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 2016年10月15日(日) 
 韓国語講習のような場に顔を出して良いことは、様々な国の人々と知り合える機会を持てることである。もっとも大抵は私が生徒のなかでも飛び抜けて年長で、かつほとんどの生徒が女性(さらにその多くが韓国人男性と結婚した主婦)ということもあり、特別親しい間柄になることはまずないのだが、それまでは自分にとって未知だった国について関心を抱く良い機会にもなる。
 もともとへそ曲がりなこともあって、私は日本のものだろうが英国のものだろうが(そして今回触れるタイのものだろうが)、王室制度や貴族制度といった「血統」による階級制度を基本的には嫌っているのだが、この度タイのプミポン国王(ラーマ9世)が逝去し、多くのタイ人がその死を心から悼んで喪に服しているという一連の報道を読み、ソウルに来て最初に参加した韓国語クラスで比較的親しかったタイ人の元クラスメイトに哀悼の意を表するメッセージを送ってみた。
 しばらくして返事が戻って来て、感謝の言葉とともに「とても悲しいです。国王はタイの国民誰もが「大きなお父さん(큰아빠=クナッパ★)」と考えるような存在でした」という内容が書かれてあった。事前にラーマ9世についてインターネットで簡単に調べてはいたものの、私はこの国王の業績や人柄についてよく知っている訳ではなく、「君主」や「元首」への思慕や敬愛といったものが時として排外的な自国優越主義や過剰な民族主義に基づいていることも分かっているつもりなのだが、それでも融通無碍ですこぶる人の好いこのクラスメイトの性格を考え合わせると、国王の人柄や行動に対して純粋な敬愛や尊敬の念を抱いているのだろうと思え、決して悪い気はしなかった。

《★韓国語ではむしろ父親の兄=伯父を指す言葉だが、ここでのニュアンスはむしろ「懐の大きいパパ」のような、親しみをこめた言い方だと思われる。》


 70年間という長きにわたるラーマ9世の在位期間が、果たしてこれからどのような歴史的評価を受けることになるのか、正直私にはよく分からない。ただでさえタイの政情はこれまでも安定していたとは言えず、また現在も軍事政権下にあり、たとえタイの国王は日本と同じく象徴的な意味合いが強いとは言え、そのような国で長期間にわたって「元首」として君臨していた存在が、無垢・無謬だったなどということはまずありえないだろう。
 だからこのクラスメイトが示したような単純・純粋な敬愛や思慕の念をもって、ラーマ9世その人の人格や功績をそのまま評価することは危険だし、むしろその「純粋さ」ゆえにかえってこの種の「崇拝」に警戒の目を向けなければならないのかも知れない。しかしそれでも今の私は、おそらく寄る年波のせいで多少感傷的になってもいるからか、ごくごく平凡な庶民たちが心からその死を悼み、静かに涙している姿を目にすると、それを茶化したり批判したりする気には到底なれないでいるのだ。


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 今年も恒例の「ノーベル賞ウィーク」がようやく過ぎた。
 カレンダーの関係で文学賞が例年より1週間遅くなったため、約2週間に及ぶやや異例な「ノーベル賞ウィーク」とはなったが、個人的にはやはりボブ・ディランの文学賞受賞が一番の驚きで、発表の瞬間には思わず声を挙げてしまったほどである。ボブ・ディランがノーベル文学賞の有力候補の一人であるという報道自体は、かなり前からなされていたものの、おそらく多くの文学愛好者と同様に、私もそれが一種の「冗談」だとばかり思っていたのである。
 もっともボブ・ディランが優れたシンガー・ソング・ライターであることに異議を唱えるつもりは毛頭ないし、ピーター・ポール&マリーの歌う「Blowin' in the Wind」(https://www.youtube.com/watch?v=Ld6fAO4idaI)や「The Times They Are a-Changin'」(https://www.youtube.com/watch?v=szXAoRHZmt8)、「Don't Think Twice, It's All Right」(https://www.youtube.com/watch?v=Xu-DWUngjhk)などから入って、あのもごもごと口ごもるようなディラン本人の歌声にも徐々に惹かれていった一音楽ファンとしては、ディランの卓越した才能を認めるにやぶさかではないつもりである(さらにザ・ビートルズ愛好者としては、彼の歌詞や音楽がジョン・レノンなどに与えた大きな影響も無視することはできない)。


