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 2016年6月5日(日)
 先の米オバマ大統領の広島訪問はここ韓国でも大きく採り上げられ、韓国メディアは(右も左も同じく)相も変わらず「加害者日本の被害者コスプレを許すな」とか「今回の広島訪問で日本に免罪符を与えてはならない」といった論調を前面に押し立てて、日米両首脳への批判や注文を書き立てていた。こうした論調のおおもとにあるのはいつもながらの自国中心主義であり、お隣の北朝鮮による核の恐怖という現実を前にしながらも、大局的な視点から今回の広島訪問の目的や意義を分析しようといった態度は微塵も見られず、自国がないがしろにされているという被害妄想的な視野狭窄に陥っているとしか思えなかった。


 広島や長崎という場所が、被爆者や日本人にとってのみならず世界の人々にとっても意味を持つのは、これらの地が人類を滅ぼしうる核兵器が実戦で用いられた唯一(実際は2ヶ所だが)の場所であるとともに、核兵器廃絶という問題が加害者や被害者という二元論を超えた、より高次元な人類全体に関わる普遍的問題だからでもある。
 だからこそ今回も、被爆者や日本人の多くがアメリカに謝罪を求めず、オバマ大統領が広島を訪問することを歓迎したのだろう(このことに関しても、革新系の某新聞は、オバマ大統領に謝罪を求めようとする被爆者の声が、政府主導の「謝罪は求めない」という「空気」や「雰囲気」によって、新聞やテレビの報道からも排除されていると非難している)。


 韓国メディアの多くは、しかしそうした大局的な視点に立つことはなく、ただただ自国のこと、韓国籍の被爆者のことだけを大きく採り上げて日本(政府)を非難し、オバマ大統領や米国に謝罪や賠償を要求し続けた。私自身、広島や長崎のことだけを感傷的・情緒的に採り上げて日本(人)の被害者としての側面を強調する仕方は好きにはなれないし、広島や長崎のことを人類全体の問題として捉えるのと同時に、かの戦争で日本(人)が行ったこと(そこには当然、加害者としての行為も含まれる)を日本(人)自身の問題として振り返り、記憶し続ける必要があることを否定しはしない。
 核の問題は、しかし単に加害者や被害者という視点のみで語ることの出来ない、遙かに深刻で大きな問題である。それはある特定の時点における敵/味方や加害者/被害者といった二元論や二項対立を超え、未来永劫にわたる甚大かつ決定的な影響を人類、そして地球という惑星に与えかねない問題なのである。過去の検証は、むろん必要なことではあるだろう。だがそれは過去の愚行を二度と繰り返さないという視座のもとでなされて初めて意味を持ちうるものである。過去の善悪や責任問題にいつまでも固執していれば、それは現在のみならず、未来における対立や葛藤、新たなる火種をいたずらに引き起こすだけだろう。

 韓国の新聞やテレビが、自国を中心に据えたこうした狭隘で偏向した論調で埋めつくされるなか、このブログでも過去に何度か採り上げた「朝鮮日報」の鮮于鉦(ソヌ・ジョン)論説委員が、オバマ大統領の広島訪問に関して以下のような文章を載せている。
 コラムの原題は「ベトナム、広島、リ・スヨン」というものだが(リ・スヨン=李洙墉は、朝鮮労働党中央委員会政治局の副委員長)、日本語版のタイトルはいつも通り日本をおとしめるような文章をわざわざ文中から持ってきて《「日本の汚れた手」を握った米国の現実重視》と変えられている。
 その主張や物言いの全てに同意・賛同する訳ではないものの、このコラムの内容を読めば、鮮于氏が一般の韓国メディアの論調とは異なる、より現実的で冷静な視点を保ちながら今回のオバマ大統領の広島訪問の意味を問うていたことが分かるだろう。記者個人の感情的で自慰的な主張や記事が溢れ返る韓国メディアのなかで、こうしたジャーナリストが一人でもいることは大きな救いである(もっともこの人一人だけで韓国メディアの馬鹿さ加減全体をカヴァーしきれる訳ではないのだが……)。
 以下にこのコラムの全文を、「朝鮮日報」日本語版から転載しておく(一部、文章を補正した)。

