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 2017年1月18日(水)
 昨年末にひいたひどい風邪のせいで朦朧としながら家に引きこもっているうちに、1月も既に半月が過ぎ去ってしまった。

 韓国では相も変らず大統領のスキャンダル問題がテレビや新聞紙面をにぎわしており、昨年末から行われてきた国会での聴聞会や大統領の弾劾訴追案の可否をめぐる憲法裁判所による審理の模様も随時テレビ中継されている。この週末も今回のスキャンダルの中心人物で大統領の知人であるチェ・スンシル氏がこの弾劾審理の場に出席したり、反政府的な作品に出たり反体制的な言動を行う文化人を対象にした「ブラックリスト」(要注意人物リスト)に関して閣僚が国会に召喚されて追及されたり、特定財団等への贈賄容疑でサムソンのトップに対する逮捕状が請求されたりと、事態は時々刻々と進展・変化を遂げつつある。

 さらに次期大統領の有力候補と目されている前国連事務総長のパン・ギムン氏が帰国したこともあって(もっとも既に大統領選を視野に、事務総長時代の発言をあっさりと覆したりしているため、「オポチュニスト」という批判を浴びている)、韓国の政局はさらに騒がしくなってきている。

 そもそもこの国の政治に余り(正直に言えばまったく)関心がないため真面目に見ている訳ではないものの、テレビのチャンネルを回していると自ずと国会における聴聞会などの様子が目に入ってくる。細かい内容にまで注意を払わなくとも、国会議員たちが「渦中」の人々相手に居丈高な態度で罵声を挙げながら詰問するような場面にも接することになり、相手を見下すような彼らの口ぶりや態度を見ているだけで、こちらまで実に不愉快な気分になってくる。
 そこに見られるのは安全かつ優位な「善」の立場から、「悪」なるものを一方的に裁こうとする処刑人の傲慢であり、ひたすら相手を威圧し組み伏せようとするむき出しの暴力性である。言うまでもなくそうした人間には自分たち「国民」が当の大統領を選んだことの責任を問うような謙虚さは微塵もなく、自分自身の正当化と保身のために、「あと出しジャンケン」のように既に敗北の決まった敗者をただひたすら「叩き」続ける攻撃性が垣間見られるだけである。
 むろん召喚された側の人間たちも問題なしとは言えない。こうした審理の場における常套手段である知らぬ存ぜぬや「記憶にない」といったおざなりの言葉が繰り返されるばかりで、彼らもまた自己の正当化と保身とに固執しているだけなのかも知れない。その意味ではこの勝負は本質的には永遠に勝敗の決することのない敗者同士の泥試合でしかありえないだろう。



 その一方で、パクサモ(박사모。韓国語の「朴槿恵を(「パク」クネルル) 愛する人々の(「サ」ランハヌンサラムドゥレ) 集まり(「モ」イム)」(「박」근혜를 「사」랑하는 사람들의 「모」임)という言葉の頭文字をとった造語)と呼ばれる朴大統領支持派も徐々に勢力を増してきており、週末ごとに韓国各地で行われている大規模デモに参加するこの「パクサモ」の数が、最近では大統領の退陣を求めるデモ参加者の数を上回っているという報道もあるほどである(上の写真は韓国のインターネットのニュース・メディア「OhmyNews」の記事より拝借。記事は→http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002271203)。
 ひねくれ者の私などはそうした多様な意見の表出こそ良くも悪くも「民主主義」だと思うのだが、ポピュリズムの傾向を一層強めている韓国政界や韓国メディアは、尖鋭化した市民団体の扇動する「無辜なる市民たち」(笑)によって腑抜けにされてしまっており(言い換えればそのことを利用して「世論」に迎合して自己保身をはかっている訳だが)、「パクサモ」のような反動勢力を端から否定的な視点でしか捉えようとせず、「大統領(側)=悪 市民=善」という欺瞞に満ちた偽りの図式を保持しようとする傾向が依然として堅固であると言っていいだろう。

