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 2016年5月17日(火)
 最初に韓国がらみのニュースを一つ。


 今年から授賞対象をこれまでの1作家から1文学作品に変更して新たに始まった英国のマン・ブッカー国際賞の受賞作が昨晩発表され、Deborah Smithの翻訳になる韓国の閨秀作家ハン・ガンの「菜食主義者」に贈られることになった。このところ韓国の文学作品が次々と欧米やアジア諸国に翻訳されてきているが、国際的にも権威あるマン・ブッカー賞から派生して出来た新しい文学賞ではあると言え、韓国の作家がこの種の世界的な文学賞を受けるのはおそらく久しぶりのことであり、快挙であると言っていいだろう(韓国のテレビや新聞もいつも通りの大騒ぎである)。


 もっとも韓国のメディアのなかには、今回の授賞の報道に際して、マン・ブッカー賞をノーベル賞やフランスのゴンクール賞と並べて「三大文学賞」などと称しているものがあるのだが、英語圏で書かれた作品を対象にしてきた「マン・ブッカー賞」と、英語に翻訳された文学作品を対象とした今回の「マン・ブッカー国際賞」(このため作家と翻訳者が共同授賞という形を取り、賞金も分け合うことになっている)とは全くの別物であり、完全な誤解だと言っていい。特に今回から賞の性格が変わり、これまでの名誉賞的な性格から、むしろ翻訳賞や新人賞の意味合いが強まったようにも思われる。


 更に言えば、フランスのゴンクール賞にしても、マン・ブッカー賞とは異なり、基本的には新人文学賞に過ぎない。そもそもブッカー賞やゴンクール賞は、対象言語が英語や仏語に限定されたローカルな文学賞でしかなく、対象言語を特定していないノーベル賞やフランツ・カフカ賞などの国際的な文学賞と同列に置くことには余り意味がないと言える(その後の韓国メディアの報道内容は更に過熱し、今回の受賞をノーベル文学賞受賞と同等の価値があるとさえ書いている新聞もあり、いつもながらのこととは言え、呆れるというより哀れに思えてくる程である。もっとも日本のメディアもノーベル文学賞などに関しては今回の騒ぎと大同小異の馬鹿さ加減ではあるのだが・・・・・・)。


 私はこの「菜食主義者」の日本語訳が出た時に読んでみたのだが(ちなみにこの作品は韓国で映画化もされており、日本でも「花を宿す女」というタイトルでDVDが発売されている)、この連作小説を構成している3つの短編の出来には大きな差があって、一長編小説として見た場合には不完全なものだという印象を覚えた記憶があり、また小説の内容そのものについてもさほどの感興や印象を覚えなかった。

 しかしこの作品は日本語訳が出た時にもそこそこ話題になったし、今回授賞した英訳版も英国や米国などで高評価を受けているようであるから、おそらく私の文学作品に対する感度が鈍いか、あるいは韓国語を習い始めてから数年にしかならないというDeborah Smithという翻訳者の翻訳が極めて優れたものであることも、高い評価を得るのに寄与しているのかも知れない。


 先月締め切りとなった本年度の韓国文学翻訳新人賞に今年も懲りずに応募してみたのだが、対象作品の収録されている「黄順元文学賞受賞作」作品集には、同賞の受賞作であるハン・ガンによる「雪ひとひらが溶ける間」という短編作品が収録されていて読んでみたものの、正直やはり私にはピンと来ない作品だった。

 文体は穏やかで理知的であり、詩的だと言ってもいいのだが、観念的なその文章がややもすると自己満足的な言葉の操作に堕しているように思えてならない(この作品集に収録されている他の短編にしてもそうなのだが、そうした傾向は最近の韓国文学に共通するもののようである)。今回の授賞を機に今後日本でもこの作家の作品が翻訳されるかも知れないので、他の作品も読んでみてからこの作家の真価を判断したいと思う。


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 このゴールデンウィークの間、久々に日本に戻っていた。
 たまたま韓国語講習が休みに入ったことや、ちょっとした事務手続きをする必要があったためだが、直前になって帰省を決めたことや連休真っ只中だったこともあって、家族以外には誰とも連絡をとらず、ほとんど実家から出ることもないまま、DVDや本を見たり、埃まみれになった実家を大掃除したりして過ごした。


 ほぼ2年半ぶりの帰省だったのだが、今回帰省してみて、やはりたまには日本に帰ってみるものだと改めて思ったものである。というのも、ただ実家のまわりをうろついているだけでも、日本という国に対する自分の「妄想」を多少なりとも相対化できたと感じているためである。日本を離れて異国に住んでいると、ついつい異国の不便さや物足りなさが募ってきて、それに対する日本の便利さや快適さという考えが実態以上に膨らんでしまいがちである。