《ベトナム、広島、リ・スヨン》
 日本にばかりこだわれば、韓国の視線は過去に向くだけ
 現実と未来を変える米中の北東アジア・ゲームを韓国は断片的にしか見ていない

《長い小説よりも短い詩の方が物事の本質をよく説明していることがある。日本の詩人、栗原貞子が1976年に書いた詩『ヒロシマというとき』もそうだ。「〈ヒロシマ〉というとき/〈ああ ヒロシマ〉と/やさしくこたえてくれるだろうか/〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉/〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉/(中略)/ 〈ヒロシマ〉といえば/血と炎のこだまが 返って来るのだ」。従軍慰安婦問題が明らかになった20年後だったら、作者は「〈ヒロシマ〉といえば〈慰安婦〉」という句もどこかに書いていただろう。作者は遠回しにはせずにこの詩を締めくくる。「やさしいこたえが/かえって来るためには/わたしたちは/わたしたちの汚れた手を/きよめねばならない」。

 (私たち韓国人は)ケリー米国務長官が広島を訪問した時ですら、まさかと思った。「日本は『汚れた手』を清めていない。だから米大統領まで行くことはないだろう」。ところが、期待とは裏腹にオバマ大統領は広島に行った。「原爆ドーム」を背景に、安倍首相の肩をたたく姿、白髪の被爆者と抱擁する姿は、原爆が引き起こしたキノコ雲の写真と同じくらい象徴的だ。「71年前、晴天の朝、空から死が降ってきた」という演説内容、そう言った大統領を強く責め立てない米国内の世論にも(私たちは)驚いた。

 私たち韓国人は複雑な思いで広島を見た。韓国ならではの複雑な歴史を通して現実を解釈したからだ。米国の原爆で韓国は植民地支配から解放された。米大統領が広島を訪問すれば日本の戦争責任と植民地支配の責任が薄らぐ可能性がある。だから反対し、懸念してきた。だが、その思い通りにはならなかった。すると今度は反対側の歴史を持ち出した。米国の原爆により数万人の韓国人が命を落とした。韓国は被害国だ。だから米大統領が広島に行くなら、韓国人原爆犠牲者慰霊碑にも行かなければならない、という具合にだ。
 韓国人はこうした論法を当然だと考えている。しかし、支配・被支配の善悪論理に慣れていない他国にとっては二律背反的に聞こえる可能性がある。韓国は「原爆投下を招いたのは日本だ」と信じている。「韓国人の犠牲が出たのも日本のせい」だ。そうだとしたら、韓国人原爆犠牲者慰霊碑への訪問を要求する対象は日本の首相ではないのか。それなのに、なぜ米大統領の訪問を要求するのか。米大統領の広島訪問を懸念して反対し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑訪問を要求するのは矛盾ではないのか。こうした視点から、米大統領にいろいろな要求をする韓国をおかしいと考える人々が世間には存在している。