 かてて加えて、昨年末の日韓両政府間の「従軍慰安婦合意」の見直しや破棄という問題がいつしか次期大統領選に出馬するための「踏み絵」のように化しており、釜山の日本総領事館前に新たに設置された慰安婦像に対する安倍首相の発言や日本政府の対応を一方的に批判・非難する論調も一気に高まってきている。そもそも今回も大統領やその知人を非難する際にしばしば用いられているのは「親日派」や「売国」といった言葉であり、戦後70年以上たってもここ韓国では未だに「日帝強占期」(韓国で日韓併合時代をさす言葉)という名の亡霊が至るところにさまよっていることが改めて分かる。この国では今もあらゆる「悪」の元凶は「日本」にあり、自分たちは常に「被害者」であり「無謬」だという訳である。
 どう贔屓目(?)に見たところで、国家間で一旦交わされた合意を一方的に反故にすることは一法治国家としての信頼度を甚だしく毀損するものでしかないはずだが(さすがの韓国メディアにもそうした論調をしているところはある)、次期大統領の有力候補と目される人たちが揃って慰安婦合意の見直しや破棄を主張して、どこに実態があるのかも分からない「国民感情」や「世論」(韓国では「民心」という言い方をよくする)に迎合するような発言を好き勝手にしている様子を見ていると、いわゆる「反日無罪」や「ゴール・ポスト問題」がまたしても繰り返されていると思わないではいられない。これでは、「まともに付き合える相手ではないのだからこれ以上関わりを持たずに無視・断交すべし」と主張する嫌韓派や反韓派の思う壺である。

 今の韓国では、政界もメディアも自分たちに批判の矛先が向かないように「市民」や「世論」に尻尾を振るだけで、大局的な視野に立ってアジア地域の政治状況を鑑みながら冷静かつ論理的に思考することがほとんど為されていないのが実状である(もっともそんなことをした途端に「国賊」や「親日派」というレッテルを貼られて社会的に断罪されてしまうだけかも知れないが・・・)。そんな状況のなかで、一体どんな構造の頭脳を持っていたら、先頃からの「平和的なデモ行進」に見られるような「誇れる民主主義」に「世界が驚愕している」などという自我自賛に発想を転換できるのか、誠に不思議でならない。
 むしろ常に他者からの非難や断罪を恐れつつ、「国民」や「世論」なる亡霊に迎合した「穏当な発言」しか出来ない「恐怖社会」、「監視社会」そのものではないだろうか。そうした「言論・思想統制」が、「権力」や「上部組織」から強いられるものではなく、「民主主義」や「市民社会」という「立派」な上辺(うわべ)のもとで、どことも知れない場所からジワジワと滲み出てきているという意味では、「上」から力で無理やり押さえ込んでいるお隣の北朝鮮よりも、事態は遙かに深刻だと言えるかも知れない(もっとも程度の差こそあれ、目に見えない「空気」や「雰囲気」に流されやすいのは日本でも似たり寄ったりで、自戒をこめつつ警戒・批判しないといけないだろう)。


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 そんななかこの年始に、NHKのBS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」という番組を見る機会があった(★)。

《★ 今のところ下記で視聴可能(前編、後編の2部構成)

 https://vimeopro.com/user44384397/amatelas-/video/199090258

 https://vimeopro.com/user44384397/amatelas-/video/198996296

 

 かつて自ら司祭になろうと思ったことさえあるという宗教的なバックグラウンドを持ち、30年近く前から映画化を目指してきた遠藤周作の「沈黙」をこのたびようやく完成させたマーティン・スコセッシが、鎖国時代の日本を舞台とするこの小説に如何に向き合い、咀嚼し、彼なりの「回答」を提示したかに追ったドキュメンタリーである。
 遠藤周作に関しては、以前このブログでも神奈川近代文学館で開催された「遠藤周作展」を紹介しながら採り上げたことがある(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502039369.html)。このなかで私は「彼が生涯主題にしたキリスト教は決して日本人読者に馴染みあるものではなく、おそらくそれゆえに今後、彼の作品がどれだけ読み継がれることになるかは不明だ」と述べて、もはやこの作品が、日本におけるキリスト教弾圧の歴史や日本人のメンタリティといった、非常に限定された主題に関心のある読者にしか訴えるものがないかも知れないことを示唆してもいた。実際私自身も、もはや自ら積極的に遠藤周作の作品を手に取ることはほとんどなくなり、遠藤のことをとうに自分の興味対象から外れてしまった作家として捉えているに過ぎなかったのでもある。

 


