126-5GGVQBY5BNKZVDN4IVDDAGQI3E/)。
 瑣末なことでは、敗戦時の「玉音放送」をなぜ吹き替えにしたのか疑問で、もし音質が悪く聞きづらいからなのであれば字幕をつければ済む話だと思うのだが(それは映像的には「美しくない」のかも知れないが)、余りに聞き慣れてきたものだけに大きな違和感を感じてしまった。

・「マイマイ新子と千年の魔法(2009)」(片渕須直監督) 2.5点(IMDb 7.0) インターネットで鑑賞
 千年前の古き街並みの痕跡をかすかに留めている地方に、東京から一人の少女が引っ越して来る。彼女と、額の上につむじ(マイマイ)を持ち、祖父から語り聞かされてきた千年前の人々の姿に奔放自在な空想を委ねる少女・新子との交流を描くこの作品は、大林宣彦の「転校生」などの転校モノに滅法弱い私としては、彼女らの空想が本当に千年前に存在した少女とシンクロしていく中盤あたりまでの展開には大いにワクワクさせられたのだが、終盤から徐々に生臭く凡庸な大人たちの「失墜」の話が混じってきてから突然つまらなくなってしまった。
 宮崎駿の「となりのトトロ」の再現とは言わないものの(実際、両者は時代設定といい、物語の細部といい、実によく似ている)、一旦大きく展開させた空想物語を現実と融合させてオチをつけるやり方そのものには異議はないものの、その方法としては余りうまく行っているとは思えない。結局最後は「この世界の片隅に」にも多少感じられた説教臭ただようハッピー・エンディングに収束してしまっており、その極め付きは少年少女合唱団のような歌声による「Sing」(カーペンターズ)の使用で、この優等生的な音楽の登場によって、前半部の秀逸さも一気にしぼんでしまった。

・「乳母車(1956)」(田坂具隆監督) 3.0点(IMDb なし。CinemaScape 3.4) 日本版DVDで再見
 石坂洋次郎原作(未読)。やはりこれまた石坂洋次郎原作らしい浮ついた台詞と不自然な(そして進歩的な)思想に基づく極めて図式的な作品である。それでもこれまで見た他の作品に比べてまだしも見られるのは、登場人物たちがさほど教条主義的ではなく、誰もどこか「抜けて」いるようだからだろうか。芦川いづみと石原裕次郎演ずる「若者」チームはやはり薄っぺらな人間に思えて仕方ないのだが、若い愛人役を演じている新珠三千代が天真爛漫でありながらシングル・マザーとして毅然として生きていく女性像を嫌味なく演じているのがいい(彼女は当時まだ20代半ばの若さであるが、後年もそうであるように実に落ち着いていて貫禄があり、その演技にも立ち居振る舞いにも全く破綻が見られない)。宇野重吉が人は良いものの優柔不断で自分勝手な父親役を少しの嫌味もなく演じていて(もっとも実際にはまだ40代初めで、今の私より遥かに若い)、母親役の山根寿子とともに全くの適役である。

・「アズミ・ハルコは行方不明(2016)」(松居大悟監督) 0.5点(IMDb 6.4) インターネットで鑑賞
 最近見た映画で、これくらい理解したいという気持ちを起こさせない作品はなかったと言っていい。一体何のために、何を目指してこうした作品を撮ろうと思ったのかすら理解不能である。つまるところフェミニズム映画の一形態なのかも知れないが、ここで語られている思想(もしそんなものがあるのであれば)はひどく凡庸で薄っぺらでしかない。零点をつけても構わない。

・「やさしい本泥棒(2013)原題:The Book Thief」(ブライアン・パーシヴァル監督) 3.0点(IMDb 7.6) インターネットで鑑賞(英語字幕)
 決して突出した作品ではないが、意外な語り手(正体は終盤になってようやく明らかになる)によって語られていく第二次世界大戦のドイツにおけるある一家(もっとも彼らには血のつながりはないのだが)をめぐるこの物語は、ドイツ(人)=悪、連合国(の人間)=善といった紋切り型から抜け出して、人間存在が持つ愚かさと美しさとをほぼ等価なものとして冷徹に眺めつつ、しかし終局的には人間存在への讃歌として締めくくられているという点で、一風変わった戦争映画(戦闘映画ではなく、戦争を扱った作品という意味)だと言える。