 しかし実際に帰省してみて現実の日本の姿を目の当たりにすれば、そうした思い込みは必然的に打ち砕かれ、自分の目(あるいは脳味噌)を覆っていた先入観や偏見のウロコがズルリと剥がれ落ちるのが分かる。実家のあちこちに積もった埃を払うように、自分の思考を曇らせている思い込みもたまにはそうやって取り払ってみる必要があるのだ。

 次々と「ほころび」が露呈し始めてきている東京オリンピックを4年後に控え、まるで馬鹿の一つ覚えのように政府やメディアなどが繰り返している「おもてなし」だの「Cool Japan」だのといった掛け声に相反するように、今回の帰省でまず初めに気にかかったのは、昨年完成した成田空港のLCC(格安航空会社)専用ターミナル(第3ターミナル)だった。
 空港使用料を安くするために出来るだけ無駄を排した質素な作りにしてあることは決して悪いことではなく、コンクリートむき出しの倉庫のようなターミナルの建物も、かえってシンプルで機能的だとも言えるのかも知れない。飛行機を降りて空港の建物に入るのにも、乗客はいきなり階段を歩いて昇っていかなくてはならないのだが、これまた体の不自由な人や老人客、小さな子供連れなどには負担ではあるだろうが、格安なのだから仕方がないと我慢出来なくもない。
 

 しかし入国審査を済まし、手荷物をピックアップして税関を通り、いざ空港の外に出ようとすると、そこで待ち受けているのはエスカレータでもエレベータでもなく、またもや階段なのである(★)。周囲を見回すと、階段から少し離れたところにエレベータも設置されてはいるのだが、車椅子に乗った人や老人客専用と記載されているだけでなく、2基あるエレベータのいずれもが、カートが1台しか入らないほどの狭さなのである。

 幼い子供を連れ、複数の荷物を抱えているような乗客の場合、階段を昇るのは容易ではないだろうから、一度に一家族しか乗れないようなエレベータの前で、自分たちの順番が回ってくるのを辛抱強く待たなければならないのである。

《★(追記)さすがに不便だという苦情でもあったのか、その後この階段の一部はエスカレーターになった。》
 

 そして一般の乗客は、荷物を抱えながらその階段を上がっていかなければ、空港から出て行くことすら出来ない訳である。後で調べてみて分かったことだが、そもそも障害者や老人客専用のエレベータにしても、当初はカートを載せることすら出来なかったらしく、迫り来る東京オリンピックを前にして、さすがに情けなかろうと考えた一般市民が、地元の政治家に陳情してカート利用を認めさせてもらうよう働きかけたそうなのである。つまりそれ以前は、老人客や障害者であっても、いちいちカートから荷物をおろしてエレベータに載せなければならなかったという訳である。


 荷物を抱えながら階段を昇りきると、そこには上の写真にあるような、動線を色分けしたカラフルな床と、それとは対照的にコンクリートが剥き出しになった天井や柱の「現代的」なデザインを目の当たりにすることになるのだが、これはこれで個性的であると言えなくもないのだが、その後がいけない。
 いつも私は成田空港から実家までリムジンバスを利用しているのだが、第3ターミナルを出てバス乗り場に向かうまでの通路には、一応屋根はついているものの、側面には金属製のフェンスが設置されているだけで、ほとんど吹きさらし状態なのである。ちょうど私が帰省した日には雨が降っていたため、バス乗り場に着くころには横から吹き付けてくる雨や風で、荷物も体もすっかり濡れてしまっていた。

 家に着いてからこのターミナルについてインターネットで調べてみると、不便だという意見が少なくない一方で、格安航空会社を利用したのだからそれくらいの不便は我慢すべきだという批判的なコメントも見られた。私自身は別段荷物が多い訳でもなく(そもそも私が利用したLCCでは、手荷物は15キロまでしか無料で預けることが出来ない)、階段を昇るのも大して苦痛な訳ではないのだが、あれだけ「おもてなし」だの何だのと国をあげて自慢しているからこそ、苦言の一つも言いたくなった次第である。

 そもそも「おもてなし」なるものは、相応のお金を出したことへの報酬や対価として与えられるのではなく、むしろ自発的で見返りを求めない付加価値だからこそ意味があるのに違いない。ちゃんとした待遇を受けたければ相応の金を出せと言うのなら、初めから偉そうに「おもてなし」だの「Cool」だのといったみっともない自画自賛は謹んだ方がいい。