 ホワイトハウスは「オバマ大統領の広島訪問は原爆投下に対する反省や謝罪を意味するものではない」と何度も主張した。「日本の戦争責任に免罪符を与えるものでない」とも言った。日本政府や主なメディアもたった一言も、1行もそうした解釈をしていない。事実、オバマ大統領は謝罪しておらず、頭を下げてもいなかった。ひたすら、「核兵器のない世界」を強調した。オバマ大統領が韓国人原爆犠牲者慰霊碑を訪問しなかったことも、同じ脈絡で理解できる。韓国を無視しているからではなく、自身の訪問が歴史問題、特に植民地支配問題として解釈されたくなかったからではないだろうか。北朝鮮の核に対し丸腰で向き合ってきた韓国ほど「核兵器のない世界」を切実に必要としている国もない。「〈ああ ヒロシマ〉とやさしくこたえる」ことはできないが、そう言う友邦をできるだけ理解すべきではないだろうか。
 オバマ大統領は訪日に先立ちベトナムを訪れ、50年以上続いた武器禁輸措置を解いた。米国製武器でベトナムを武装させようというのだ。オバマ大統領の広島訪問は、その延長線上にあると解釈するのが現実的だ。ベトナムは南シナ海で、日本は東シナ海で、米国と手を結んで中国に対抗している。オバマ大統領は日本で「核兵器のない世界」と同じくらい日米同盟も強調した。中国がオバマ大統領の広島訪問当日に米国の中国包囲網を非難し、「南京大虐殺を忘れてはならない」と厳しく対応したのは、広島訪問の政治的意味や文脈を読み取ったからだ。中国が昨日、北朝鮮の外交を総括する李洙ヨン(リ・スヨン、ヨン=土へんに庸)朝鮮労働党副委員長を突然北京に呼んだのも、同じ脈絡だと解釈できる。このように複雑な情勢を、韓国はただ自国の特別な歴史的経験にこだわり、断片的にしか見ていない。

 私たち韓国人は、大国の影響から逃れられない所で暮らしている。このような国だからこそ、深く考えて大局を見なければならない。ところが、日本にばかりこだわれば、韓国人は現実を過去の物差しでしか解釈できなくなる。善悪の区別で自分と他人を混同することもある。歴史を前面に押し出せば、世界が韓国の境遇に理解を示し、韓国人の主張に同調すると信じている。だが、果たしてそうだろうか。米大統領は日本の「汚れた手」を握った。「パール・ハーバー」と言う代わりに「ああ、ヒロシマ」とやさしく応えた。勝者の余裕ではない。過去よりも現実を重視しているからだ。米国はこの当たり前の原則を今後、韓国にも求めることだろう。    鮮于鉦(ソヌ・ジョン)論説委員》

 オバマ大統領の広島訪問についてはこれくらいにしておく。

 

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 以前このブログで紹介した「偏愛映画放談」(https://www.youtube.com/user/nihoneigasenmon/videos)が突然終わってしまってから、映画関連の動画(ラジオ番組)はほとんど参照しなくなってしまったのだが、最近たまたま「伊集院光の週末TSUTAYAに行ってこれ借りよう!」という番組の存在を知り、何度か試しに聴いてみた。
 これはラジオ・パーソナリティーの伊集院光とアシスタントの女性アナウンサーが、各界からのゲストが推薦する映画をTSUTAYAで借りて視聴し(むろん番組のスポンサーはTSUTATAである)、翌々週に再び同じゲストを迎えて語り合うという番組で、Wikipediaの内容を信ずれば、今年の4月で放送開始からちょうど丸4年を迎え、番組で紹介された映画は107本にのぼっている。


 上記の「偏愛映画放談」同様に3人の人間が同じ映画を見てそれぞれ感じたことを話すという形式になっているのだが、伊集院光とアシスタントは決して映画マニアではないことを公言しており、映画批評家が自分の知識や分析、「卓見」をこれ見よがしに披露するような番組よりも気軽に聴ける上、映画批評家による分析が往々にして重箱の隅をつつくような、こじつけまがいの解釈をまことしやかに語ってみせるのに比べ、気負いもてらいもない分、疑問や反撥も覚えないで済むのがいい。
 かと言ってこの3人の発言に見るべきものがないなどということもなく、むしろそれぞれの世界で活躍している人たちの独自の視点によって語られる映画評は、時として彼らの人生談とも仕事観ともなっていて興味深い。


 107本の作品中、私が見たことのない映画は38本で、このほとんどは端から私の鑑賞対象にならないような作品で、おそらくこれからも自分から進んで見ることはまずないだろうものばかりなのだが、既に見たことのある映画でも全く見落としていた場面があったり、内容をすっかり忘れていたりすることも多く、さらには私自身ではまず思いつくことのなかっただろうような斬新な解釈や視点が披露されたりもして、改めて作品を見返してみたいという気にさせられるのである。