 そうした結末はややありきたりであるし、題名の「本泥棒」という言葉が余り作品のなかで生かされていない点は残念であるし、そもそも書物や言葉に対するこの作品の立ち位置は、レイ・ブラッドベリ(そしてフランソワ・トリュフォー)の「華氏451度」や、ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」を余りに直截的に想起させてしまう点でも弱い。しかし語り手が繰り返すように「何者も永遠に生きることはない」この世界において、「言葉」こそがその儚く過ぎ去るだけの世界の歴史に抗しうるのだということを明示したことに(多少感傷的ではあるものの)いくばくかの共感を覚えずにはいられない。

・「洲崎パラダイス 赤信号(1956)」(川島雄三監督) 3.5点(IMDb 7.4) 日本版DVDで再見
 芝木好子原作(未読)。初見の時は大して感心しなかった記憶しかないのだが、年をとったせいなのか、今見直してみると実に心に沁みわたる作品である。互いに負けず劣らずだらしのない男女(新珠三千代と三橋達也)のグダグダとした恋愛話を中心に、洲崎パラダイスと呼ばれる遊廓へと向かう橋の手前にちいさな飲み屋を構えつつ、廓(くるわ)の女と逃げてしまった夫を待ち続ける2人の子持ちの中年女(轟夕起子)、三橋達也が出前持ちとして働く蕎麦屋に勤める若い女(芦川いづみ)などが織り成す人生の一断面を鮮やかに切り取った傑作である。
 個人的にはつい最近までは、ただの上品そうなおばさん程度の印象しか抱いていなかった新珠三千代だが、この作品(まだ20代半ばなのにあの色気とけだるさは一体どこから出てくるのだろうか)をはじめ、上の「乳母車」や「黒い画集 第二話 寒流」などにおけるこの女優の素晴らしさに今更ながら気付かされ、改めて彼女の出演作を見直す必要があると思っているところである。
 今作では一見冷淡そうに見えながら、実は人情味あふれる飲み屋のおかみ役を演じた轟夕起子も素晴らしく、新珠三千代と三橋達也だけでは単なる出口のない愚かな男女の痴情話に終わってしまうだけの物語に、しみじみとした人間味が加わって深みのある人情話になりえている。黒澤明の「用心棒」などでお馴染みの河津清三郎も、遊び人の中年男を何の違和感もなく演じていて、小沢一郎とともにこの作品の喜劇としての一面を際立たせるのに大いに貢献している。
 昭和三十年代の勝鬨橋周辺や洲崎の街を写しとった映像は実に美しく、しっとりと画面の濡れた雨降りの場面や、トラックが埃をあげて走りぬけていく場面との対象も見事である。観客の胸に不安を掻き立てる眞鍋理一郎による不気味な音楽も忘れがたい。

・「言の葉の庭(2013)」(新海誠監督) 3.5点(IMDb 7.6) インターネットで鑑賞
 一篇の映画というより、ミュージック・ビデオ(MV)とでも言った方がいい作品(尺もわずか46分ほどである)。従って上の点数も映画作品としてというよりMVとしての評価。新宿御苑をモデルにした庭園と、作中絶えず降りしきる雨の描写は実写よりもリアルで秀逸である。監督の新海誠は次作の「君の名は。」で一気にメジャーへと躍り出たが(もっとも私は未見であるが)、おそらくそのブレイクスルーの萌芽は既にこの作品にも垣間見ることが出来る。

・「秒速5センチメートル(2007)」(新海誠監督) 2.5点(IMDb 7.8) インターネットで鑑賞
 これは「言の葉の庭」以上に自意識過剰の感傷に満ちみちたミュージック・ビデオ作品と言ってよく、10代の時に見たらそれなりに感動したかも知れないものの、しかしやはりこれが30代半ばのオッサンによって作られたという事実(もっとも「言の葉の庭」は40代の中年オヤジが作ったのだが)には、ある種の失望(苦笑?)を覚えざるをえない。アニメそのものもまだ「言の葉の庭」の完成度には達しておらず、物語もあってないようなもので、だらだらと続く台詞も幼稚で青臭い。しかしこうしたものを堂々と作ってしまう(そしてそれなりの支持を得てしまう)ということは、それ自体がひとつの稀有な才能なのかも知れないとも思う。