 一昨日(15日)の日本経済新聞朝刊によれば、昨年度のLCCの座席数ベースの世界シェアは25%超に達し、日本を発着する国際線に占めるLCCのシェアも、2012年の4.3%から、2014年には7.5%にまで上昇したそうである。基本的に機内食などの機内サービスが有料で、手荷物の重量にも制限があるLCCは、短距離路線を主要なターゲットにしているだろうから、中国や韓国、東南アジアなどの路線に占めるLCCの比率はさらに高くなるに違いない。


 もし単なる自己満足ではなく、政府なり企業なりが本気で日本を観光大国にしたいというのであれば、海外、とりわけ近隣諸国からやって来る観光客がまず最初に触れることになる「日本の玄関」としての空港にこそ、相応の神経を払って投資すべきではないだろうか。私がわざわざ書くまでもなく、第一印象というものは存外人間の思考を大きく左右してしまうものである、ことに海外旅行などの際にはちょっとした不便さや不快さがその国全体へのイメージになってしまうことが往々にしてあるのだ。
 利用客が荷物を抱えながら昇らなければならない場所にエスカレータ(エレベータでなくとも構わない)を設置したり、通路の側面に覆いを取り付けることで、日本を訪れる観光客の第一印象を改善できるのであれば、観光大国化を推進する国や自治体がそれらの費用を負担するなり補助するなりしたとしても、決して高すぎる出費とは言えないのではないだろうか。ちょうど今回私が日本に滞在していた間、毎日のようにメディアで採り上げられていた東京都知事による公金の私的流用や濫用などに比べれば、その方が遥かに有意義な税金の使い道だろう。

 観念のみならず、モノに対する幻想も、現実に手に取ったり目にしたりすると、存外簡単に解けてしまうものである。日本に帰国するたびに、私は地元の市立図書館に行って不在の間チェックしておいた本を借り、図書館で借りられない本については書店に行って実物を手に取ってみることにしている。是非とも読みたいと思っていた本も、そうやって実際に目を通してみると、大抵の場合、わざわざ買ってまで読もうという気にはならないものであることに気付く。
 さらに上にも書いたように、LCCの手荷物はわずか15キロまでしか預けることが出来ず、重量を超過すればキロあたり数千円の料金を払わなければならない。そんなお金を払うくらいならば、あらかじめ本のように重量のかさむ荷物は郵便ででも送っておいた方がマシだし、そもそもドケチの私であるから、15キロの範囲で持って帰れないような本は初めから買おうとも思わない。それでなくとも実家の書庫には、とても韓国の家には収納しきれない量の本が埃をかぶっていて、その中からどの本を韓国に持っていこうかというのが最大の悩みでもあるのだ。


 これまでは格安エコノミーでも手荷物は最低でも20キロ、一番良かった時には23キロの荷物を2つ預けることが出来たのだが、上記の通り15キロにまで減らされてしまうと、親戚や知人へのお土産や、韓国では入手しづらい食料品などを買い込んだだけでもうほとんど何も持って帰ることが出来なくなってしまい、日本滞在中に着る衣服や下着などはすべて実家に残して重量を減らしてみても、本を持って帰る余裕はなくなってしまう。

 そこで自然と、自分を誘惑するものには初めから目を向けない方がいいという防衛本能(?)が働いて、いつもなら日参して1冊100円(+消費税)也のセール品を買い漁るBookOffめぐりも自制して、図書館で閲覧するにとどめることにした。これでまた、私の生き甲斐の一つが失われた訳である。

 どんどん話に取りとめがなくなっていくが、帰省するたびに毎回思うのは、デフレの日本は多少消費税が上がろうとも、依然として欧米などに比べれば総体的に物価が安く、食べ物にしても何にしても、何を選んだらいいのか苦労するほどに種類が豊富であるということである(デフレ経済の善し悪しについてはここでは問わないことにする)。

 今では欧米に限らず、1980~90年代に訪れた時の記憶から、てっきり日本よりも物価が安いだろうと思って移住することになったここ韓国と比べてみても、交通費など一部の項目を除けば、値段の安さと種類の豊富さにおいて圧倒的に日本の方が恵まれていると言っていい。


 日々スーパーで食材などを調達して食事を準備している半「主夫」の私としては、野菜や肉などの値段も大いに気になるところで、いちいち韓国と日本の価格と量、質などを比べて見てしまうのだが、ごくごく一部の例外はあるものの、食材のみならずお酒類などの嗜好品に至るまで、ほぼ例外なく日本の方が安いと言っていい(もっとも私の実家の近くには大型スーパーが幾つも進出していて、価格競争をしていることもあるだろう)。