 そこでこの2ヶ月ほどの間、暇にあかしては手元にDVDがある作品を何本か見てみた。
 ちなみにTSUTAYAのDVDレンタルは、楽天など他のDVDレンタル店(インターネット)に比べて在庫作品数は豊富だが、配送料を含めた1本あたりのレンタル料は高めで、単発レンタルの場合には倍以上もする。さらにさすがTSUTAYAと思うような在庫作品ではあっても、全体の在庫本数が少ないために実際にレンタルするのがまず不可能な作品も少なくなく、その点でも不満がなくはない。
 ただ、過去にDVD化されていなかった名作を商品化したり、映画好きの推薦する作品を新たにレンタルできるようにしたりするといった地道な努力はやはり評価すべきで(発掘良品→http://tsutaya.tsite.jp/guide/movie/ryohin/←ページ削除でリンク切れ)、(復刻シネマライブラリー→http://www.tsutaya.co.jp/info/mod/ ←ページ削除でリンク切れ)、DVDを個別に買って鑑賞する経済的余裕のない私のような人間にとってはありがたい存在である。

 「伊集院光の週末TSUTAYAに行ってこれ借りよう!」で紹介されていて今回視聴(すべて再見)してみたのは以下の作品。

・「フォロー・ミー」(キャロル・リード監督) 3.5点(IMDb 6.8) 日本版DVD
 「第三の男」や「落ちた偶像」のキャロル・リード監督の遺作。脚本は「アマデウス」や「エクウス」のピーター・シェーファー(これを書いた翌日の6日に90歳で死去した。R.I.P.)。
 なんということもない軽めのコメディ映画なのだが、見終えた後しばらく耳をついて離れないジョン・バリーによるテーマ曲(https://www.youtube.com/watch?v=UIKT_n7qTro)を聞きながら、とぼけた風貌の俳優トポルとミア・ファロー(おそらくこの作品は彼女が最も魅力的に撮られている映画の1つだろう)がロンドンの街を散策する場面を見ているだけでも愉快な気分になれる佳作である。今ではもう取り壊されてなくなってしまったロンドンの街並みや古い映画館の様子を見ることも出来、ロンドンという街に対する個人的な思い入れもあって、上の点数は心持ち高めにしてある。


・「息もできない」(ヤン・イクチュン監督) 4.0点(IMDb 7.7) 日本版DVDで再見
 以前もこのブログで採り上げたことがある作品だが(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502038113.html)、久々に見返してみても、近年の韓国映画のなかでも傑作の名に値する作品だと改めて感じ入ったものである。
 2010年の公開作品だが、私にとって韓国映画の「黄金期」(もっともそれに先立つ1980年代前後の韓国映画も個人的には懐かしいのだが)はこの作品をもってほぼ終わってしまったと言っていい。時期的には1990年代の終わりから2010年までのほぼ10年間で、それは豊饒ではあるものの余りに短い10年でもあった。現在も一定の水準の韓国映画は作られており、ほとんど見るべきもののなくなってしまった日本映画よりはまだマシだとは言えるのだが、しかしもはや今の私はかつてのような強い関心を韓国映画に対して持つことができなくなってしまっている(そもそも映画そのものに対する関心が全体的に薄れてしまった影響も否定しきれないのだが)。
 初見時には気付かなかったのだが、主人公の一人である女子高生「ハン・ヨニ」(キム・コッピ)の母親を殴り殺した(?)のは主人公の「サンフン」(ヤン・イクチュン)ではなく、チンピラたちを率いている「社長」のマンシク(チョン・マンシク)であること、さらに、最後にサンフンたちが借金取り立てに訪れた家の子供の名前が、主人公と同じ「サンフン」であること、そしてそれゆえに彼はこの家族に暴力を振るうことを躊躇し、子供の父親のことを殴り続ける手下の「ヨンジェ」をとめ、そのことで結果的に自らの死を招いてしまう訳なのである。いずれもこの作品を理解する上で極めて重要なポイントであり、これまで気づかなかったのは全く迂闊だったと言うしかない。

