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 2016年10月19日(水)
 上に写真を掲げた日本の動画がいま「世界中」で人気だという。
 私も人に見せられて少しだけ目を留めたものの、すぐに見るのをやめてしまった。しかしおとといNHKのニュース番組を見ていたところ、たまたまこの動画についてちょっとした特集を組んでいるのを目にして、今更ながらしばらく前に屈指の知韓派である産経新聞記者の黒田勝弘氏が口にしていた「日本の韓国化」なる現象がさらに進んでいるような気がして来て、啞然とせずにはいられなかった(http://lite-ra.com/2014/07/post-219.html)。


 この特集では政府関係者の話として、この動画を「クールジャパン」推進のための参考にしたいという言葉も紹介されていたのだが、そもそもこの「クールジャパン」なる自画自賛そのもののプロジェクトからして既に十分に「韓国的」であり(むろん良い意味で言っているのではない)、なんとも「クール」ではないのだ。
 私はこの10年間のうち9年近く日本を離れていることもあって、知人から聞かされている昨今のテレビにおける「日本はすごい」、「日本はクール」といった内容の番組の多さをはっきり実感できてはいないのだが(もっとも韓国のケーブルテレビで見られるNHKワールドプレミアムにも「cool japan 発掘!かっこいいニッポン」なる番組があることは承知している)、実際のところ相当見苦しい状況であるらしい。


 日本の伝統的な価値観からすれば、仮に人からなにかを褒められたとしても「とんでもないです」などと否定してみせるのが「謙譲の美徳」として尊ばれてきたはずだが、一体いつの間にこうした「美徳」が失われてしまったのだろうか。そう言えばしばらく前から日本のグルメ番組などを見ていて気になりはじめたのだが、出演者が料理人や料理店の人に向かって「おいしいですねえ」などと感想を述べた際、返ってくる反応が「とんでもないです」や「まだまだです」といった謙遜の言葉ではなく、「ありがとうございます」という言葉である場合がほとんどなのである。私のような古くさい人間は、相手の褒め言葉を「素直」に受け入れて謙遜の「け」の字も感じられないようなこうした返答には一種の違和感を覚えてしまうのである。
 上記の黒田氏が「日本の韓国化」の例としてあげている「嫌韓」や「嫌中」といった差別的なゼノフォビア(外国人嫌悪)は、理由がなんであれ言語道断の許しがたい行為であるが、一方で自分たちのことを「クール」だとか「すごい」などと言って悦に入っていることも、やはり少しも見栄えの良い行為とは思えないのだ。

 私が韓国に移り住んだ2012年、ここ韓国でも「カンナムなんとか」という動画が「世界中」で大人気となり、そのことに狂気乱舞した韓国では、それこそ四六時中のように、テレビやラジオだけでなく街なかでもこの(馬鹿げた)曲が流され、近くの学校などで生徒たちがこの(馬鹿げた)踊りを踊っている光景を目にすることが出来た(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502040324.html)。当時の私は「こんなくだらないものが人気になったからと言って、一体なにが嬉しいんだ」と思いながらすっかり無視を決め込んでいたのだが、まさかそれと同じようなことが自分の国で繰り返されることになろうとは予想だにしていなかった。やはり人間、安易に人を馬鹿にしたり批判したりするものではない。すぐに自分の吐いた唾が、そのまま自分に向かって落ちて来ないとも限らないからだ。


 もちろん「くだらない」かどうかは各個人の価値観によるものであり、なかには今回の動画を芸術的にも技術的にも素晴らしいと考えているような人もいるかも知れない。また、たとえ「くだらない」ものであったとしても、それが人気になったことを喜ぶことのなにが悪いのだという意見もあるだろう。私はそうした考えや意見まで一方的に否定しようとは思わないし、所詮は私の個人的な好みや美意識の問題でしかないことも承知してはいる。
 ただ私は、こんな動画が「世界中」で話題になろうが、上記の「カンナムなんとか」のように仮にどこかの音楽チャートの上位を占めるようなことがあったとしても、そのことで「日本」を誇らしく思ったりは決してしないだろうし、そんなことで「日本がクール」だなどとも思わないだろう。そもそも「クールジャパン」などというもの自体が上記の通りまったく「クール」な発想ではなく、井の中の蛙のようなひどく偏狭で見苦しいものとしか思えないでいる。


