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 2012年12月17日(月)
 昨日も書いた通り、プルーストの「失われた時を求めて」に続き、この大長編とともに20世紀を代表する文学作品のひとつと高く評価されているジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ Ulysses」に(日本語訳で)挑戦しているところである(もっとも今では私はこれらの作品に対する高評価は、大学教授や文芸評論家などが飯のタネに困らないために作り出した過大評価なのではないかと勘繰っているところでもあるのだが...)。
 プルースト同様、過去に何度か読み進めては途中で挫折することを繰り返してきた難物であり、できるだけスムーズに読み進められるように、そして作品理解を深める目的もあって、今回は「ユリシーズ」に先立って記された「比較的」読みやすい作品だとされる短編集「ダブリンの市民」と中篇小説「若い芸術家の肖像」を読んでから本体に進もうと考え、まずこれらの作品を手にとってみることにした。


 ところが「普通に読める」はずの「ダブリンの市民」からしてが、既に私にはとてもすらすら読んで理解できるような代物では全くなく、一旦作品を自分なりに読んでみた後に、岩波文庫版(結城英雄訳)に収録されている「解題」を参照しながら作品を改めて振り返ることにしたのだが、作品の舞台であるアイルランド(人)と英国(人)を巡る「血塗られた」歴史や同国におけるキリスト教の位置づけ、ダブリンという街の地理や風俗などについて全く知識のない私にはそこで提示されている詳細な読み方など端から出来るはずがないことを思い知らされて呆然とするしかなかった。


 むろん文学作品の解釈において唯一絶対な「正解」などある訳もないが、作者ジョイスが作品の随所に散りばめた数々の仕掛けに全く気付くことなく漫然と文字を追うしかない私には、テキストだけを頼りに作品を読み解くことなど到底出来ないと言っていい。文体や技法、作品構造などにおいて最も伝統的小説に近いと言っていいこの作品にしてこの有り様なのだから、続く「若き芸術家の肖像」や「ユリシーズ」が私には更に近付き難い作品であることは論を俟たない。


 ところで「ダブリンの市民」の最後を飾る短篇「死者たち」はかなり原作に忠実に映画化されており、読書ついでに見直してみたのだが、初めて見た時にもそうだったように、「名匠」ジョン・ヒューストンの遺作にふさわしい風格に満ちた名作だと評されることの多いこの映画も、実のところ私は演出や撮影にもピンと来ずに退屈なだけで、原作同様、未だにどこにこの作品の良さがあるのかよく分らないままである(もっとも私はジョン・ヒューストンとは相性が悪いようで、一応「黄金」や「キー・ラーゴ」などを始め代表作は大体見たものの、余り印象が残っていない)。やはり私のような凡人には世界的な傑作・名作と呼ばれるものを十全に理解し吟味するだけの能力や感性が根本的に欠如しているのかも知れない。


 続いて読んだ「若い芸術家の肖像」(新潮文庫版)には、「ダブリンの市民」に付されているような解題もなければ、「ユリシーズ」のように(あるいは「失われた時を求めて」のように)作品理解を助けてくれるような厖大な訳注もなく、しかも「ユリシーズ」ほどではないもののこの作品には冒頭の童話の文体から始まって、書簡、教科書、日記など様々な文体が駆使されているだけでなく、数多くの詩や民謡、祈祷や説教などが引用され、一時は聖職者を目指して神学の勉強に励む主人公スティーヴン・デダラス(★)の描写にはキリスト教に関わる作者の広範な知識も披露されていて、決して一筋縄ではいかないと来ている。

《★あちこちで指摘されていることだが、主人公のStephen Dedalusは丸谷才一などは「スティーブン・ディーダラス」と表記しているのだが、実際の発音は「デダラス」あるいは「デーダラス」に近いようである(柳瀬尚紀は「デッダラス」と表記している)。》


