こんにちわ ゆうじです。
そういえば、真人って聞き覚えがあるなと思い出した。
封神演義に太乙真人とか、玉鼎真人とか、普賢真人とか出てました。
(普賢真人が、自分を犠牲にするシーンには泣けました。)
仙人や妖怪の戦いのなのだから、当たり前ではあるが、もはや仙人というより神に近い。
![]() |
封神演義 完全版 1 (ジャンプコミックス)
100円 Amazon |
悲しいかな、人の理想とした真人が、いつしか仙人の神の称号となっている。
荘子自身も、南華真人の敬称を与えられていたりするが、望んだことではないだろう。
日本では、最高位の姓として、天皇・皇子の子孫に与えられたのは、なんともはやである。
で、真人ってどんな感じか詳しく書いてるのを探します。
ここから、内篇:大宗師篇「真人」についての翻訳として、岸陽子の翻訳を紹介します。
理想ではありますが、人が理想とすべき態度という所でしょうか?
太古の世には真人がいた。かれは、逆境にも不満を抱かず、栄達を喜ぶでもなく、万事をあるがままにまかせて作為を施そうとしない。失敗しようとも気に病まず、成功しようとも得意がらない。断崖のふちに立ってもおののかず、水に濡れず、火にも焼けない。これほどまで「道」と一体化しているのが、真人の真知である。
真人は、寝ても夢を見ることなく、目覚めているときも放心状態で、物を食べても味など感ぜず、足の踵からゆったりと呼吸していた。だが、現代に生きるわれわれはどうであろうか。われわれの呼吸たるや、ただ喉元で忙しくあえぐばかり、議論における発言たるや、敗残者の悲鳴さながら;欲望の深さが生命力を涸渇させているのだ。
真人は、生に執着せず、死をも忌避しない。この世に生を受けたからといって喜ぶこともなく、この世を去るからといって悲しむでもない。ただ無心に来たり、無心に去り行くのみである。自身の存在をも一個の自然現象とみなし、死についてあれこれと心を煩わせない。あたえられたいっさいを素直に享受し、しかもいっさいに執着を抱かずこれを自然に返す。知によって「道」を損なわず、人為によって自然を傷つけぬとは、このことである。真人とはまさしくこのような存在であった。
真人の心は、無心そのもの。その挙措は動きの跡をとどめず、その額は高く秀で、秋のように厳しく、春のように和やかである。その感情の動きは四季の推移の如く自然であり、その精神のはたらきは変転する外界の事象に応じて限りない自在さを示す。
真人は、変転する外界の事象に自在に応じてゆくが、けっして徒党を組もうとしない。人に先んじようとはせぬが、かといって意識的に下風に立とうとするわけでもない。つねに独自性を失わぬが、かたくなではない。いっさいを受容するおおらかさを保って、しかも素朴である。
顔色はいかにも晴れ晴れとして屈託なさそうだが、動作はつねに控えめである。時に憤然と色を変ずることがあっても、その本性はなんら損なわれることがない。自己を固執せず世俗と同化しながらも、世俗を高く超越している。深い思索に没入しているかに見えて、無我の境地を逍遙する。
かれは身体を「刑」とみなし、「礼」を衣服とみなし、「時」すなわち時々刻々の変化を知とみなし、「循」すなわち自然の摂理を徳とみなす。
身体を「刑」とみなしているから死を従容として受け入れる。「礼」を衣服とみなしているから世俗の規範に逆らおうとはしない。「時」を知とみなしているから、事象の変化に順応できる。「循」を徳とみなしているから、いともやすやすと自然な本性に返ることができる。
真人はこのように自然のままの存在であるが、よそ目にはそれが努力の結果到達し得た境地のように映るのだ。
この真人の存在が示すように、われわれが好もうと好むまいと、あるいは認めようと認めまいと、天と人は一体なのである。ただ、それを悟ったのが「天の徒」であり、悟れずにいるのが「人の徒」であるという違いがあるにすぎない。
人であると同時に天でもある存在、これが真人にほかならぬ。
ではでは、このへんで