 日本の文化や伝統が多くの人に愛されることはもちろん悪いことではないし、日本人として嬉しいと思わないでもない(もっとも私自身がその愛されているものになんらかの貢献をした訳でもなく、実質的にはなんの関わりもない以上は、そのことを「誇り」に思ったりすることは出来ない)。しかし自ら自国文化や国(民)のことを「クール」だの「優れている」だなどと誇ってみせることは、やはり私の感覚からすればおそろしく見苦しく、この上なく醜い。
 そもそもこれまで海外の人たちから支持され、愛されてきた文化にしろ伝統にしろ、日本人が「ほら、これって素晴らしいでしょ」と押し付けて評価されてきたものではなく、それらの芸能なり技術なりをコツコツ地道に続けてきた人たちの目立たない努力が、人知れず国境や文化の壁を超えて受け容れられてきた結果でしかないだろう。前回のノーベル賞に関する記事ではないが、なにかが「世界的」に評価されて賞を与えられたり、支持され愛されたりするかどうかは、あくまでそうした職人や製作者、料理人たちのたゆまぬ努力と忍耐の末に結果としてもたらされるものであって、賞を受けたり評価されること自体が目的だったわけではないに違いない。

 仮にそんな目標を掲げて国家プロジェクトとして推進してみたところで、これまた前回の記事に書いたように、個人レヴェルでの情熱(あるいは狂気)と実践なくしては、所詮トップダウン式の掛け声だけに終わるだけで、結果としての優れた成果物を生み出すことも、人々の支持や愛情を受けることも出来ないだろう。


 こんなことを書いていると、私は前回多少感情的になって韓国人記者のことを批判したことを恥ずかしく思わないではいられない。むしろ私は前回記事にしたことを、韓国の記者相手になどではなく、まず日本のジャーナリストや日本人に向けてこそ向けるべきだったのではないだろうかと後悔しはじめているところである。

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 この間に読んだ本はなし。映画は、

・「二つの世界の男(原題:The Man Between)」(キャロル・リード監督) 3.0点(IMDb 7,2) 日本版DVD
 取ってつけたような唐突かつ中途半端な恋愛場面は、東西冷戦時代のベルリンを舞台にしたこの作品とっては甚だしく緊張感を毀損するだけの不要な材料ではなかっただろうか。おまけに主人公を演ずるジェイムズ・メイスンを見ていると、どうしてもキューブリックの「ロリータ」を思い出してしまって、この作品でも若い女性を標的にする単なる中年エロ親爺としか思えず、まことに困ったものである。この主人公の悲惨な最期を描く、作中でも最も緊迫した場面であるはずの山場において、見た目にも実に安っぽい合成映像が使われていることも、当時の技術的な限界だとは言え、残念この上ない。
 一方でヒロインのクレア・ブルームと、その義姉役のヒルデガルド・クネフの両女優はいずれも主体的で力強い女性像を演じていて魅力的である。クレア・ブルームという女優は初めて知る名前だと思っていたら、チャップリンの「ライムライト」でヒロインを演じていたことに後になって気づいた。もっとも私は「ちょび髭」を取り去ったチャップリン後期のこの作品に対して全く良い印象を抱いておらず、そのせいでその後彼が撮った「ニューヨークの王様」も「伯爵夫人」も未だに見ていない程なのだが・・・。

・「ジャガーノート(原題:Juggernaut)」(リチャード・レスター監督) 3.0点(IMDb 6.6) 日本版DVD
 今見ると非常に時代がかったサスペンス映画という印象を拭い去ることは出来ず、大型客船に仕掛けられた爆発物を処理する際の、赤と青のリード線のいずれかを切って爆発を止めるというおなじみの設定がこの映画を嚆矢とするものだと言われても、それでこの作品に対する評価が上がる訳でもない。
 ひとつだけ笑えたのは(そしてそのことが日本語字幕には反映されていなかったのだが)、客船の次席一等航海士(ファースト・オフィサー)が、船内で行われる仮装パーティの準備に忙しい宴会担当部長のカーテン氏に向かって「Everything's all right, Mr Curtain?」と質問したのに対し、好人物ではあるもののどこか間の抜けているこのカーテン氏が「Oh, a night to remember.」と答えて、すぐに「しまった」といった表情になる場面である。
 日本語字幕では「順調かね?」という質問に対して、「最高の夜に」という風に訳されているのだが、この「a night to remember」というのは、タイタニック号の悲劇を扱った名作映画「SOSタイタニック/忘れえぬ夜」の原題「A Night to Remember」から来ているもので、カーテン氏は自分が思わず客船が沈没することを示唆してしまったことに気づいて、気まずい顔を浮かべた訳である。などと説明してしまうと少しも面白くなくなってしまうのだが、これがこの作品を見ていて唯一(不謹慎ではあるものの)素直に笑えた場面だった。