 もっとも私の知っているボブ・ディランの曲と言えば、せいぜい「ブロンド・オン・ブロンド」(1966年)あたりまでの初期作品ばかりで、唯一所有しているディランのCD「The Best of Bob Dylan」に収録されている曲はたまに聴き返すものの、とてもディランを「愛聴」してきたとは言えない。
 上手いのか下手なのかよく分からないあの歌声や歌唱法も初めのうちは全く好きになれず、もっぱらピーター・ポール&マリーやザ・バーズ、ジョージ・ハリスンなど他の歌手たちによるカヴァー曲によってその作品に親しんできたと言った方が正しい。正直なところ、今でも「Blowin' in the Wind」はピーター・ポール&マリーによるヴァージョンが最高だと思っているし(→公式録音盤 https://www.youtube.com/watch?v=zm0eS046sEY。また、上にアドレスを掲げた英国BBC4で放送されたライヴ演奏はどれも非常に素晴らしいので、是非視聴して頂きたい→下記★)、ディラン自身が歌う曲で私がなんの留保もなしに好きだと言えるのは、「Like a Rolling Stone」くらいでしかない(https://www.youtube.com/watch?v=IwOfCgkyEj0)。

 

《★いつ削除されてしまうかわからないので、同じ内容だがアドレスを幾つか記載しておく。

 https://www.youtube.com/watch?v=2J2GkvYis5U

 https://www.youtube.com/watch?v=ylyaVOxa6aU

 https://www.youtube.com/watch?v=XGCkiwAKl6s

 https://www.youtube.com/watch?v=HJm-RpPk16M


 その卓越した才能には疑念の余地がないとして、しかし歌手を生業としているディランにノーベル文学賞が与えられたことに対してはやはり違和感を覚えずにはいられない。特に1993年のトニ・モリスンを最後に、ノーベル文学賞は20年以上もアメリカ人作家に与えられて来ず、ドン・デリーロやコーマック・マッカーシー、トマス・ピンチョン、フィリップ・ロス(もっとも私はピンチョンやフィリップ・ロスの作品は読んだことがないため、彼らがどれほど優れた作家なのか判断することは本当のところ出来ない)などの「重量級」の作家をさしおいて、歌手であるディランが受賞してしまったことに、アメリカ文学に対するスウェーデン・アカデミーの偏見と悪意とを感じないではいられない。ただでさえここ数年、アリス・マンローやパトリック・モディアノなど、どう贔屓目に見ても「軽量級」としか思えない作家たちにあっさり賞を与えて来たスウェーデン・アカデミーだから余計にそう思ってしまう。
 ディランなどの音楽家には、グラミー賞やロックの殿堂、そして映画音楽関連でもアカデミー賞やゴールデングローブ賞などの世界に名だたる賞が幾つも存在し、ディランはその多くを受賞してきている。スウェーデン・アカデミーはホメロスやサッフォー(サポー)などの古代の詩人の名前まで持ち出して今回の決定を正当化しようとしているようだが、たとえ作詞家・歌手としてのボブ・ディランの才能が小説家や詩人などの「文学者」たちに比しても揺るぎないものだとしても、個人的には他のアメリカ人作家に今回の賞を与えてもらいたかったという気がしている。

 賞の是非はともかくとして、一部報道によれば、ノーベル委員会は受賞者の発表後2日を経た時点でも、ボブ・ディラン本人と直接連絡を取れていないということで、一部ではディランが受賞を辞退・拒否するのではないかという憶測をしてもいるようである。もし本当に彼が賞を辞退するようなことがあれば、むしろそれこそが反骨・反体制のイメージのある「ロック」歌手ボブ・ディランらしい態度であるような気がしないでもない(その後の報道では、発表4日後の時点でも連絡が取れない状況のためスウェーデン・アカデミーは本人への連絡を断念、賞を受賞するつもりがあるのか、12月に開かれる授賞式に出席するかどうかも現時点では不明とのことである)。
 もっともディランは既に、アメリカ大統領自由勲章やフランス芸術文化勲章、アメリカ国民芸術文化勲章、ピュリッツァー賞特別賞、レジオン・ドヌール勲章など数多くの「権威」ある賞を受賞してきているので、今更ノーベル賞を辞退したからと言って大した意味がある訳ではないだろうし、反対にこれら権威ある賞をあっさり受賞したということで、彼が作ってきた優れた音楽そのものが汚される訳でもない。