 他の作品は点数のみ記しておく。
・「パララックス・ビュー」(アラン・J・パクラ監督) 3.0点(IMDb 7.2) 英国版DVDで再見
・「遊星からの物体X」(ジョン・カーペンター監督) 3.0点(IMDb 8.2) 日本版DVDで再見
・「太陽の墓場」(大島渚監督) 3.0点(IMDb 7.1) 日本版DVD
・「ガープの世界」(ジョージ・ロイ・ヒル監督) 3.5点(IMDb 7.2) 日本版DVDで再見
・「ジャイアンツ」(ジョージ・スティーヴンス監督) 3.5点(IMDb 7.7) 日本版DVDで再見
・「12モンキーズ」(テリー・ギリアム監督) 3.0点(IMDb 8.1) インターネットで再見
・「永遠の人」(木下惠介監督) 3.0点(IMDb 7.4) テレビ放送を録画したものを再見

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 この間に読み終えた本は、

・山本周五郎「赤ひげ診療譚」(新潮文庫版)
・山本周五郎「季節のない街」(新潮文庫版)
 いずれの作品も黒澤明が映画化していて(「赤ひげ」、「どですかでん」)、黒澤映画の中でも好きな作品なのだが、昔からなぜか短編小説集というものが苦手で、大抵途中で飽きてしまって読み通すことが出来ないことが多く、これらの小説集も全篇通して読むのは今回が初めてだった。
 いずれも映画には採用されていない作品もあれば、内容が変更されているものもあり、原作者と映画監督の嗜好や創作方法の違いも垣間見られて興味深い。同じ山本周五郎の短編連作作品であり、川島雄三が監督して森繁久彌が主演した「青べか物語」も、引き続き読んでみようと思っているところである。

・前川裕「クリーピー」(光文社文庫)
 海外在住の知人が、この作品の翻訳を検討しているという出版社の担当者から意見を求められているとのことで、ご相伴に預かって(?)文庫本のサンプルを読ませてもらった作品である。元々比較文学を専門とする大学教授である著者の、ミステリー小説作家としての出世作ということで、貴志祐介の「黒い家」や宮部みゆきの「理由」などとの類似点をも含めて、ケチをつけようと思えばいくらでも瑕疵を挙げることは出来るのだが、休日の1日を気楽な読書で費やすには決して悪い作品ではない(ミステリー作品なのであえて内容には一切触れないでおくが、読了後の後味は決して良くはない)。

・米原万里「オリガ・モリソヴナの反語法」(集英社文庫Kindle版)
 父親の仕事の関係で作者自身が在籍していた、プラハのソビエト大使館付属学校での体験をもとにしながら、オリガ・モリソヴナとエレオノーラ・ミハイロウナという二人の女性教師を中心に、極端な恐怖政治が繰り広げられていた旧社会主義体制下で苛酷な人生を強いられた人々の生き様を描いたドキュメンタリー風の小説である。
 巻末に収録されている池澤夏樹との対談によれば、オリガ・モリソヴナという教師はソヴィエト大使館付属学校に実在していたものの、その生い立ちに関する部分は基本的にフィクションだとのことで、作者が日本語やロシア語、英語で書かれた厖大な文献・資料や証言をもとに描き出していくラーゲリ(収容所)における厳しい収容体験や、収容所から釈放された人々がその後たどっていくことになる不条理かつ悲惨な人生模様は、フィクションとは思えないなまなましさとリアリティを備えている。
 冒頭から露骨な罵詈雑言や「反語法」を次々と繰り出して我々読者に強烈な印象を与えるオリガ・モリソヴナという女性教師の存在感は傑出しているが、物語が進んでいくにつれて作者の筆は他の登場人物に拡散していき、最終的には旧ソビエトを始めとする社会主義体制、ひいては人間存在そのものの醜悪や悲惨にまで及んでいくのだが、その分、この極めて魅力的な登場人物の影が徐々に薄まってしまうのが惜しまれる。初めに出だしと結末の部分を思いついてからこの作品を書き進めていったと作者自身が種明かししているように、唐突に終わりを迎える結末は、それまでの流れにしっくりと馴染まない取ってつけたような印象を与え、「オリガ・モリソヴナの反語法」という題名に基いて物語が綺麗にまとめられてしまっているのも、やや物足りなくはある。
 しかし昨今のちいさくまとまった物語ばかりが氾濫している現代日本文学において、作者自らの体験を元にしているとは言え、こうした「大きな」物語の存在は貴重であり、作者がこの作品に続く小説をものする前に亡くなってしまったことは、日本文学界にとって決して小さくない損失だったと言ってもいいだろう。

