こんにちわ ゆうじです。

 

こちらの話を、先に書いておかないとすっきりしないので、書いておきます。

 

瞑想をやると、「魔境」に陥る恐れがあるとは、某宗教家の本で見たことはあるのですが、どういうことだろうと思っていたものです。

一般的な定義がどうかとウィキ君で見てみますと、ウィキでも書きかけの様です。こんな感じ。

 

魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。ユング心理学で「魂のインフレーション」と名づけられた状態だという指摘[誰?]もある。

 

概要

臨済は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えている。これは、瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果「自分はすごい人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまうのを防ぐ、すなわち魔境に入ってしまう状態を防ぐための教えだとされている。

実際に光のようなものが現れても、それは単なる脳内の視覚野の発火現象であるという意見[誰?]もある。

 

魔境とは、能力覚醒時の神秘体験によりエゴが肥大化しバランスを崩した状態のこと?

 

神秘的な体験にも否定的と受け取れますが、宗派によってはそうなのかもしれない。

 

ここのところ、話題にしているスマナサーラ長老が、ワンネス体験について語られているのがYouTube(23:20位から)にありました。

阿羅漢と慈悲/後悔と懺悔/瞑想中の一体感/家族を着信拒否するのは悪業か/なぜ邪見は重罪なのか

瞑想体験として起こり得る。サマディ状態で互いに知る知られる自他の差が消えるという話をしています。

ただ、経験は経験として、それ以上哲学するな、それについて考えすぎるな、妄想するな。体験に執着するなよ。とくぎを刺しています。人に語って商売するな。とも云ってますね。

瞑想体験を、素直に日常に生かせば良いだけだと語られています。

 

素晴らしい経験をしたものが、自分を素晴らしいすごいと妄想するのかな?

私など、性根の曲がったものは、単純に素晴らしい経験をする人が素晴らしいとは限らないから、とか思ったりします。

素晴らしい作品の作者が、全員素晴らしいとは限らないじゃないですか(笑)

もちろん、素晴らしい人もいるんですけど、そうではない人、そうでなくなる人もいるよねと。

それが解ると、何故か一斉攻撃です。結局、自分の中のイメージが崩れただけなんですよね。

(自分もそれで良くイラっとしてしまうので、これは自嘲です。)

 

単純に瞑想中の体験で「自分はすごい人間だ」と思ってしまうことがあるだろうか?仏教の中には、エゴを無くすことがあったはずなのに、エゴを無くすための瞑想ではないのだろうか、何故?という疑問もあります。

 

でも、人間というものは、解っていてもやってしまう。むしろ、だからそういう体験を引き寄せるのかもしれないと小池龍之介さんの懺悔を読みながら思ったりしました。

 

解脱失敗とその懺悔――小池龍之介さんからの電話

(以下、青字抜粋)

解脱に近づいていることを、書籍をはじめ様々な媒体で言ってきましたが、それは修行者が陥りがちな『魔境』のような状態で、自分がもうすぐ解脱できるという妄想になっていたようです。

 

【解脱失敗】小池龍之介氏(空朴)の懺悔動画の要約と感想

(以下、青字抜粋)

インド瞑想紀行について再び。
「ゴータマさん」と呼んで侮辱している部分があった。
 妄想的なビジョンのために、ゴータマ・シッダールタこそ最凶の罪人であり、仏教に対する反逆者であると思い込んでいた。

 妄想的ビジョンの中では、真の解脱したブッダはゴータマではない別の人だった。
 ゴータマとデーヴァダッタ(小池)はその人の弟子だった。
 ブッダが亡くなった後に、ブッダの教えを純粋なまま守っていこうとするグループと、新しくて受け入れやすい理論体系を広めていこうとするグループとに分かれた。
肉食を避け路地で生活していた人々(デーヴァダッタ含む)と、そうでないゴータマ派との間に論争が起こり、デーヴァダッタ(小池龍之介)が裏切り者のレッテルを貼られて殺された。
 デーヴァダッタ一派は皆殺しにされ、そのようにして現在の仏教が出来上がった。
 シッダールタこそが裏切り者だった。
 一部の人にこのビジョンを教えたところ、疑わしい、新興宗教のようなものに洗脳されそうになっていると言う人もいたが、2、3人の人は信じてしまった。
 妄想を語ってしまったので、お詫びしたい。
 このようなビジョンは忘れてほしい。
「真のブッダ」「傲慢で嘘つきなゴータマさんがいる」などという表現を本の中で使用して申し訳ない。

 

小池龍之介さんの正直さが、私には凄いなぁ。と心の底から感心します。

でも過去生体験そのものは否定することはなくて、もしかするとデーヴァダッタ自身がそう思い込んでいたから起きたことかも知れませんよね。デーヴァダッタ自身の妄想を、デーヴァダッタとして追体験するとこんな考えになるよな。と思いながら読みました。

 

ではでは、このへんで

 

「仏見たなら仏を殺せ」については、こんな記事も書いてます。

こちらは、魔境によるものではありませんので、同じ臨在宗の言葉でも解釈は複数あると思われます。

もしくは、段階によるものかもしれません。

 

仏に逢えば仏を殺せ

仏に逢うては仏を殺せの異なる解釈