・「市民ケーン(1941)」(オーソン・ウェルズ監督) 3.5点(IMDb 8.4) 日本版DVDで再見
 過去の名画ランキングでは常に上位に来る作品だが、当時としては画期的だった撮影技法やドラマツルギーなどの映画史的な価値を抜きにしてしまうと、果たして現代の観客にどこまで訴えかけるものがあるかどうか疑問もないではない。しかし数々の新聞社を所有し、時代の寵児になりかけた一人の男が死の床で口にした最後の言葉「薔薇の蕾」という言葉を手がかりに、その生涯をわずか2時間の映像で辿っていく、緊密でありながら謎めいた物語の展開には、今でも感嘆を禁じ得ない(オーソン・ウェルズは当時まだ二十代半ばの若さだった)。
 音楽はかのバーナード・ハーマン(映画音楽としてはほぼ最初期の作品である)、編集はロバート・ワイズと、その後、映画史に名を残す面々が参加しているのも映画好きにとっては堪らないだろう。

・「12人の優しい日本人(1991)」(中原俊監督) 3.5点(IMDb 7.0) インターネットで再見
 三谷幸喜脚本作品。元々演劇用に書かれた台本を映画化したもので、アメリカ映画「十二人の怒れる男」の舞台を日本に移したパロディ作品である。公開当時の日本には現行の裁判員制度もなく、欧米の陪審員制度というものが実に不思議な制度に思えたものだが、物事の是非を判断する際に論理よりも感情や印象を優先しがちで、議論の下手な日本人の代表的なメンタリティを12人の陪審員に割り当てて、互いに噛み合わず、往々にして平行線をたどるだけの彼らの議論の様子を、ユーモアと皮肉たっぷりに描き出している。
 とにかく脚本がよく出来ているのだが、陪審員を演ずる個性的な俳優たちの演技がその脚本にリアリティを与えている。特に伊丹十三作品によく出演していた、この作品では議論の苦手な喫茶店店主を演ずる上田耕一や、終始自説に絶大な自信を抱いて横柄な態度を取る歯科医を演じた村松克己が良い。
 どうでも良いことだが、陪審員のほぼ全員が今の自分より年下で、上田耕一や村松克己、林美智子(「悪魔の手毬唄」)などがほぼ同年代であることに軽い衝撃を覚えた(もっとも今の私が一番外見的に近いのは、当時50代後半で、やはり伊丹十三作品の常連だった、この作品に出演した俳優中で最年長の守衛役・久保晶に違いないのだが……。下の写真)。

 


・「長く熱い週末(1980)」(ジョン・マッケンジー監督) 2.0点(IMDb 7.7) 英国版DVDで視聴
 ロンドンの闇の社会を取り仕切るギャングのボスをボブ・ホスキンスが演じ、その妻(愛人?)役にヘレン・ミレン、今ではロンドンの新金融街カナリー・ウォーフとなっているドックランズ地区の再開発に関連してボブ・ホスキンスがアメリカから連れて来た出資者にエディ・コンスタンティーヌ(ジャン・リュック・ゴダールの「アルファヴィル」)といった、一癖も二癖もある俳優が出演し、1980年代のロンドンの裏社会を舞台に繰り広げられるドラマとなれば、面白くないはずがないのだが、これが意外にもつまらないのだから不思議なものである。
 前半はまだ何とか見られるのだが、途中から突然IRA(アイルランド共和軍)が登場するあたりから訳の分からない「トンデモ」作品になり出し、IRA全体から敵対視されて命を狙われるという想像を絶した緊急事態にもかかわらず、IRAの関係者を殺して難を逃れたと無邪気に信じている主人公が、最後に破滅を迎えるという結末は、ほとんど収拾のつかなくなった話を途中で放擲したと言ってもいい適当さ加減である(それもまたロンドンを一人で取り仕切っていると勘違いしているボブ・ホスキンスの視野狭窄に陥った傲慢さがもたらした結果だと言えなくはないものの、そうだとしても少しも面白くはない)。
 1980年代(あるいは70年代最後の?)のドックランズの風景を見られる点では貴重な作品だが、それ以外にはほとんど何の取り柄もない凡作だと言っていい。IRAの一員として若き日のピアース・ブロスナンの姿が見られるのも一興ではある。