 そのため、主人公の成長過程を描く教養小説=ビルドゥングス・ロマン(あるいはそのパロディ)の形式を採ってはいるものの、これは予備知識なしに読み進んでいくには容易な作品ではなく、「ダブリンの市民」同様に、アイルランドの歴史やキリスト教の教義、作中に引用・参照される文学作品などに通じていない私は、「ユリシーズ」を読み解く上での参考としたいがためだけになんとか無理やり読み終えたと言っていい。しかし嫌々読んだせいで、後に「ユリシーズ」に再登場する人物の描写もほとんど記憶には残らず、時間を浪費しただけで参考にならなかったというのが正直なところである。

 結局こうした「予習」も悪あがきに終った後ようやく読み始めることになった「ユリシーズ」であるが、先日亡くなった丸谷才一らによる日本語訳で読んでいるにもかかわらず、挿話によっては、本文の長さと比べても決してひけをとらない分量の訳注を頼りにしなければ、そこに何が書かれているのかすら把握できない有り様である。さらにこの作品がその枠組を借りているホメーロスの「オデュッセイア」や、やはり作者が登場人物を造型するにあたって大いに参照し、一挿話ではその解釈をめぐって登場人物たちが文学論を侃侃諤諤と戦わせることになるシェイクスピア作品(特に「ハムレット」)などを念頭に入れておかないと、作者の意図したものの一端すら把握できないことになるらしい。


 そこで今回は用心に用心を重ねて、上記「ダブリンの市民」の訳者・結城英雄氏による「『ユリシーズ』の謎を歩く」であらかじめ粗筋や予備知識を頭に入れてから作品本体に取り組み、かたわらに「オデュッセイア」と「ハムレット」を置きながら、厖大な訳注を参照しつつ作品を読み進めていくことにした。集英社文庫版の巻末にはダブリン市街や近郊の地図も載せられており、読者が作者ジョイスの記述にもとづいてその地図を目で追いつつ読書を進めていくことを念頭に入れて、訳注には登場人物たちの足取りやどの店がどの通りにあったのかといった地理上の説明も細かく記述されている。つまるところ、プルーストの作品において「時間」が本当の主人公であったように、「ユリシーズ」という作品の真の主人公とでも呼ぶべき「ダブリン」の相貌が、作者ジョイスの導きによって読者の前に徐々に姿を現していくという仕掛けなのである。


 もっとも子供の頃からあらゆる教科のなかでも地理が最も退屈(かつ苦手)であった私には、実際に訪れたことのない街の地図を見てあれこれ想像して楽しむような旺盛な想像力や習慣がもともとない上、なによりも本文の比較的大きな文字ですら老眼のせいで読むのに難渋しているのに、さらにゴチャゴチャと細かい地図を目で追うのは拷問に等しいと言っても良く、結局今までこの地図をちゃんと眺めたことすらないというのが悲しき実態である。
 結局私のように教養にも欠け、理解力や想像力にも乏しい人間がこの種の作品を読む上で興味を持ちうることと言えば、せいぜいが食べ物や動物(この作品では猫)など、卑近なものに関する記述でしかない。まだ全4巻のうちの1巻を読み終えただけであるが、これまで読んだ部分で本心から興味を覚えたと言えるのは、第4挿話「カリュプソ」のなかの以下のような部分でしかない。

 《ミスタ・レオポルド・ブルームは好んで獣や鳥の内臓を食べる。好物はこってりしたもつのスープ、こくのある砂嚢(すなぶくろ)、詰めものをして焼いた心臓、パン粉をまぶしていためた薄切りの肝臓、生鱈子のソテー。なかでも大好物は羊の腎臓のグリルで、ほのかな尿の匂いが彼の味覚を微妙に刺激してくれる。》

 《バックリーの店にもないだろうな、うまい羊の腎臓は。バターでいためて、胡椒をふりかけて。いっそドルゴッシュの店で豚の腎臓を買って来るか。》

 《舐める速度がにぶり、皿をきれいにしゃぶりはじめた。猫の舌はどうしてああざらざらしているのか? しゃぶりやすいように、一面にこまかい穴がある。》

 《ミスタ・ブルームは、愛情をこめてしげしげと、そのしなやかな黒いからだを眺めていた。清潔な感じ。なめらかな皮膚の艶、尻尾のつけ根の下に見える白いボタンのような尻の穴、きらめく緑いろの目。(中略)彼女は貪欲な両目を恥ずかしそうにつぼめながら見上げ、訴えるように長くミューと鳴いて乳白色の歯並を見せた。眺めていると黒い細長い目が欲望のためにますますせばまり緑いろの宝石二つだけになった。》