 しかしこのドキュメンタリー番組を見ているうちに、異なった思想や宗教、国家や民族に対する不寛容や排他主義の蔓延しつつある今という時代において、400年近くも前の辺境の地で起きた出来事を描いたこの「沈黙」という作品が、思いがけずも普遍的な意味合いや問いかけを持ち始めていることに気づかされて、衝撃と言ってもいいほどの驚きを覚えたのだった。「沈黙」のみならず他の作品でも遠藤が飽かず描き続けてきた、神の沈黙や不在をめぐる信仰の問題や、人間が他者を裁くことの是非、心ならずも罪を犯し、神を裏切り、他人を背いた人間に対する寛容や赦し(ゆるし)の問題、転向者の内的葛藤といったものが、今まさに現代という時代を照射していると言っても決して過言ではないだろう。
 なによりも原作「沈黙」や実際の史実に対してマーティン・スコセッシが払っている敬意や真摯な態度、自分自身のバックグラウンドに引き寄せつつ作品に対していくその深く切実な「読み」には大いに感心させられるしかなかった。特に「転び」という言葉を「棄教」と英訳してしまうことに抵抗を覚え、「転ぶ=また立ち上がることが出来る」という意味合いを重く見ているところなどは、彼がこの作品の核心を見事に捉えていることのひとつの証左だろう。映画を撮影しながらも絶えず原作ではどう描かれているか検証する姿勢なども、スコセッシがこの作品を遠い異国の大昔の物語ではなく、今現在の自分自身にとって大きな意味を持つアクチュアルな作品として捉えていることを示すものだと言っていいかも知れない。

 


 この小説は既に1971年に篠田正浩によって「沈黙 SILENCE」という題名で映画化されており(音楽は篠田作品を多く手がけている武満徹、撮影はフリーになって間もない宮川一夫が担当している)、原作者の遠藤と監督の篠田が脚本を書き(ただし踏み絵を踏んで棄教し座敷牢で暮らすロドリゴが、やはり転びバテレンのひとりで武士だった夫を殺された女=岩下志麻をあてがわれると、すぐさま女に襲いかかる終結部の描写に遠藤はかなり抵抗したらしい)、当時はそれなりに評価されもした。
 日本語を話せる欧米の俳優を探すのが困難だったためか、この篠田版では棄教した宣教師フェレイラ役を丹波哲郎が演じているのだが、同じ丹波の出演した「007は二度死ぬ」におけるジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)の日本人メーキャップに劣らず、その余りに不自然な西欧人のメーキャップには苦笑を禁じえなかった記憶がある(近いうちに英国版のDVDで見直してみようと思っている)。今回のスコセッシ版でも篠田版と同じくポルトガル人司祭や日本人信徒たちが英語で台詞を言うなどの脚色が為されてはいるものの、さすがに篠田版のような不自然極まりないキャスティングはないだろうと思っている。

 

 


 普段は話題のハリウッド映画となると、本国アメリカとほぼ同時に公開されることの多い韓国であるが、インターネットで調べてみても、この「沈黙」(邦題は「沈黙―サイレンス―」)に関する情報は極めて限られている状況で、いつ公開されるのか(そもそも公開されるのかどうかすらも)まったく判然としない。マーティン・スコセッシというメジャーな監督の作品である上、キリスト教徒が国民の3割近くを占めるキリスト教国の韓国であるから、多少時期はずれてもいずれ公開されるだろうと思っているのだが、日本を舞台にし(もっとも主な撮影場所は台湾である)、日本人キャストが大勢出演する映画だというような理由から公開されないなどというようなことがないことを祈るのみである(その一方で、上に書いたような「悪」なるものを徹底的に批判・否定するような寛容さの欠如した韓国社会において、「沈黙」のような「生ぬるく曖昧な」作品世界が果して受け容れられるのかどうか、正直疑問でもある。そしてそれはそのまま、キリスト教の本質である愛(アガペ)や寛容、許しといった要素から遠く隔たっているとしか思えない韓国におけるキリスト教に対する疑問ともなる)。
 