 ノーベル賞と言えば、生理学・医学賞を受賞した大隅良典氏や、文学賞の候補と目されている(?)村上春樹氏に関して、相も変わらず加熱気味な報道を繰り広げていた日本にも劣らず、メディアで大きく採り上げるのが恒例であるここ韓国では、今年もまた例年と同じような報道が飽きもせず繰り返されており、余りに既視感が強いために過去の記事やニュースをそのまま使いまわしているのではないかと思ってしまうほどである。
 特に3年連続で日本人が科学賞の分野で受賞したことから、科学教育や研究支援のあり方を日本と比べながら、韓国科学界の現状に対する批判や反省、早急な対策の必要性などを説いた記事が繰り返し新聞やテレビに登場している。
 ノーベル賞受賞者の数を「22対0」といったように、まるでスポーツ競技のように日本と比較することも通例となっており、受賞者がどこの国の人間だろうが、自分の関心のある分野でない限り全く興味を覚えない私のような人間からすれば、何を毎回馬鹿みたいに大騒ぎしているのかと訝しむしかない状況である。
 そんな中、この14日付の「朝鮮日報」にノーベル文学賞に関して以下のような記事が載ったので、ここで紹介しておくのも一興だろう(以下は同紙の日本語版ウェブサイトより引用)。

《ノーベル文学賞、受賞の鍵を握る翻訳に韓国政府は投資せよ
 ノーベル文学賞は「酸っぱいブドウ」ではない(←これが元の記事のタイトルである。原文はhttp://news.chosun.com/site/data/html_dir/2016/10/13/2016101303529.html)

 ノーベル文学賞への強迫観念から逃れたい人たちは「文学は楽しめばそれでいいのに、なぜノーベル賞を期待するのか」などと言う。この種の考え方は韓国よりも英国やフランスといった文学先進国でよく語られるようだ。韓江(ハン・ガン)氏の小説『ベジタリアン(原著タイトル:菜食主義者)』を英語に訳し、韓江氏と共にマン・ブッカー賞(注:原文通りだが、正確には「マン・ブッカー国際賞」であって、「マン・ブッカー賞」ではない)を受賞したデボラ・スミス氏も、今年6月に来韓した際「ノーベル文学賞に対する韓国人の執着は理解できない」と述べた。彼女の言葉に同意する人も多かった。しかし記者はスミス氏がこう述べた際、英国人がこれまでノーベル文学賞を9回受賞したことを思い起こした。韓国もノーベル文学賞を9回受賞すれば、このようなことを言う人が出てくるかもしれない。
 「ノーベル賞にはこだわらない」という言葉は作家たちもよく口にする。フランスのノーベル文学賞作家ル・クレジオやモディアノも「賞を取るために作品を書いたことはない」と語る。しかしフランスはノーベル文学賞を15回も受賞している。
 「ノーベル文学賞に執着せず、文学そのものを楽しもう」という言葉は、ノーベル文学賞を1回でも受賞してから言っても遅くはない。「ノーベル文学賞の強迫観念」に対する指摘は、イソップ物語の「酸っぱいブドウ」を思い起こさせる。高い木になっているため手に入らないブドウについて、キツネが「どうせ酸っぱくてまずいからいいや」と考えて自分を慰めるのと同じく、何か後ろめたい。もちろん作家や読者たちが「賞よりも作品」と言うのは理解できる。しかし文学は個人が楽しむ「芸術」の側面だけではないため、国家次元ではまた異なった考え方を持つべきだろう。文学は出版、映画、アニメなどに従事する人たちが生活の基盤とするコンテンツ産業の基盤にもなる。コンテンツ産業の育成にノーベル文学賞がもたらすプラスの効果は大きく、そのためにも決してたやすく諦めるべきものではない。
 昨年春(注:原文は「この前の春」で、今年の春のことを指しており、翻訳ミスである)、韓江氏がマン・ブッカー賞を受賞した直後、われわれは誰もが興奮しながら今後を期待した。英国では多くの読者がこの賞をきっかけに韓江氏の小説を読み、韓国文学に関心を持つようになるだろう。英紙ガーディアンは韓江氏の別の作品『少年が来る』をスミス氏が翻訳すると同時にその出版情報を伝えた。英語に訳された韓国小説がそこまで報じられるのは珍しいことだ。韓国でも縮小一方だった文学市場に再び活気が戻った。教保文庫の調査によると、昨年夏(注:これも原文は今年の夏を指している)の小説販売は前年(注:昨年の間違い)の同じ時期に比べて2倍に跳ね上がった。もしノーベル文学賞を受賞すれば、国内外にそれ以上の効果がもたらされるのは間違いない。
 村上春樹氏やジョアン・ローリング氏(注:言うまでもなく「ハリー・ポッター」シリーズの作者J・K・ローリングのことである)の新作が出るたびに、書店の前で徹夜で並ぶ読者が韓国にいないことを嘆く声もある。このような現状でノーベル文学賞を求めるなどおこがましいというのだ。この指摘が正しいのであれば、韓国がノーベル文学賞を受賞することは永遠にないだろう。しかしスウェーデンのノーベル賞選考委員会が受賞条件として各国の文学熱を掲げているとは聞いたことがない。受賞の可能性を高める直接的な手段は、優れた作品と審査委員を引きつける翻訳だ。マン・ブッカー賞国際部門の審査委員長を務めたボイド・ダンカン氏は『ベジタリアン』について「驚くべき翻訳技法によってこの奇妙に輝く作品が英語となり、その内容は完璧に伝えられた」と述べ、受賞の鍵が翻訳にあることを強調した。われわれも優れた作家と作品を数多く持っている。それらを価値ある宝にするため、政府は優れた翻訳が行われるよう投資に力を入れなければならない。ノーベル文学賞は「酸っぱいブドウ」ではないのだ。 世論読者部=金泰勲(キム・テフン)部長》