 この間に見た映画は、

・「野獣死すべし」(須川栄三監督) 3.0点(IMDb 7.2) 日本版DVD。  
 現代(?)日本版の「罪と罰」。同じ原作の映画では松田優作主演のものがよく知られているが(テーマ曲を始め、サントラ=OSTもなかなかいい→https://www.youtube.com/watch?v=N7BTQh_e4IY)、この仲代達矢主演の旧作版の方が内容も時代も大藪春彦の原作に近い出来となっている。しかし映画作品として見た時には演出も俳優たちの演技も凡庸で(監督による意図的な演技指導の結果なのだろうが、台詞が棒読みで終始違和感を覚えた)、長年見たいと思い続けてきた作品だったこともあり、ひどく期待外れだった。

・「ソニはご機嫌ななめ」(ホン・サンス監督) 2.5点(IMDbなし 6.9) 日本版DVD。
 フランスの批評家や、日本でもジャン・リュック・ゴダールやエリック・ロメールなどを崇め奉っている「シネフィル」には大層評判の良いホン・サンス監督による作品。
 映画好きではあるものの、「マニア」や「シネフィル」などからは程遠い私などが見ても、その制作手法や内容にロメールやゴダールの影響は明らかであり(そしてそれゆえにもともとロメールなどが得意ではない私にとっては、どこが面白いのかよく分からない作家でもあるのだが)、「シネフィル」や「マニア」はとかく過去の映画作品への「オマージュ」や「召喚」などといったものをひどく有難がり、自らの映画の知識や記憶力を誇っては悦に入る傾向があるので、この作品はまさにマニア受けのする作りとなっていると言っていい。むろんマニアたちはそうした「模倣」を「オマージュ」と言い換え、オリジナルを超えているとか、より高次元に昇華させているとか言った「差異」を強調するのだが、私などには「差異」よりも「既視感」の方がより大きく、少しも面白いとは思えないのである。
 なによりもこの作品は、「最低な女」である「ソニ」という若い女性にいとも易々と翻弄されてしまう、愚かな三人の男たちを巡るコメディ映画であるはずなのだが、ほとんど即興的に作られた台詞による無駄なおしゃべりが延々と続けられ、反復されているだけで、私には少しも「笑えない」コメディ映画だと言っていい。まだしも現代韓国社会へのまなざしが含まれていた処女作「豚が井戸に落ちた日」などの方が私にはより映画らしく思えたものだが、ホン・サンス監督の足取りはおそらくは韓国社会の歩みと同じく、どんどん軽く表層的になっていっているようである。

・「実録三億円事件 時効成立」(石井輝男監督) 3.0点(IMDbなし CinemaScape 3.7) 日本版DVD
・「国際市場で逢いましょう」(ユン・ジェギュン監督) 2.5点(IMDbなし 7.7) 日本版DVD
・「アウトレイジ ビヨンド」(北野武監督) 3.0点(IMDbなし 6.7) 日本版DVD
・「マルティニークからの祈り」(パン・ウンジン 監督) 3.5点(IMDb 7.7) 日本版DVD