 上にアドレスを掲げた記事(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502039369.html)で私は遠藤周作が恋人フランソワーズに宛てた恋文に触れているが、河出書房新社から出ているKAWADE夢ムックの1冊「文藝別冊 遠藤周作」(増補新版→https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000033.000012754.html)の中に、手紙の全文(1953年1月から4月頃に書かれた全5通)が翻訳掲載されている(「フランス留学時代の恋人フランソワーズへの手紙」福田耕介訳)。さらに「手紙解説」として今井真理の「遠藤からフランソワーズへの手紙」という文章が載せられ、遠藤の留学生活やフランソワーズとの出会い、この恋文が書かれてから若くして亡くなるまでのフランソワーズの消息などが紹介されている。
 残念なのは「遠藤周作展」には展示されていた手紙の写真が載せられていないことで、上の記事で「律儀で美しいアルファベットで記された仏語の文章」と書いた遠藤の筆跡を改めて目にすることが出来なかったことである(ただし神奈川近代文学館が「遠藤周作展 21世紀の生命のために」という図録を刊行していて神奈川県の図書館で閲覧できるようなので、いずれ帰省した際にでも手にとってみたいと思っている)。


 その代わりという訳ではないだろうが、この手紙の一部をフランス語のまま転写したものが掲載されているのだが、やはり上のブログで「(遠藤の文章は)ろくに出来もしない私から見ても自然で正確なものであることが見て取れた(その遠藤にしてたまに性数一致を間違えていたりするのに気付きもしたが、泣く泣く日本へ戻る悲嘆と、自分を思慕する若き女性と離別することの複雑な感情のなかで書かれたことを考えればやむをえなかったに違いない)」と書いているのだが、この手紙の転写がどれほど正確なものなのか原物を見られないため判断できないものの、名詞の性やアクサン記号、文法などの間違いが結構多く、ちょっとだけホッとしたものである(むろんこれは冗談であるが・・・)。


 上記「遠藤からフランソワーズへの手紙」によれば、結核の発病によってフランス留学からの帰国を余儀なくされた遠藤は、上記の熱烈な恋文のなかで、当時23歳だった恋人フランソワーズ(遠藤は30歳)にその年の11月に結婚しようとまで書いているのだが、しかし翌年以降遠藤からフランソワーズへの便りは急激に減り(1954年には2通、1955年には1通のみ)、遠藤は帰国2年後の1955年に生涯の伴侶となる順子と結婚している。


 一方1959年に遠藤は小説「留学」にも描かれているようにフランスを再訪しており、その際フランソワーズと再会を果しているようである。パリ大学で哲学を専攻したフランソワーズは、日本語の免状を取得して1966年には来日し、北海道大学の講師となったのに続いて、68年には獨協大学の講師となっている(当然その間に遠藤とも会っており、出版されて間もない「沈黙」を仏訳する希望を抱いていたようだが、遠藤との意見の相違もあって実現しなかったそうである)。しかし1970年に乳癌に罹っていることが判明し、東京で二度の手術を受けたものの病状は好転せず、フランスへ帰国して翌1971年に41歳で亡くなってしまう。


 まるで鴎外の「舞姫」を思わせるような話だが、フランソワーズの姉ジュヌヴィエーヴ・パストルの手紙を翻訳紹介した仏文学者の高山鉄男氏は、「舞姫」の豊太郎とエリスとは異なり、遠藤とフランソワーズの間に「性的な関係はなかった」とはっきり書いているそうである。一度は結婚まで約したこの2人の間に何があったのかはもはや「神のみぞ知る」だが、フランソワーズの姉ジュヌヴィエーヴは、妹との関係が後の遠藤の小説「わたしが・棄てた・女」にも反映されていると示唆しているとのことである(すっかり忘れていたのだが、1954年発表の遠藤の処女作(★)「アデンまで」には明らかにマルセイユにおけるフランソワーズとの別離がほとんどそのまま描き出されていると言っていいだろう)。

《★ただし最近になって遠藤がこの「アデンまで」以前に「伊達龍一郎」名義で「オール読物」に「アフリカの体臭-魔窟にいたコリンヌ・リュシェール」という小説を発表していたことが明らかになり、この作品が遠藤の(小説の)処女作であると見做されている。加藤宗哉編の短編集「『沈黙』をめぐる短篇集」(慶應義塾大学出版会)に収録されたものを読んでみたが、掲載された雑誌が大衆雑誌であることもあるが、「アデンまで」に比べてしまうとかなり通俗的な凡庸な作品だという印象しか残っていない。》
 