 実に韓国的、いや、言い直せば実に「韓国メディア的」な論調だと言っていい。
 ここでも相変わらず国別にノーベル文学賞を何回受賞したかということが執拗に繰り返され、未だに韓国人の受賞者が出ていないことに対する深いルサンチマン(韓国式に言えば「ハン(恨)」だが、ただし「怨恨、怨嗟」よりは「心残り」や「満たされなさ」という意味合いが強い)が感じられる。
 しかし私が最も驚いたのは、以下のような部分である。


・「しかし文学は個人が楽しむ「芸術」の側面だけではないため、国家次元ではまた異なった考え方を持つべきだろう」
・「村上春樹氏やジョアン・ローリング氏の新作が出るたびに、書店の前で徹夜で並ぶ読者が韓国にいないことを嘆く声もある。このような現状でノーベル文学賞を求めるなどおこがましいというのだ。この指摘が正しいのであれば、韓国がノーベル文学賞を受賞することは永遠にないだろう」
・「しかしスウェーデンのノーベル賞選考委員会が受賞条件として各国の文学熱を掲げているとは聞いたことがない。受賞の可能性を高める直接的な手段は、優れた作品と審査委員を引きつける翻訳だ」

 このコラムの焦点は、「コンテンツ産業の発展や出版物の売上を高めたりするために、如何にノーベル文学賞を受賞すべきか、そしてそのために国は何をすべきか」であって、これこそノーベル賞全般を巡ってしばしば韓国(人)の「誤った認識」であると指摘される、「目標」と「結果」の混同や取り違えであり、まさに本末転倒以外のなにものでもないだろう。独創性と想像力に溢れた文学作品を創造しようと目指すことが結果的に「ノーベル賞」に結びつくことはあるかも知れないが、しかしおそらくその逆はないのである(決してないとまでは言わないが…)。
 また、優れた翻訳がノーベル文学賞の選考過程において重要な役割を担っていることは確かかも知れない。しかしいくら優れた翻訳者を国家的な支援で養成してみたところで、その前に卓越した文学作品が存在しなければ、その翻訳家の能力を活かすことも出来ないだろう(もっとも筆者は「われわれも優れた作家と作品を数多く持っている」と書いているから、この点に関しては大いに自信を抱いているようである)。国家予算で文学者や翻訳者、出版社を経済的・制度的に支援することも、彼らの生活や経営の安定の助けにはなるだろう。しかしそのこともまた、優れた作家が輩出する「絶対条件」にはなりえないし、そもそも優れた文学作品を生み出すための特効薬や魔法のようなものはどこにもありはしないだろう。
 上に名前を挙げられているJ・K・ローリングが、決して裕福とは言えないシングル・マザーとして子供を育てながらコツコツ「ハリー・ポッター」を書き継いでいき、自らの力で成功をつかんだことはよく知られている。もし彼女が当初からその創作活動に対して国家から支援を受けて経済的にも恵まれていたとしたら、果たして「ハリー・ポッター」は生まれていただろうか。生まれたかも知れないし、そうではなかったかも知れない。要するにそんなことは本質的な問題ではないのだ。