 一例をあげれば、ごく普通のスーパーやコンビニエンス・ストアで売られている1個100円もしない食パンや菓子パンなどにしても、韓国最大のパン屋チェーンのものと比べても味に全く遜色がない上、値段も半分以下で買うことが出来、おかげで私は毎日のようにこうしたパンをおやつ代わりに食べてしまい、すっかり太ってしまった程である。


 日本では食べ物の余りの種類の多さに戸惑って、何を買ったらいいのか大いに悩む日々だったのだが、ふたたび韓国に帰ってきて徐々に元の生活に戻っていくなかで、日本とは正反対の意味合いで何を買って食べたらいいかということに毎日悩まされている。

 韓国のスーパーなどでも店には多くの商品があふれ、きれいに陳列されてもいるのだが、しかし食べたいと思わせるようなものはほとんどない上に、商品の種類も限られており(特に韓国のスーパーには、まともで安価な惣菜類や冷凍食品がほとんど存在しない)、ごくたまに食べたいと思うようなものが見つかっても、日本に比べて遥かに高かったりしてとても買う気にはなれないのである。
 たまに帰省することの効用は少なくないものの、自分が現に暮らしている現実の生活になかなか戻ることが出来ないという副作用の方がより大きいと言えるのかも知れない。いまはまだ日本で買って帰った食べ物やお菓子などが手元に残っているからいいが、それらも早晩なくなってしまうだけである。そうなればまた現実への不満や鬱憤が少しずつ溜まっていき、今回払ってみせたはずの埃がまた私の目を曇らせていくしかないのだろう。何事もそうしたものであると言えなくもないが、考えてみれば不毛な行為に人生の貴重な時間を費やしているものである。

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 この間に読み終えた本は、

・マーク・トウェイン「ハックルベリー・フィンの冒険」(角川文庫Kindle版)。
 この作品について語る際に必ずと言っていいほど引用されるものに、ヘミングウェイの次の言葉がある。「All modern American literature comes from one book by Mark Twain called Huckleberry Finn. If you read it you must stop where the Nigger Jim is stolen from the boys. That is the real end. The rest is just cheating. But it's the best book we've had. All American writing comes from that. There was nothing before. There has been nothing as good since.」というものだが、アメリカ文学にさほど通じていない私には、正直なところこの言葉の意味するところが十全に理解できている訳ではない。

 そもそも小学校の高学年になるまでは、およそ本というものを読まない子供だった私は、この作品の前日譚である「トム・ソーヤーの冒険」も読んではおらず、この「ハックリベリー・フィン」もこれまで何度も途中で挫折した末、50歳手前にしてようやく読了することが出来たのだが、その今回にしても、途中で何度も読書を中断して読了するまで数ヶ月を要してしまった。要するにヘミングウェイの言うような文学的価値を、私はこの作品にうまく見出すことが出来なかったのである。
 そのヘミングウェイにしても、上の引用にある通り、この作品の結末部分には不満らしく「cheating」とまで言っているほどで、実際、トム・ソーヤーが再登場してからの取ってつけたような結末は、凡庸かつ無駄な付け足しのように思えてならない(もっともそうして無理矢理にでも終わらせなければ、この話はいつまでも続いていって終わりようがなかったのかも知れないが)。
 

 訳者である大久保博氏の解説によると、この作品には作者の陰謀(=プロット=革命的な思想)がこめられているそうなのだが、この作品が書かれた当時においては、主人公のハックルベリー・フィンやトム・ソーヤーの行動(具体的には黒人奴隷を逃がそうとする行為に代表される、当時の常識や慣習、法律に反する行為)は、実際に由々しきことと見なされていたに違いない。

 しかし現代においてこの作品を読む我々からすれば、むしろその革命的な思想なるものがもはや余りに真っ当で「政治的な正しさ」そのもののような行動であることから、かえって肩透かしを食わされたような気になるほどで(むろんそうした読み方が適切であるとは言えないのだが)、作品が発表された当時に読者が覚えただろう驚きや共感、反撥などは、現代の我々にはもはや共有しようがないのである。


 作家の大江健三郎が子供の頃にこの作品を旧岩波文庫版(中村為治訳)で読んで感銘を受け、後に占領軍が設置した図書館で英語の原書まで読み進んでいったという話はよく知られているが、とりわけ主人公のハックルベリー・フィンが、自ら罪を引き受けて黒人奴隷のジムを逃がそうと決心する場面で口にする「ぢやあ、よろしい、僕は地獄に行かう」という言葉を、大江は何度も繰り返し引用している。

