こんにちわ ゆうじです。

 

「意識は傍観者である」とは、どういう意味だろうか?の続きです。

 

 

 

 

「意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説」を見ると、いくつか面白い仮説があります。

私たちの意識は、無意識の小人の自立分散的な情報処理によって、ボトムアップ的に行動の元型が作られる。と考え、これを心の地動説なんて云ってます。

 

受動意識仮説とは、

意識は、無意識化の自立分散的情報処理結果に受動的に意識を向け、あたかも自らが行ったかのように幻想体験し、エピソード記憶するための(無意識に対して受動的な)存在

 

これを別なところでは「意識」は「無意識」の結果だけを見ているだけと考える心のモデルとしています。

 

従来の比較で云うと、ワンマン社長のように「意識」がすべてをコントロールすると考えるところから、社史編纂室長の立場のようなものとしています。

 

社史編纂室長の立場で考えると、「意識は傍観者である」ということが解りやすいのではないでしょうか?

 

ブルースが、解釈者と云った側面の機能を主役にした話とも云えます。異なるのは、無意識の小人が、完全にエピソード記憶を持たない存在にしてしまっているせいではないでしょうか?

ブルース的に考えると、複数のエピソード記憶に一貫性を持たせたような存在もいるのだろうし、エピソード記憶をほとんど持たない無意識の小人以外に、エピソード記憶を持つ無意識の小人もいるのではないだろうか?

そもそも社史編纂室長とされた「意識」は、一つしかないのだろうか?

この仮説の中で触れられていないのは、自我意識が育つ過程が考えられていない所、完成されたシステムから語っている点も不満な所です。

 

でも、「意識」とエピソード記憶を紐づけることで、多重人格者の主人格が、他人格の行動中の記憶を持たない説明になりそうで面白いなと思ったのですよね。これ。

 

ではでは、このへんで