 むしろ重要なのは、J・K・ローリングが子供時代から読書や物語を書くことを好み、空想力・想像力を少しずつ涵養しながらそれを自らの手で表現しようとしたことではないだろうか。「ノーベル賞を獲るため」に小説や詩を書こうとするような人間が、果たして優れた作家たりうるだろうか。むろんなりうるかも知れないし、そうではないかも知れない。しかし「書店の前で徹夜で並ぶ読者」がいるような環境の方が、いないような環境に比べれば、より多くの読み手とともに、より多くの書き手を生み出すことは確かだろう。そしてそうした環境は、「自国」の作家や翻訳家を育成することよりも、「読むこと」の喜びや楽しみを育むことによって、長い時間をかけて作られていくものではないだろうか。

 上記の記者が言うように、たとえ文学が「芸術」の側面だけではないとしても、やはり根本は「個人が楽しむ」ものであるはずである。コンテンツ産業の育成のためだの、国家イメージの向上だのといった「成果」や「結果」を目標にかかげていくら大金を投じたところで、作品そのものを楽しみながら読む人間がいなければ、単に実体のない「官」主導の空疎な「プロジェクト」のひとつに終わるだけだろう。
 1人の天才作家や優れた翻訳家を育てるために大金を投ずるよりも、1,000人の、10,000人の、いや100万人の読者を育てることに注力した方が、時間はかかるかも知れないが、遙かに実りある道ではないだろうか。なぜこの筆者が書店の前で徹夜で並ぶような読者が韓国では永遠にあらわれないだろうと端から決めつけて、ただ「実利」ばかりを求めようとするのか、私には全く理解できない。時間はかかっても、その100万人の本好きの中からいつしか「自分も物語を書きたい」と思う人間が生まれ、いずれはノーベル賞を受賞する作家が出て来るかも知れない。なぜそうした地道な努力をしようともせず、急いで成果ばかり求めようとするのか。それこそが韓国という国の「宿痾」なのではないだろうか。
 いや、言ってしまえば、結局のところノーベル賞などの賞は、それを受賞する作家以外の人間にとってはどうでも良いものなのである。村上春樹は「職業としての小説家」というエッセイ集のなかで、こう述べているそうである。「後世に残るのは作品であり、賞ではありません。二年前の芥川賞の受賞作を覚えている人も、三年前のノーベル文学賞の受賞者を覚えている人も、世間にはおそらくそれほど多くはいないはずです。あなたは覚えていますか? しかしひとつの作品が真に優れていれば、しかるべき時の試練を経て、人はいつまでもその作品を記憶にとどめます」


 トルストイもカフカも、プルーストもナボコフも、そして我らが夏目漱石や谷崎潤一郎もノーベル賞を受けてはいないが、そのことでこれら不朽の作家たちの作品の価値が貶められる訳では全くない。反対に、第一回のノーベル文学賞受賞者であるシュリ・プリュドムをはじめ、私がこれまで読んだことも聞いたこともなく、これからも読むことのないだろう作家の数は、受賞者全体の半分以上、下手をしたら3分の2以上にも及ぶだろう(そしてそれは必ずしも私の読書範囲が余りに狭すぎるためだけだとは言えないだろう)。受賞/授賞当時は斬新で高い評価を受けたかも知れない作家や作品も、時と時代の淘汰を受けて、あるものは消え去り、あるものは残る。生前はほとんど誰にも知られておらず、賞などと全く縁がなかったにもかかわらず、不死鳥のように甦って不滅の作家たちの列に加わったカフカのような作家の例もある。