 実際、この台詞はこの長くとりとめのない作品のなかでも最も重要かつ印象的な言葉だと言って良く、ヘミングウェイが上のように現代アメリカ文学の源流だと称したのも、おそらくこの言葉に代表されるような、たとえ自分が罪を背負うことになろうとも友情や善意、信念に基づいて決断し行動するといった、一種の行動規範や行動原則に関わる思想的・倫理的な部分であると言っていいだろう。

・内田樹「寝ながら学べる構造主義」(文春新書Kindle版)
 レヴィ・ストロースやバルト、フーコー、ラカンなど、構造主義を代表する著者たちに関する最低限かつ大雑把な情報を得るための入門書としてはコンパクトにまとまっているものの、これ1冊で構造主義なるものの全体像を概観できる訳ではむろんない。特にレヴィ・ストロースの親族構造をはじめとする構造主義思想に関するより詳細な入門書としては、橋爪大三郎の「はじめての構造主義」(講談社現代新書)を読む方がいいだろう。

 この間に見た映画は、以下の通りかなりの数にのぼるため(実際はこれ以外にも視聴した作品があるのだが、別の記事のなかで採り上げる予定なので、以下のリストからは外してある)、感想は省略して題名と監督名、そして点数のみを記載するに留める。

(帰省前に見たもの)
・「影武者」(黒澤明監督) 3.0点(IMDb 8.0) テレビ放送を録画したもので視聴
・「乱」(黒澤明監督) 4.0点(IMDb 8.3) 英国版DVDを視聴
・「バケモノの子」(細田守監督) 3.0点(IMDb 7.7) インターネットで鑑賞
・「ゴーン・ガール」(デヴィッド・フィンチャー監督) 3.0点(IMDb 8.1) インターネットで鑑賞
・「チャッピー」(ニール・ブロムカンプ監督) 3.0点(IMDb 6.9) インターネットで鑑賞
・「アバウト・タイム」(リチャード・カーティス監督) 3.0点(IMDb 7.8) インターネットで鑑賞
・「スター・トレック イントゥ・ダークネス」(J・J・エイブラムス監督) 2.5点(IMDb 7.8) インターネットで鑑賞

(帰省中に日本で見たもの)
・「彼女だけが知っている」(高橋治監督) 3.0点(IMDbなし CinemaScape3.1点(5点満点) テレビ放送を録画したもので視聴
・「あ、春」(相米慎二監督) 3.0点(IMDb 6.4) 日本版DVD
・「或る殺人(原題:Anatomy of a Murder)」(オットー・プレミンジャー監督) 4.0点(IMDb 8.1) テレビ放送を録画したもので視聴
・「暖簾」(川島雄三監督) 3.5点(IMDbなし、Cinema Scape 3.7) 日本版DVD
・「越前竹人形」(吉村公三郎監督) 3.0点(IMDb 6.8) テレビ放送を録画したもので視聴
・「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」(ビル・ポーラッド監督) 3.5点(IMDb 7.4) 日本版DVD
・「リスボン特急(原題:Un flic=サツ=警察官)」(ジャン・ピエール・メルヴィル監督) 2.5点(IMDb 7.1) 日本版DVD
・「楽日」(ツァイ・ミンリャン監督) 1.5点(IMDb 7.1) 日本版DVD
・「ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!」(エドガー・ライト監督) 2.5点(IMDb 7.0) 日本版DVD
・「本日休診」(渋谷実監督) 3.0点(IMDb 7.4) 日本版DVD
・「非行少女ヨーコ」(降旗康男監督) 2.5点(IMDbなし CinemaScape4.0) 日本版DVD
・「愛と死の記録」(蔵原惟繕監督) 3.0点(IMDbなし CinemaScape3.8) テレビ放送を録画したもので視聴
・「不敵な男」(増村保造監督) 3.5点(IMDb 7.0) テレビ放送を録画したもので視聴
・「海街diary」(是枝裕和監督) 2.0点(IMDb 7.6) 日本版DVD
・「悪魔は誰だ」(チョン・グンソプ監督) 3.5点(IMDb 7.5) 日本版DVD
・「ドリーマーズ」(ベルナルド・ベルトルッチ監督) 2.5点(IMDb 7.2) 日本版DVD
・「ブルージャスミン」(ウディ・アレン監督) 3.0点(IMDb 7.3) 日本版DVD
・「依頼人」(ソン・ヨンソン監督) 3.0点(IMDb 6.9) 日本版DVD

(韓国に戻って来てから見たもの)
・「ばかのハコ船」(山下敦弘監督) 3.0点(IMDb 7.0) 日本版DVD
・「サブウェイ・パニック」(ジョセフ・サージェント監督) 3.0点(IMDb 7.7) 日本版DVD