 《鼻をつく煙がフライパンの片側から怒ったように吹きあげていた。フォークのさきを腎臓の下に押し込んで鍋底から剥がし、ごろりと裏返した。ほんのすこし焦げただけだ。彼はそれを鍋から皿の上にほうり出し、わずかしかない茶いろの肉汁をそそぎかけた。
 さあお茶だ。彼は腰をおろし、パンを一きれ切ってバターを塗った。腎臓の焦げたところを切り取って猫に投げてやった。それからフォークで大きな一きれを口に入れ、香ばしいしなやかな肉をよく味わいながら噛んだ。ちょうどいい焼け具合だ。紅茶を一口。それからパンを賽の目に切り、その一きれを肉汁にひたして口に入れた。(中略)彼はかたわらに置いた手紙の折り目をのばし、ゆっくり読みながらパンを噛み、次の一きれを肉汁にひたしてまた口もとへ持って行った。》

 《猫は全身の毛をきれいに舐め終って、また腎臓の血のついた包み紙のところに帰り、鼻で嗅いでからゆったりとドアに向って歩いた。彼のほうを振り返って、ミューと鳴く。外へ出たいらしい。ドアの前で待ってればいつかは開く。待つがよかろう。そわそわしてる。電気のせい。雷が来るのか。そういえば火に背を向けてしきりに耳を洗っていた。
 ずっしりと満腹した感じだった。そして腸がしずかにゆるんできた。彼は立ちあがり、ズボンをゆるめた。猫が彼に向って鳴いた。》
 (この後、主人公のひとりであるレオポルド・ブルームはトイレに立って排便するのだが、彼が痔にならないよう用心しつつ新聞を読みながら脱糞し、最後に新聞紙の切れ端で尻を拭う場面はあまりに下品なためか、結城英雄氏の解説によれば、この作品が最初アメリカの雑誌「リトル・レヴュー」に掲載された際には編集者のエズラ・パウンドによって削除されてしまったそうである。)

 肉屋で買ったばかりの豚の腎臓をバターで炒め、少し焦げ気味の味と食感を味わいつつ、薄切りのトーストにバターを塗って口に入れる。濃い目に入れた紅茶に毎朝配達される新鮮な牛乳を注ぎ、紅茶の香りを吸い込みながら口直しに一口すすってみせる…。
 ただでさえ外食を滅多にしない上、たとえどこかの店で食べるにしても韓国料理かせいぜい韓国風中華くらいしか食べることのない今の私にとっては、こうした欧米風のなにげない食べ物がひどく美味しそうに思えてならない。腎臓の「ほのかな尿の匂い」が果して本当に「味覚を微妙に刺激してくれる」ようなものであるかどうかは別として、私はロンドンの場末のパブなどで食べたSteak & Kidney Steak Pieの味や「ほのかな尿の匂い」さえをも懐かしく思い出す。


 こうした「美味しい」記述がこれからも次々と現れ、楽しみながら「ユリシーズ」を読み通すことが出来ればいいのだが、吉田健一の「文学に出てくる食べもの」という随筆によれば(光文社文庫「酒 肴 酒」所収)、「ジョイスのバタいためは『ユリシーズ』の初めの方に出て来るので、もっと先の方にどんな御馳走の話が待ち受けているかと思って読んで行っても、七、八百ページもある小説の終りまで、全く何もない。余り食べもののことを書くのは高級な文学者がすることではないとでも思ったのだろう。馬鹿な奴である」というのだから、余り期待できそうにはない(★★)。
 今しばらく、苦行が続きそうである。
《★★吉田健一は続けて、「もっとあとの方に、ブルームがダブリンのどこかの食堂で昼の食事をするところがあるということになるのだろうが、この昼の食事程まずそうに描写された食事の場面はまだ読んだことがない」ということなので、ますます期待できそうにない。》