 この「文藝別冊 遠藤周作」というムックには、遠藤周作を担当していた編集者たちによる座談会や、弟子(?)であり作家の加藤宗哉の回想なども掲載されているのだが、これらを読むと、雲谷斎(うんこくさい)狐狸庵山人などと称して面白おかしいエッセイを発表したり、素人劇団「樹座」を主宰したりするなど、どこか剽軽でおどけた風貌を見せていた遠藤という作家に、実は非常に気難しく神経質な側面があったことも見て取れる。
 そもそも遠藤は小説家としても「海と毒薬」や「沈黙」、「侍」などの純文学作品を書く一方で、歴史小説や評伝、ユーモア小説や推理小説まで広くものしており、小説家としてデビューする前には批評家として鋭い筆致で文学や宗教・思想に関する評論を次々と発表し、さらには舞台やテレビ向けの戯曲や脚本でも高い評価を得るなど、実に多彩な才能を発揮した「マルチ作家」であり、気難しく神経質な顔もまた、数多くある遠藤の一面にしか過ぎなかったと言えるかも知れない。
 ともあれ映画「沈黙―サイレンス―」の公開を機に、原作の「沈黙」や同じ主題の戯曲「黄金の国」などを再読しながら、良くも悪くもかつて私の人生に大きく影響を与えたこの作家について改めて考えてみたいと思っているところである。

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 この間に読んだ本は、

・横山秀夫「64(ロクヨン)」(文春文庫Kindle版、再読)。
 映画版を鑑賞したついでに再読。緻密で意表をつくような心理描写は息詰まるほどの緊張感を漂わせており、これほど濃密な小説はいわゆる純文学作品でも珍しいのではないかと思えるほどの完成度である。あいにく受賞こそ逃したものの、英国の伝統ある推理小説関連の文学賞である「ダガー賞」翻訳部門の最終候補に残ったのもむべなるかなである。


・シェイクスピア「リチャード3世」(角川文庫Kindle版。河合祥一郎訳)
 ただし前日譚の「ヘンリー6世」は未読であり、おそらくこの前日譚と共にあわせ読むことによって、ランカスター家とヨーク家の確執が薔薇戦争を経て、シェイクスピアの生きたチューダー朝へといたる時代の流れと、これらの作品にこめられたシェイクスピアの意図をより明確に俯瞰できるものと思われる。
 実際のリチャード3世が果してこの作品に描かれているように残虐非道な人物だったかについては議論が伯仲しているようだが、若書きの作品であるせいか、リチャード3世の即位から戦死に至るまでの展開は呆気ないほどあっさりとしていて、この極めて個性的で強烈な人物の造型を別とすれば、作品全体の完成度や構成の妙という点では後の作品群には及ばないと言えるだろう。


・ヴォルテール「カンディード」(岩波文庫旧訳版)
 ライプニッツによる最善説(optimism)を諷刺・批判した作品だと言われてはいるものの、上の「リチャード3世」にしてもそうだが、作品内に縷々描かれている人間の暴虐非道ぶりを読んでいると、人間存在なるものの愚かさや残酷さを改めて痛感させられ、暗澹たる気持ちに捕われるしかない。吉村正一郎による訳も決して読みやすいものではない上、紙型がすり減ってしまっているせいか本自体が非常に読みづらく、同じ岩波文庫から出ている新訳版(これには「カンディード」のみならず「ザディーグ」などの他の哲学コントも収録されている)で再読してみるつもりである。