 すっかり話が支離滅裂になったが、最後に多少(?)感情的で品のない暴論を掲げておくならば、「一流紙」や「一流メディア」を標榜しながらこんな幼稚でお粗末な記事しか書けないような「自称」記者や「自称」ジャーナリストには即刻引退してもらって、百害あって一利なしのお馬鹿新聞やお馬鹿テレビから極力子供たちを遠ざけ、時代の淘汰を生き抜いて来た古今東西の文学や思想、芸術作品などを読んだり見せたりして、独創的かつ個性的な思考の出来る人材に育てていくことの方が、ノーベル賞への一番の近道かも知れない。仮にノーベル賞が取れなくとも、こんな愚劣な記事を書いてふんぞりかえっている人間が幅をきかせているような社会よりは、多少マシな社会が出来上がるに違いない。 

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 この間に読んだ本はなし。映画は、

・「メルシィ!人生(原題:Le Placard)」(フランシス・ヴェベール監督) 3.5点(IMDb 7.1) 日本版DVD
 原題のLe Placard(クローゼットのこと)とは、「sortir du placard(クローゼットから出る)」といった表現から転じて、同性愛であることを「カミングアウトすること」を意味する言葉のようである。
 実にフランスらしい艶笑譚的コメディの佳作。主演のダニエル・オートゥイユやジェラール・ドゥパルデューなど名だたる俳優たちが、お馬鹿な役を楽しんで演じている姿を見ているだけでも微笑ましく楽しい。

・「ビリー・ザ・キッド 21才の生涯 特別版(原題:Pat Garett and Billy the Kid)」(サム・ペキンパー監督) 3.5点(IMDb 7.4) テレビ放送を録画したものを視聴
 ボブ・ディランが音楽を担当し、自ら出演もしている作品である。特に挿入歌の「天国への扉(Knockin' on Heaven's Door)」はディランの代表作としても有名だが、その歌詞は映画を見ていないと何のことやら分からないものでもある。
 ビリー・ザ・キッド役を演じているクリス・クリストファーソンがとても21歳には見えないのは(実際彼はこの役を演じているときに既に30代半ばだった)、若くして「老成」して死んでしまったビリー・ザ・キッド像を提示するための意図的な演出であるに違いない。逃げようと思えばメキシコに逃げることも出来たはずのビリー・ザ・キッドが、わざわざ危険な自分のたまり場であるフォート・サムナーに戻っていき、かつての盟友であり無法者から保安官に転じたパット・ギャレットにあっさりと殺されてしまうのも、自らの運命に対するこの「若き老人」の諦観と投げやりな気持ちの反映なのかも知れない。
 登場人物のモデルとなった人間たちは、どれもアメリカの観客にとっては周知の歴史的人物なのだろうが、ほとんど説明なしに物語が展開していくため、ビリー・ザ・キッドや西部開拓史に全く通じていない私には、最後まで誰が誰だかよく分からない状態が続き、また冒頭のパット・ギャレットの死の描写も、一度全篇を見終えてから改めて冒頭部を見直してみてようやく何が起きていたのか理解できた有様である。
 ボブ・ディランの音楽と歌は、映像や台詞では語られることのない登場人物の内面などをト書きのように表現する役割を果たしていると言えるが、やや説明調に過ぎるきらいがあり、音楽の使用もやや過剰なのが惜しまれる。
 パット・ギャレット役のジェイムズ・コバーンが、時代の変遷によって「権力」の側にまわり、イエスを裏切るざるをえなかったユダのような悲哀と自責の念とに満ちた人物像を見事に演じ切っている。ビリー・ザ・キッドを撃った次の瞬間、ギャレットが鏡に映った自分自身の姿に銃弾を浴びせる場面は特に秀逸である。