・「影の軍隊(1969)」(ジャン・ピエール・メルヴィル監督) 3.0点(IMDb 8.2) 英国版DVDで視聴
 映画にもなった「昼顔」や「サン・スーシの女」などの小説で知られるジョゼフ・ケッセルによる小説が原作(未読)。
 フランスにおける抗独運動(レジスタンス)を扱った「名作」であるが、ナチス・ドイツを一方的に悪者にして抵抗運動を称揚する英雄譚ではなく、むしろ組織の維持のために裏切者を排除する人間たちを冷徹な視線によって描く作品であり、その点では意義深い映画だと言っていい(もっともレジスタンスの暗い側面については、日本でも作家の遠藤周作などが初期の随筆で早い時期から採り上げていたくらいなので、本国フランスでは更に早くから目をつけていた人々がいたに違いないのだが……)。
 リノ・ヴァンチュラにシモーヌ・シニョレ、ポール・ムーリス、ポール・クロシェ、ジャン・ピエール・カッセル(さらに友情出演(?)だがセルジュ・レジアニ)などのフランスの名優たちを集めた豪華なキャスティングだが、小説であれば作中人物の内面に焦点をあてて深く掘り下げていくことも出来るのだろうが、ただでさえ台詞も説明もほとんどない演出手法で、祖国解放などの大義名分のために互いに命を張った熾烈な抵抗運動のなかで、相互に裏切り裏切られるような利害対立を生みもする緊張した人間関係を描くとなると、どうしても動的な映像とは相容れない部分(すなわち物語が進まずに退屈さをもたらす場面)が生じてしまうのは如何ともしがたい。要するに作品自体、面白くないのである。
 個人的にはシャルル・ド・ゴールが率いた自由フランス軍の本部のあったロンドンのCarlton Gardensや、ド・ゴールが滞在していた北西ロンドンのFrognalなど(おそらくセットではあるものの)、歴史的な場所を記念する銘板(Blue Plaque)を頼りに、ロンドン滞在中に歩き回ったことのある場所が出てきたので懐かしく感じられたものの、作品そのものは期待していたほど高く評価できるものではなかった。

・「シン・ゴジラ(2016)」(庵野秀明/樋口真嗣監督) 3.0点(IMDb 6.8) シネマテックKOFAで鑑賞
 たまたまシネマテックKOFAで上映されることを知ったため(むろん鑑賞料は無料)、韓国語の講習に行くついでに出かけて鑑賞。
 昨年の日本映画界の話題のひとつであり、ゴジラ作品の久々の(というより第1作以来の)佳作ということで期待していたのだが、正直わざわざ出かけて行って見るに値するほどの作品だとは思えなかった。
 ゴジラそのものに焦点を当てず、戦後の日米関係や日本政府の硬直的な意思決定過程などの政治的な問題を中心に描いている意図は理解できるし、日本映画にしては特撮やCGなどもかなり健闘している方なのだが、如何せん、浮わついた台詞(「この国にはまだまだ希望がある」といった馬鹿げた台詞や、広島などを巡る台詞も余りに安っぽい)や俳優たちの(意図的ではあるのだろうが)わざとらしい演技(特に日系米人役の石原さとみの演技や英語は正視に耐えなかった)が邪魔をしていて、外国人としてこの映画を見ることが出来たら、まだ多少はマシだろうと何度も思ったものである(もっともその場合には、なんだか日本人たちが自分たちだけの狭い視点で自画自賛しているようにしか思えないだろうが)。
 原爆投下や311を(間接的にではあれ)経験し、戦後アメリカに従属してきた日本という国家の立場に多少でも意識的な人が見れば、それなりに共感や感動を覚えたり出来るのかも知れないが、そうした経験のない外国人がこの作品を見た時、果たしてどれだけそうしたメッセージ性や政治性に理解や共感を持ちうるのか大いに疑問である(要するに日本を一歩外に出てしまえば、普遍性を持ち得ない作品だと言っていい)。最近の「クール・ジャパン」ではないが、所詮は内向きに自画自賛しているだけの、自慰映画でしかないのではないだろうかとさえ思ってしまう(これだけの話題作で、しかも無料であるにもかかわらず、平日の夜ということもあってなのか会場がガラガラだったのも、そうした「閉じられた作品世界」と決して無縁ではないだろう)。
 最初に画面に登場するゴジラの造型の安っぽさ(これまた意図的なものなのかも知れないが)は衝撃的で、その冗談のような気味の悪い姿をしたゴジラが現れた時の失望感は大きく、その後「進化」を遂げて多少はマシになっていく姿を見ても、またおかしな姿に進化(退化?)してしまうのではないかと、少しも安心することができなかった。
 映画好きとして嬉しかったのは、「東宝株式会社」や「終」のロゴや文字が昔のものを真似たものだったことだが、一方で伊福部昭によるゴジラのテーマなどの音楽は、オリジナル録音を用いたせいか(?)他の現代的な音楽との音質の違いが明瞭で、かえって違和感を覚えてしまった。オリジナルを重視する姿勢は買うものの、多少のアレンジを加えるなど、他の音楽との齟齬や違和感を感じさせないような工夫も必要だったのではないだろうか。