こんにちわ ゆうじです。
タイトルは竜頭蛇尾か、羊頭苦肉の感じです...
「これまでは『対象が認識より先に存在する』と考えられていたが、実際には『認識が対象より先に存在している』のである」…という考え方の変わりようを、先ほどのコペルニクスの例になぞらえて「コペルニクス的転回」と呼んでいる。
これを非物質探索に使えないか?応用できないか?ということです。
既にある認識を使って、非物質探索って今と同じじゃないか?何が違うん?と思いのあなた、そうですよね。でも、既にある認識を積極的に使う処なんだけど、
で、真っ先に、頭に浮かんだのは、レベル4でゆきのさんが使ってた手法。
ドラゴンボールのスカウターみたいなやつです。切り替えができるタイプで、ただし見るのは戦闘力ではありません。フィルターを変えて見るだけではあるのですが、最初イチャイチャしてる男女が、フィルターを変えると2種類の粘菌が絡みあっていたとかいう話みたいなやり方です。
ここまで書いて、もう少しカントの思考を知りたくなりポチしてしまいました。
(ちょっとつまみ食い的に若干要約して以下の青字を引用します。)
認識の客観性についてはデカルト依頼の「主客一致の問題」がありました。そして、主客一致が不可能とし、科学すら客観的知識ではないと主張したヒュームに対し、カントは、どうやって「認識の客観性」を再建しようとしたんでしょうか?
カントの基本戦略は、二つ。
(1)主観が主観の外に出て客観世界そのもの(物自体)に一致することはできないということを積極的に認める。
(2)どの主観も一定の共通規格(共通のメガネ)を持っているので、自然認識の基本的な部分(因果律、質量保存の法則など)については共通認識=客観的認識が成り立つ。
(1)(2)をまとめると
「客観世界への一致は不可能だが、世界について皆が共有しつつある認識は成り立つ。なぜなら、どの主観も一定の共通規格を持っている(共通のメガネをかけている)」
これを非物質探索に当てはめてみる。
(1)は、前回の記事のままなので、(2)についてはどうでしょうか?
どの主観も一定の共通規格(共通のメガネ)を持っている
これも前回の記事にあるものではありますが、ゆきのさんのスカウターのように認識しやすい形でトライ&エラーしてみる。認識できる形は、一つではないのです。
ただ、これを意図的にやるということ自体、想像力を使うやり方と相性が良いと思うのです。
体験全体に対して、これを一部や全体に対してこれをやるのがリセットボタンなら、これは対象や一部のみでリトライを前提にしているところが違います。
ただ、共通規格といっても、非物質でこれを持つのは容易ではなく、カント先生が形而上学(事物の存在、魂の存在、神の存在などを根本的に論じる)がそもそも不可能とした話でもあるようです。とはいえ、カント先生も強引な論理とかもあるみたいですよ。
だからこそ、ブルースの非物質探索に共同探索が含まれるのでしょうか?
なんてな
ではでは、このへんで