 映画の方は(これまた数が多いので点数のみを掲げておくが)、

・「64-ロクヨン-前編/後編」(瀬々敬久監督) 3.0点(IMDb 7.1/6.4) インターネットで視聴
・「ローカル路線バス乗り継ぎの旅 THE MOVIE in 台湾」(鹿島健城監督) 2.0点(IMDbなし)テレビで視聴
・「私の少女」(チョン・ジュリ監督) 3.0点(IMDb 7.0) 日本版DVD
・「ドライビング Miss デイジー」(ブルース・ベレスフォード監督) 3.0点(IMDb 7.4) 日本版DVD
・「ジェイコブス・ラダー」(エイドリアン・ライン監督) 3.5点(IMDb 7.5) 日本版DVD
・「誘拐報道」(伊藤俊也監督) 3.5点(IMDb 6.4) 日本版DVD
・「生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件」(恩地日出夫監督) 3.0点(IMDb 6.8) 日本版DVD
・「博多っ子純情」(曽根中生監督) 2.5点(IMDb 6.8) 日本版DVD
・「教授のおかしな妄想殺人(原題:Irrational Man)」(ウディ・アレン監督) 3.0点(IMDb 6.6) 日本版DVD
・「スポットライト 世紀のスクープ」(トム・マッカーシー監督) 4.0点(IMDb 8.1) 日本版DVD
・「北国の帝王」(ロバート・アルドリッチ監督) 2.5点(IMDb 7.4) 日本版DVD
・「自由が丘で」(ホン・サンス監督) 2.5点(IMDb 6.8) 日本版DVD
・「黄昏に燃えて」(エクトール・バベンコ監督) 3.5点(IMDb 6.8) 日本版DVD

・「ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)」(リチャード・リンクレイター監督) 3.0点(IMDb 8.1) 日本版DVD
・「ビフォア・サンセット」(リチャード・リンクレイター監督) 2.5点(IMDb 8.0) 日本版DVD
・「ビフォア・ミッドナイト」(リチャード・リンクレイター監督) 3.0点(IMDb 7.9) 日本版DVD

 点数からも見て取れるが、この中で見るに値するものは「ジェイコブス・ラダー」、「スポットライト 世紀のスクープ」、「誘拐報道」、「黄昏に燃えて」くらいで、「黄昏に燃えて」と共に前回のブログで触れた「ホーボー」関連で見た「北国の帝王」にしてもまったくの期待外れだった。

 「64-ロクヨン-」はNHKが制作したドラマ版の方がより原作に近く完成度も高いもので、映画版は時間的な制約からも省略部分が多く、原作を読んでいないと意味不明な点もあり、わざわざ映画にする必要性があったのかどうか疑問である(主演の佐藤浩一は決して悪くはないのだが、不細工な父親に似てしまったために娘が容貌コンプレックスを抱え、自暴自棄になって家出してしまうという設定には無理があり、見た目からもドラマ版のピエール瀧の方が適役だと言える)。

 最後の「Before」3部作は3本まとめて1作品と考えればまだマシではあるものの、(あえて意図したものではあるだろうが)出来事の皮相をただ時間の経過通りにさらっと描いてみせるだけで余りにあっさりとし過ぎ、物足りなさを覚えるしかない(もっともさらに表層のみを描くことに固執している「自由が丘で」などのホン・サンス作品よりは、まだ登場人物間の葛藤が描かれているとは言えるが・・・。正直、これらの作品を見るために1,800円も出す気には到底なれず、1作100円ちょっとのレンタルでさえ時間を返して欲しいと思うほどである)。
 最終作の「ビフォア・ミッドナイト」に描かれる夫婦間の激しい喧嘩は極めて「リアル」なもので、ことあるごとにフェミニスト的な視点から夫を攻撃・非難し、苛立ちの果てに爆発する理屈っぽく饒舌なフランス人妻役をジュリー・デルピーが見事に演じていて(ひょっとすると彼女の「地」かも知れないが・・・)、イーサン・ホーク演ずる夫が妻に向かって言う「僕以外に半年以上君に耐えられる奴を見つけてみろ」という台詞にもあるように、私ならば半年どころか1週間も我慢できないだろうと思わされたものである。
 1作目の「ビフォア・サンライズ」はジョイスの「ユリシーズ」と同じく6月16日の1日(正確には翌17日朝までの約1日)を描いたもので、ジュリー・デルピーとイーサン・ホークが電車の中で初めて遭遇する時に読んでいる本がジョルジュ・バタイユの「マダム・エドワルダ/死者/眼球譚」の10/18文庫版と、怪優クラウス・キンスキーの自伝「All I Need Is Love」だったりするなど、細部もなかなか凝っている。
 1作目では少女らしい初々しさすら漂わせていたジュリー・デルピーが、3作目ではすっかり肉付きの良くなった中年体型になり、絶えず刺々しく気難しい「フランス女」(失礼)になってしまっているのを目にすると、それが意図的な演出の結果だと分かってはいても、歳月の流れの残酷さを思い知らされるようでひどく切ない。